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2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。

自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。

そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。

本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。


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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第八回

"林沖、滄州へ流罪となる/魯智深、野猪林で大乱闘"



高俅:「滕府尹(とう・ふいん/Téng Fǔyǐn:開封府の長官)に申し渡せ!よく取り調べ、しかるべく処断せよと!この宝刀も封じて送りつけろ!おそらく、これは当家から不正に盗み持ち出したものだ!」


 権力者というものは、わざわざ“手続き”という殻をかぶせてから人を殺したがる。高俅(こう・きゅう/Gāo Qiú)も例外ではなかった。というより、その道の専門家であったと言うべきだろう。

 簡単なことだ。高俅が罪と証拠をでっちあげ、捏造した物語を世間に流布すれば良い。あとはその噂を新しい証拠にして、銭と一緒に開封府(かいほうふ/Kāifēng Fǔ:開封=東京の最高裁判所)にちょっとばかり耳打ちをすれば良いだけだ。

 この時の林冲(りん・ちゅう/Lín Chōng)は純粋な男ではあるが、決して愚かではない。この出来事が高衙内に関して起きたものであること、そしてもう自分の運命が決まったも同然だと悟っていた。

 林冲が、縛られたまま開封府へ引き立てられていく。開封府庁舎は、その日も“見せ物としての威厳”に満ちていた。


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绯罗缴壁,紫绶卓围。当头额挂朱红,四下帘垂斑竹。官僚守正,戒石上刻御制四行;令史谨严,漆牌中书低声二字。提辖官能掌机密,客帐司专管牌单。吏兵沉重,节级严威。执藤条祗候立阶前,持大杖离班分左右。户婚词讼,断时有似玉衡明;斗殴是非,判处恰如金镜照。虽然一郡宰臣官,果是四方民父母。直使囚从冰上立,尽教人向镜中行。说不尽许多威仪,似塑就一堂神道。


深い紅色の羅(うすもの)が壁に張られ、

紫の綬帯(じゅたい)が堂内を囲むように飾ってある。

正面には朱色の額が掲げられ、

まわりには斑竹(はんちく)の簾が静かに垂れている。

官僚たちは正しさを守り、

戒石(かいせき)の上には、皇帝みずからの四行の御製(ぎょせい)が刻まれている。

令史(れいし/文書役人)は厳粛で、

黒漆の札には“中書”の二文字が小さく記されている。

提辖官(ていかつかん/監察役)は機密を扱い、

客帳司(かくちょうし/台帳管理の役)は出入りの記録を専らにする。

役人も士兵も引き締まり、

身分ごとの規律も厳しく整っている。

藤条を持った従者は階前に控え、

大杖を持つ者は列を成して左右に立つ。

戸籍・婚姻・訴訟などの裁きは、玉の秤のように明らかで、

争いごとの是非を判断するのは、まるで金の鏡で照らすかのように正確だ。

一郡を治める長官とはいえ、

実に四方の民を父母のように導く存在である。

たとえ囚人に氷の上に立たせようとも、

人々にはまっすぐ鏡の前に立つような正しさを教えるのだ。

その威儀は言い尽くせぬほどで、

まるで堂内に神々の像がそびえているかのようである。

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 そんな“正義”の舞台で、役人たちは静まりかえり、吏(り:事務官)も兵も、張り詰めた空気の中で立ち尽くす。そのもとに、林冲は膝をつかされる。

 直後、一斉に喝堂威(かとうい / hè táng wēi)の儀が響き渡る。


「威―――武―――!(ウェイ―――ウ―――)」


 堂上に響くのは、地の底から湧き上がるような、長く引き延ばされた低音である。両側にずらりと並んだ衙役(がえき:下級役人)たちが、口を揃えて発するその声は、もはや人間の声というより、「法」そのものが唸りをあげているようである。


ドン!

ドン!

ドン!


 声に合わせて、彼らが手にした朱と黒に塗り分けた水火棍が、石板の地面を規則正しく突く。重い音が胴体に響き、足の裏から振動が伝わってくる。まるで、この開封府の正堂そのものが、巨獣の心臓のように鼓動し始めたかのようだ。

 堂の中央に立たされた林沖。武芸を極めて肝の座った彼でさえ、その音と響きに、思わず背筋が凍りつく。眼前には、高い机の後ろに、漆黒の官服をまとった滕府尹の姿。

 滕府尹がゆっくりと口を開く。


滕府尹:「林冲。お前は八十万禁軍(はちじゅうまんきんぐん/皇帝直轄軍)の教頭(きょうとう:武芸指南役)であろう。法度も知らず、利刃を帯び、白虎節堂に踏み込んだ。しかも、その宝刀は高太尉の邸宅から先日盗まれたものと同様だ。これは死罪に値するぞ。」


 林冲が毅然とした態度で頭を下げる。


林冲:「恩相(おんしょう:高官への敬称)、どうか“明鏡”でご覧くだされ。たしかに小人は粗野な軍人でございますが、法度を知らぬほど愚かではございません。節堂に勝手に入るなど、正気の沙汰ではない。」


 そして、林冲は少し押し黙って考えた。高太尉の養子・高衙内(こう・がない/Gāo Yáneì)と妻・張娘子とのいざかいを告発するべきか?同僚の陸謙(りく・けん/Lù Qiān)が関わっていることを伝えるべきか?そして、この汚い陰謀の背後に高太尉が糸を引いていることを訴えるべきか?……

 いや、それは賢明ではない。まず、証拠がない。自分の人望があれば情には訴えられるかもしれないが、理を重んずる開封府には通じないだろう。しかも、その開封府が高太尉と癒着しているという裏事情を否定しきれない。表向き、開封府は皇帝ですら関与できない独立した司法機関であるが、ここ最近の裁きは明らかに高太尉の「都合」が見受けられる。ここで下手に高太尉を批判するようなことを言えば、自分がわずかに助かる道もなくなる。

 それに——何より林沖が気にかけたのが、高衙内、陸謙、高太尉を告発することによって、家族や友人たちに累(るい:災い)が及ぶということであった。今、自分は動くことができない。高太尉らは簡単に家族を害することもできよう。また、この状況を受けて、知り合ったばかりの義兄弟・魯智深が立ち上がってくれるかもしれない。だが、彼とて本来であれば手配をされている身。余計な騒ぎを起こせば彼の過去が露呈し、自分と同じように捕まってしまう……


滕府尹:「どうした。申し開きはそれだけか?」

林冲:「いえ……」


 林冲が顔を上げて続ける。


林冲:「この出来事の背後に誰がいるのかは分かりません……私の禁軍での立場が気にいらなかった者か、あるいは私が武芸を教えた者の中に何かのきっかけで恨みを抱いた者か……いずれにせよ、今回の騒動、私が愚かであるがゆえ、何者かの罠にはめられたことに気づかなかった、というのが真相でございます。」

滕府尹:「なぜ、そう言える?」

林沖:「まず、確実に証拠のある事実をお伝えします。宝刀は町中で刀売りから手に入れたもの。この光景は町の人々も見ており、多数の証人が見つかるでしょう。そして、その翌日、『高太尉の命を受けた二人の承局』なる、見知らぬ二人が我が家に参り、“刀を携え、府へ来て比べて見せよ”と語りました。こちらの状況は私の妻と使用人の錦児(きんじ/Jǐn’er)らが証言してくれるでしょう。私はその二人の承局の言葉を信じて、この者たちと共に高太尉の邸宅へと向かいました。その私と二人の承局が歩いている光景についても、道中で多くの顔見知りを確認したため、多数の証人が見つかるはずです。」

滕府尹:「ふむ。それが本当であれば、お前が宝刀を高太尉から盗んだという罪は消える。承局を称した者の存在や言葉も、ある程度であれば証明できよう。だが、お前にはもともと反逆の兆しがあったという報告も受けている。それはどう否定する。」

林沖:「要職に就く者には妬みなどから様々な噂が絶えません。もし私に反逆の意が本当にあれば、それをすでに実行しているでしょう。わざわざ刀を持って白虎節堂へ立ち入るという真似はしません。どうか、滕府尹どの、この一件の“筋”をお見抜きくださいませ。」


 滕府尹は黙って聞き終えると、いったんその場での判断を避けた。


滕府尹:「ひとまず返答は保留とする。林冲には枷(かせ)・杻(ちゅう:手枷足枷)を掛け、牢に下しておけ。」


 そして、こっそりと刑具が運ばれる。林冲は長枷をかけられ、牢へ収監された。家からは差し入れの飯が届き、妻の父・張教頭(ちょう・きょうとう/Zhāng Jiàotóu)は金を使い、上へ下へと走り回った。

 このとき、開封府には、一人の当案孔目(とうあん・こうもく:事件担当の書記官)がいた。姓は裴(はい/Péi)、名は宣(せん/Xuān)あだ名は──鉄面孔目(てつめんこうもく)。あだ名の通りの剛直な気質の持ち主で、人を助けることを好み、“できる限り冤罪を晴らしたい”と願う男である。

 裴宣は明哲ゆえ、この件の裏を開封府の者の誰よりも見抜いていた。彼が滕府尹に進み出て進言する。


裴宣:「この件、林冲は明らかに冤罪にございます。どうにか彼を生かす道をお取り計らいください。」


 滕府尹の顔が曇る。


滕府尹:「しかし──高太尉自筆の“仰定罪(ようじょうざい:罪を厳定せよ)”の批文が出ておる。“利刃を持ち、節堂に入り、本官殺害をもくろんだ”とある以上、生かしてはおけぬだろう。」


 裴宣は、あえて一歩踏み込んだ。


裴宣:「この南衙開封府は、天のものにございましょうか。それとも、高太尉の“私邸”でございましょうか。」

滕府尹:「なにを言う!」

裴宣:「都中の誰もが知っております。高太尉は権勢を笠に着て、あらゆる悪事を重ねております。少しでも気に障る者があれば、すぐに開封府へ送り付け、殺せと言えば殺し、えぐれと言えばえぐる。これでは、ここは“朝廷の裁きの場”ではなく、高太尉の“私設処刑場”ではございませんか。」

滕府尹:「貴様はわしがそれに加担しているとでも言うのか!」

裴宣:「落ち着いてください。私も私なりに、政治が綺麗事ばかりではないということは承知しております。誰かが加担している、加担していない、そんなことはどうでも良いことなのです。そして、正義が果たされるか、果たされないかということも……はっきりと言えば、これは国の駒となる人々にとって大きな問題ではありません。重要なのは……自分が真に納得ができる行動を取れるか、どうか。そうではありませんか。滕府尹どの、このまま無辜(むこ:無実の者)の林教頭を処刑して、ご自身を納得させることができますか?あれほど義に厚く、礼に正しく、武に優れたる者を、高太尉のような奸臣のために殺して、穏やかに眠ることができますか?」


 裴宣の言葉に、滕府尹はしばらく黙り込んだ。

 額に浮いた汗を、袖でぬぐう。


滕府尹:「……では、どうすればよい。」

裴宣:「林冲の供述と証拠をもとに考えれば、今回の件ではっきりと罪に問えるのは“腰に刃物を帯びたまま、誤って節堂の前まで来た”ことだけ。これをもって——」


 裴宣が言葉を続けようとした、その時である。


官人:「少し、よろしいでしょうか。」

 低く澄んだ声が、奥から差し込んできた。

 滕府尹と裴宣がはっと顔をそちらへ向ける。

 そこには、いつから居たのか分からぬ一人の官人が、壁際で静かに拝礼をしていた。

 年は四十がらみ。衣は質素、官位を誇る装飾は一切ない。だが、背筋は自然に伸び、目は穏やかながら、奇妙な奥行きを湛えている。


滕府尹:「……失礼。そちらは?」

宿元景:「滕府尹、お初にお目にかかります。宿元景(しゅく・げんけい/Sù YuánJǐng)と申します。枢密院より、いくつかの重要な案件を見聞するよう命を受けて、特別に立ち会いを許されております。認可の書もこの通り。」


 滕府尹と裴宣が一瞬、目を見開く。

 名を聞いたことがある。“影のように善良さを尽くす”ことで有名な男だ。皇城司(こうじょうし:皇帝直属の諜報・治安・暗部統括局)に席を置く官僚で、複雑な問題が起きるとふと顔を出して所見を述べる。

 宋の朝廷における複雑な組織の勢力を縫うように動き、物事を良い方向へと導くきっかけをもたらしていく。それでいて本人はまったく野心がなく、目立とうとも地位を上げようともしないため、不毛な派閥の闘争にも巻き込まれていない。


裴宣:(仁宗治世に後世へ踏襲された何らかの密命があり、その密命を引き継いで、かなり多くの秘密の特権を持っている人物だとも言われているが……これはまた興味深い官人と顔を合わせたものだ。)


 裴宣も拝礼を返しながら、そのようなことを考える。

 宿元景は静かに顔をあげて、続ける。


宿元景:「続きを。裴孔目の意見は実に筋が通っています。」


 裴宣は再び一礼し、滕府尹をちらりと見る。

 滕府尹が宿元景の書から目をあげてうなずいたので、裴宣が続ける。


裴宣:「こうしましょう。礼儀を知らぬ軍人の不始末として、脊杖二十回の上、遠方の牢城へ流罪。この程度が妥当かと。」


 話が終わると、室内に沈黙が落ちた。

 宿元景は、しばらく何も言わなかった。

 ただ、指先で机を軽く叩き、何かを数えるように目を伏せている。


宿元景:「……滕府尹どの。」

滕府尹:「は、はい。」

宿元景:「この件、高太尉の仰定罪がある以上、“無罪”にすることはできません。しかし——“反逆の意あり”という文言は、証拠が薄い。そのまま死罪にすれば、後年、必ず記録に残ります。そして記録は……時に人を守り、時に人を刺すことになるでしょう。」


 その言葉に、滕府尹の喉が鳴った。


宿元景:「高太尉が望むのは、林冲の“死”ではなく——東京からの排除でしょう。そうではありませんか。」


 沈黙。


宿元景:「裴孔目の案は、法を折らず、情に溺れず、そして、誰もが“引き返せる余地”を残します。」


 少し間を置いて、こう付け加えた。


宿元景:「私ならその裁きを是としますね。」


 それだけ言うと、宿元景はそれ以上何も語らなくなった。

 滕府尹は深く息を吐き、ゆっくりとうなずく。


滕府尹:「わかった……その案で行こう。」


 滕府尹はうなずいて、この案を胸に高俅のもとを再三訪ねた。

 高俅も、こうして理路整然と説かれるとさすがに分が悪いと悟る。完全な冤罪を正面から押し通すのは骨が折れる。できないことはない……しかし、滕府尹や世論を無視すれば、後々面倒になる。

 そもそも、高俅の当初の目的は愚かな義理の息子・高衙内の歪んだ情欲を成就させるということのみ。林沖が東京からいなくなれば、それで目的は達成できる。

 こうして最終的に、高俅は滕府尹の案に譲歩することにした。


高俅「ふん……よい。今回はそちらに任せる。」


 その日——

 滕府尹は、再び庁で裁きを開いた。


滕府尹:「林冲。長枷を外せ。刑吏が枷を外す。お前の罪状──“腰に利刃を帯びたまま、白虎節堂に踏み込んだ不始末”。これにより、脊杖二十。その上、滄州(そうしゅう/Cāngzhōu)牢城へ遠流とする。」


 林冲は、黙ってその言葉を聞いた。

 刑吏たちが、彼をうつ伏せにさせ、太い棒で背を二十度、打ちつける。皮は裂け、血が滲む。

 だが、まだ命を奪うほどではない。

 次に、文筆匠(ぶんぴつしょう:入れ墨師)が呼ばれ、林冲の両頬に罪名を刺青した。それは“金印(きんいん)”と呼ばれる、徒流(ずりゅう:流罪者)に押される烙印であった。

 さらに──

 七斤半(しちきんはん)の団頭(まるがしら)鉄葉護身枷(てつようごしんかせ)が、首にかけられる。重い鉄の輪に、分厚い鉄板が張り付いた枷。それは、「お前は国家の囚人だ」と公示するための標識でもあった。

 そして、滄州牢城へ送る牒文(ちょうぶん:公式文書)を書き上げると、護送役として二人の防送公人(ぼうそう・こうじん:護送吏)が選ばれた。

 彼らの名は董超(とう・ちょう/Dǒng Chāo)、薛霸(せつ・は/Xuē Bà)である。

 董超と薛霸は、文書と囚人を引き受けて開封府を出た。門の外には、近所の者たちや、妻の父・張教頭(ちょう・きょうとう/Zhāng Jiàotóu)が待っていた。ここにいるほとんどの者が内心で林沖の冤罪を知っている。そして、凶悪な高俅の影に気づいている。だから彼らの涙には、悲しみと怒りが同居していた。

 旅立ちの前、州橋(しゅうきょう)近くの小さな酒楼に席を取り、林沖と張教頭が腰を下ろした。

 林沖が口を開く。


林冲:「今回の裁定を聞く限り……裴孔目(はい・こうもく)ともうひと方……たしか宿城司(しゅく・じょうし)という方が、公平に案件を取り扱ってくださったようです……本来であれば審議もなく死罪になりそうなところ、私の罪をよく考慮してくださり、……こうして命を長らえることができました。」


 林沖は慎重に言葉を選んだ。護送役の二名もそばに立っているからだ。彼らは間違いなく高太尉に与する者である。流刑地まで厳重な監視を行うに違いない。

 張教頭もそれに気づき、余計なことは何も言わず、酒保に酒と肴と果物を用意させ、護送役二人にもなみなみと振る舞った。

 またしばらく酒が進んだところで、張教頭は銀を取り出し、二人の公人に「道中の手当て」として渡した。

 林冲は、そこでまたこう言った。


林冲:「泰山(たいざん:義父上)、今年は、私にとって“厄年”にございました。妻が運悪く騒ぎに巻き込まれ、結果として……このような裁きを受けることになりました。ここで一つ、お願いがございます。泰山には、これまで身に余るご厚意をいただき、令嬢を妻として迎えてから、三年。子は授かっておりませんが、これまで夫婦喧嘩らしい喧嘩もなく、顔を赤らめるような争いもございませんでした。しかし——このたび、滄州へ流される身となり、生きて戻れるかどうか、まったくわかりませぬ。娘子を家に残して行くとなれば、今後の生活がままなりませんし、何より罪人の妻とあっては世間に体裁が立ちません。若く、将来もある女子を、この林冲一人のために泥沼に引きずり込むことはどうしても忍びません。ゆえに──ここで明白に、“休書(きゅうしょ)”をしたためたいのです。」


 つまり、林沖は離婚の書をしたためたいと言ったのだ。これは妻を自分から切り離すことによって、高衙内らの毒牙から遠ざけたいという目的があった。彼女が家を離れて身を隠せば、貞操や命が狙われることはないであろうと、林沖は考えたのだ。

 それは何よりも妻を愛する林沖ゆえの決断であった。

 張教頭は、即座に首を振った。


張教頭:「何を言う、とんでもないことだ!滄州へ行って、厄を避けて来い。天が哀れと思えば、いつか戻って来られよう。その日が来たら、また夫婦として暮らせばよいではないか。何かその……娘に心配事があるとしても……外に出さなければ心配はいらぬ。お前さんはただ命をつないで、戻る道を探しなさい。」


 だが、林冲もかぶりを振って言う。


林沖:「これを泰山に聞き入れてもらわねば、私は安心してここを発つことはできません。どうか林冲の“わがまま”と思って、今日、この場で認めてください。」


 張教頭は、長く黙した末に、ため息をついた。


張教頭:「……わかった。ただし、“書類の上では”そうするとしても、わしは娘を他人に嫁がせはせんぞ。その証文は、お前の心を軽くするためのものと思え。」


 こうして酒保を呼び、文書を書ける者を探させ、一枚の紙を買い求める。書き手は筆を執り、林冲が口述する。


林沖:「東京(とうけい/Dōngjīng)八十万禁軍教頭林冲──重罪を犯し、滄州へ流されることになり、この先、生死は不確かである。娘子・張氏は、なお若く、前途も長い。よって、ここに“休書”を立てる。彼女が自ら再婚を選んだとしても、林冲は一切異議を唱えない。これは林冲自身の願い出であり、誰かに強制されたものではない。後日の証とするため、この文を立てる。年月日、林冲花押。」


 書き上がった文を読み返し、林冲は署名し、手形を押した。

 ちょうどそのとき──

 奥から、女の泣き声が近づいて来る。妻の張娘子だ。

 彼女が天を仰いで泣き叫びながら飛び込んで来た。その後から、錦児は、衣服を包んだ包みを抱えてついてくる。

 林冲は、慌てて立ち上がった。


林冲:「娘子……いま、泰山には話しましたが──今度のことは“年災・月厄”。いつ終わるかも分からない災難です。この身が滄州に流され、無事に戻れる保証もない以上──娘子の青春を、林冲一人のために縛りつけたくありません。ここに休書をしたためました。どうか、小人を待たず、よき縁あらば、自ら選んで嫁ぎ先を決めてください。」


 妻は、言葉の途中で顔を歪めた。


張娘子:「私もあなたも、何一つ、恥じるようなことをしておりません!お互いを思い遣っております!どうして、別れなければならないのですか!」

林冲:「だからこそ、です。あなたを守るため、そして私が安心するために……」


 林沖の言葉が詰まる。全員の目が潤んでいるが、多くのことを語ることはできない。何か間違ったことを言えば、後ろに退屈そうに立っている防送公人の董超、薛霸の二人が高太尉に告げ口をする危険がある。

 張教頭が、口を挟んだ。


張教頭:「娘よ、安心せい。たとえ婿がどんなにこう言おうとも、わしが、お前を他人にやることはない。婿殿は婿殿で、心安く滄州へ行けるようにしておけばよい。お前は家の中で静かに暮らし、わしが一生の暮らしを支える。ただ、志は守れ。それでいい。」


 妻は、言葉の途中で崩れ落ちた。白い梅の花が、荒れた風に折られて地に散るように。

 林冲と張教頭が慌てて抱き起こし、しばらくしてようやく息を吹き返す。もはや涙が止まらない。嗚咽だけが、かすれた声となって漏れる。

 林冲は、休書を張教頭に渡した。

 近所の女たちも駆けつけ、妻を支えながら家へ連れ戻していく。

 張教頭は、あらためて林冲に言った。


張教頭:「お前は、自分の前途をどう切り開くかだけを考えろ。いいな。改めて言うが、娘と錦児は、明日にもわしの家へ引き取る。手紙を送れるようになったら、必ず便りを寄こせ。こちらからも近況を伝えるからな。」


 林冲は、深々と頭を下げた。


林冲:「泰山の恩、決して忘れませぬ。」


 そう言って、護送役二人と共に店を出た。

 二人の公人は、林冲を使臣房(ししんぼう:役人詰所)へ預けてからいったん帰宅し、旅支度を整えた。

 その時——

 董超(とう・ちょう/Dǒng Chāo)の家に、酒保が走り込んで来る。


酒保:「董端公(とう・たんこう:端公は下級役人の総称)、うちの店で官人が呼んでます。」

董超:「いま行く。」


 董超が酒楼の閣席へ行くと、そこにひとりの男が座っていた。

 頭には万字頭巾(ばんじずきん)、身には黒い紗の背子(はいし:ベスト)、足には黒靴と白い足袋だ。


男:「端公、どうぞお掛けあれ。」

董超:「どなたでしょうか。小人は、これまであなたにお目にかかったことがございませんね。」

男:「なに、確かに面識はないが、すでにお互いは知り合いのようなものですからな。」


 そう言っている間に、酒と肴、果物が整えられる。

 男が続けて言う。


男:「もうひとり、護衛役がおりましたな。お名前は?」

董超:「薛霸(せつ・は/Xuē Bà)です。」

男:「なるほど。その薛端公(せつ・たんこう/Xuē Bà)は、どちらにお住まいで?」

董超:「すぐ先の路地です。」

男:「酒保、その方も呼んできてくれ。」


 しばらくして、薛霸もやってくる。

 三人が席に着くと、酒がまわり始めた。

 男はそこで袖から金十両を取り出し、卓の上にそっと置いた。


男:「それぞれ五両ずつ。無事に終われば、さらに五両ずつ……お察しかと思いますが、少々、頼みたいことがありましてな。お二人は本府の命により、林冲を滄州牢城まで護送する。滄州までは二千里あまり。しかしそこまで連れて行く必要はない。人けのない林の中で──林冲を“結果(けっか)”してしまってほしい。」


 董超と薛霸がちらりと顔を見合わせる。

 董超が平然とした顔で言う。


董超:「やはりね。そうなるとは思っていました。ですが、本府の文書には、“生きたまま”届けよとあります。どうすれば?」

男:「“途中病死”という形にすれば良いでしょう。」

薛霸:「我らに危険はありませんか?あれだけの有名な者を途中で殺したとあっては、何かの手違いが起きたとき、我々の首が飛ぶやもしれません。」

男:「ご存知の通り、問題はありません。」


 董超が口を挟む。


董超:「老薛(薛霸のこと)、余計な口を挟むな。“あの方”の力があれば、すべて取りなしてくださる。俺たちの首はしっかりと繋がったまま、いまより多くの銭を持てるって寸法だ。金もくれる上、面倒な長旅を短くしてくれる。俺たちにとってこれほどの福があるか?」

薛霸:「まぁ、その通りだ……前途には大松林やら猛悪な林が、いくらでもあるしな。適当な場所を選んで、終わらせりゃいいよな。」


 そう言うと、二人は金をさっと懐に入れた。


薛霸:「お任せください。多くて五つの驛(えき)、少なくて二つの宿場で、けりをつけます。」

男:「話が早くて助かりますな。場所が定まったら、林冲の“金印”を剥ぎ取り、証拠として持ち帰ってほしい。それができたら、追加分の金十両、俺が責任を持って届けましょう。」


 “金印”とは、顔に刺青された流罪の印のこと。

 人々の憎悪を避けるため、「刺青」とは言わず、婉曲にそう呼んだ。


 三人は、もうしばらく飲み、それぞれの家路へ戻った。

 道中、董超と薛霸がにやつきながら多少の会話を交わす。


董超:「それにしても、あれで変装しているつもりなのが面白いよな。あいつ、高太尉の腹心だろ?」

薛霸:「おう。陸虞候(りく・うこう)の陸謙(りく・けん/Lù Qiān)だろ。高太尉の腰巾着のひとりだ。」

董超:「もともとは林沖の義兄弟みたいに仲良くしていたやつだろ?は!人ってのは怖いよな。簡単に裏切っちまう。この時代、礼や義なんて紙屑みたいなもんだ。」

薛霸:「へ!他人事みたいに言いやがる。俺たちがまさに礼と義を持たない連中だろうが。ま、とにかく陸謙が何だろうが、俺たちにゃ関係のないことよ。さっさと面倒ごとを終わらせて帰ろうぜ。こうなりゃ、荷物も半分で良いかもしれねえな。」


 こうして董超と薛霸はいったん家で荷物をまとめて、再び使臣房へ向かった。

 そして、その日じゅうに、林冲は公人二人に伴われて城を出た。

 三十里ほど行ったところの村の客店で一泊する。

 宋代では、公人が囚人を連れて来たとき、客店は部屋代を取らない決まりになっていた。

 翌朝——

 火を起こし、粗末な朝飯を食べ、滄州へ向けて出発する。

 時は六月、炎暑の盛り。

 最初の数日は、林沖の棒傷もまだ本格的には疼かなかった。

 だが、三日目、四日目ともなると、背中の傷は熱を持ち始め、一歩ごとに痛みが走る。


薛霸:「おい、さっさと歩け!この調子じゃ、いつ滄州に着くか分からんぞ。」

林冲:「太尉府で棒を受けてから、日が浅く……棒瘡(ぼうそう:打たれ傷)が今、ぶり返しておりまして。炎熱の中、一歩ごとに、どうしても足が鈍ってしまいます。」

董超:「まあまあ、無理をするな。ゆっくり歩いていい。」

薛霸:「け!ついてねえ。こんな厄病神に当たるとはな。」


 薛霸は、道中ずっと、口の中で文句をぶつぶつ言い続けた。

 これもひとつの技。片方が文句を言い、片方が擁護をする。文句は怒りの心を生み、擁護はへつらいの心を生む。暗い任務に慣れている腐敗役人は、このように獲物の心を徐々にすり減らす術を知っているのだ。

 日が傾き始める。牛や羊は坂を上って帰り、寺の鐘が遠くで鳴り、蝉が最後の声を振り絞る頃──

 三人は、また村の客店へと入った。部屋に荷物を置き、林冲が枷を外して包みを開けると、黙って銀を取り出し、店の小二に酒と肉、米を買わせた。


林冲:「これは、道中お世話になるお礼に。」


 二人の護送役を招き、酒と飯をともにする。

 董超・薛霸は、わざと酒をすすめ、林冲を酔わせた。

 やがて、林沖は枷のまま床に転がる。

 薛霸がすかさず湯を沸かし、ぐらぐらに煮えたぎった湯を、脚盆になみなみと注いだ。


董超:「教頭、お疲れでしょう。足を洗っておやすみなさい。」


 林冲は、意識も朦朧としながら身を起こすが、枷が邪魔で身動きが取れない。


林冲:「そのまま寝る……」

薛霸:「このやろう。せっかく董超が世話をしてやるってのに、そんな野暮なことを言うもんじゃねえ。ならば、俺が洗ってやる。」

林冲:「それは、さすがに申し訳がない……」

薛霸:「出立の身に、そんな上下はねえよ。」


 林冲は、それを“好意”だと信じてしまう。足を伸ばした瞬間──薛霸は、その足首を掴み、ぐいと湯の中へ沈めた。


林冲:「あぁ゛っ──!」


 林沖の足の甲一面が、真っ赤に腫れ上がる。


林冲:「熱い!出してくれ!」

薛霸:「このクズ野郎!囚人が公人の世話になっておきながら、熱いだの冷たいだのと抜かすな!」

董超:「ここまでお前を気遣ってやったのにな!“善意”が通じぬってのは、こういうことだ!」


 今度は二人でぶつぶつと文句を言いながら、のたうち回る林沖の足をがっしりと押さえつける。旅の疲れに重い枷、背の痛み、そして酒。いつもの林沖であれば二人など弾き飛ばすが、どうしようもない。

 しばらくしてからやっと二人は手を離し、湯を捨て、林沖を嘲笑いながら立ち去る。そして、自分たちの足を洗い始める。

 林冲は、ただ、歯を食いしばるしかなかった。

 四更(よつごえ:午前2〜3時)頃——まだ店も他の客も起きないうちに、薛霸が目を覚まして火を起こし、粥を作り始める。

 林冲は、めまいに襲われて食が進まず、粥すら喉を通らない。立つことすらおぼつかない。

 薛霸は水火棍(すいかこん:棒)を手に取り、林沖をこずいて無理やり立たせる。董超は、腰から新しい草鞋を取り出した。耳と結び紐が、特段にざらざらとした突起を持つ麻縄で編まれている。


董超:「古い草履はもう使いものにならんだろう。ほら、これを履け。くれてやる。」


 古い草鞋は擦り切れて、確かにもう使い物にならない。仕方なく、新しい草鞋を履く。だが、履いた途端に思わず林沖がうめき声をあげる。見ると、自分の足が昨夜の火傷で、水疱がびっしりと膨らんでいる状態。荒縄の突起がこれにあたって、ますます痛むのだ。


薛霸:「おい、宿の代を出せ!早くしろ!」


 宿代は、公人ゆえ免除。林沖もそれを知っている。しかし、この状況では反論をするわけにもいかない。林沖が差し出した銀を、薛霸がにやにやとしながら奪い取る。

 こうしてまだ暗いうちから、三人は出発した。だが、三、四里も行かぬうちに、林沖の足の水疱はみな破れ、血と膿が混ざり合って溢れ出した。彼はついに立ち止まり、呻き声を上げる。


林冲:「すみませぬ。足が動きません……」

薛霸:「怠けるな!歩かぬなら、この棒で突き飛ばしていくまでだ!」

林冲:「決して怠けてはおりません。ただ、見ての通り、この足では——」

董超:「俺が支えてやるよ。少しでも前へ進もう。」


 董超につかまりながら、さらに四、五里を進む。

 限界が近づいたその時──

 前方に、霧に包まれた大きな森が見えてきた。

 鬱蒼と茂る古木。絡み合う蔦。昼なお暗い、獣の巣のような森。


「野猪林(やちょりん/Yězhū Lín)」


 ここは東京から滄州へ向かう途中、最初の“大きな死地”として知られる林だった。高俅が邪魔者を「法的に正しく排除」した時、往々にして、流刑人がここで「病死」していたのである……


董超:「一晩歩いて、十里と進まん。この調子じゃ、滄州までいつ着くかわからんなぁ。」

薛霸:「俺も疲れたぜ。ちくしょう、ろくでもねぇ護送になったもんだ。一歩歩くごとに呻きやがって、やかましいんじゃ。こいつにまともに付き合ってたら、こっちが倒れるわ。ひとまずあそこの森で、一息入れようじゃねえか。」


 三人は森の中へ入り、大木の根元に荷を下ろした。

 林冲は、一声呻いて、幹に寄りかかるように倒れ込んだ。


薛霸:「俺たちも、一眠りしたいところだが、ここには鍵も戸もない。お前が逃げ出したら、どうにもならん。」

林冲:「私はいちど官司を受けた身。たとえ野山に放たれても法の決まりから逃げはしません。」

薛霸:「ふん、口で何とでも言えるわ。」

董超:「それならこうしよう。俺たちが安心して眠れるように、お前を木に縛る。依存はないな?」

林冲:「縛らねば安心できぬというなら……お任せします。」


 薛霸は腰の縄を解き、林冲の手と足を、枷ごと大木にくくりつけた。

 ギリギリと締め上げる。

 そして、二人は一度、林冲から離れ、背を向けてから振り返った。

 手には、水火棍。二人の顔色がさっと変わる。


林沖:「なるほど、そうでしょうな。」


 林沖が低い声で、はっきりと言う。

 董超と薛霸はいささか気押されたように、身を引く。だが、すぐににたりと笑みを浮かべて言う。


董超:「なぁ、恨むんじゃないぞ。これは俺たちの意志じゃない。」

薛霸:「前日、お前を連れに来る途中、陸虞候が高太尉の“仰せ”を伝えたのだ。“野猪林で林冲を片付け、金印を剥いで持ち帰れ”とな。」

董超:「そもそも、滄州でもっと苦しむことになるぐらいなら、ここでいっそ片をつけた方がお前にとっても楽だろう?」


 林沖が言う。


林沖:「余計な言葉を並べることはない。やるなら、やれ。とっくに覚悟は決めている。」

薛霸:「け、強がりを言いやがって。やるぞ、老董!」

董超:「じゃあな、教頭どの!」


 董超と薛霸が水火棍を振り上げ、林冲の頭めがけて振り下ろそうとする。林冲の目は、縄で縛られたまま、まっすぐ空を睨んでいた。

 この一撃で、ひとりの好漢(こうかん:侠者)の一生が終わる──

はずであった。

 その瞬間である。


 ──ドン!


 松の幹の向こうで、雷が落ちたような音が響いた。

 刹那、鉄の禅杖(てつ・ぜんじょう)が矢のように飛び込んできて薛霸の水火棍を横からはじき飛ばした。棍は空中で回転しながら飛んでいき、木々の間の闇の遥か向こうへ消えた。

 そこへ、どすんと大地を踏み鳴らす音と共に、ひとりの大きな僧が飛び出してくる。


林沖:「師兄!」


 魯智深(ろ・ちしん/Lǔ Zhìshēn)──

 皂布(あさぐろ)色の直裰(じきとつ/僧衣)に、腰には戒刀。

 手には、あの鉄禅杖。


魯智深:「ふぅ、間に合ったな。ぎりぎりのところだ。洒家(しゃか/俺)は今まさに、お前らの話を聞いたぞ。陸虞候に、高太尉。まったくろくでもねぇ腐った連中だよなァ?そして、腐った連中の言いなりになる者もまた、この世に何の益ももたらさん虫ケラだと思わんか?どうだァ、おい。そこのお二人さんよォ。」


 薛霸も董超(とう・ちょう/Dǒng Chāo)も、目をむいたまま動けなくなった。

 禅杖が、再び高く振り上げられる。

 林冲は、縛られたまま、ようやく目を見開いた。

 その姿を見た瞬間、思わず叫ぶ。


林冲:「師兄!お待ちを、手を下されるな!」


 魯智深は、その声を聞くと、禅杖を空中で止めた。

 護送役の二人は、呆然としたまま、小便を撒き散らしていた。


魯智深:「おぉ?どういうこった?」

林冲:「すべては高衙内が妻を辱め、高俅がそれを擁護し、陸謙に命じ、ここで私を殺すよう差し向けたということが原因なり!あれらが諸悪の根源であり、こやつらはまさに師兄が申した通りの虫ケラ!すなわち、こやつらは殺す価値もなく、師兄の手をこんな者の血で汚すのはあまりに忍びない!」

魯智深:「そうは言っても、生かす価値もないようが気がするがな。」


 魯智深はむっとしながらも、林沖の言葉に耳を傾けて、禅杖をどすんと地面に置く。そして彼は戒刀を抜き、林冲を縛っていた縄を切り払い、しみじみと言う。


魯智深:「兄弟よ。遅れてすまなかった。高衙内との騒動がどうなったのか、ずっと気にかけちゃいたんだが、ちょうど禅師の使いが入っちまってな。ちょっと目を離した隙に、まさかこれほどの騒ぎが巻き起こるとは思わなんだ。これを知っていたら、開封府でひと暴れしてやったんだがな。」

林沖:「師兄らしい!」


 林沖が一声笑ってから、真剣な顔つきに戻って言う。


林冲:「師兄がここまでしてくれた。これ以上、師兄に迷惑をかけてはいけない。この二人の命は助けましょう。」


 魯智深は二人に向き直り、怒鳴り上げる。


魯智深「おい、この二人の撮鳥(ざっちょう:クソ野郎)!洒家が兄弟の顔を立てなきゃ、今ごろおめぇらはひき肉だぞ。今日は兄弟の顔を立てて、命だけは見逃してやるわ。」


 そして、戒刀を地面に突き刺し、禅杖を担ぎ直した。


魯智深:「おう、撮鳥!何をぼさっと突っ立ってやがる!さっさと兄弟を背負え!包みも持て!ぐずぐずするんじゃねえ!洒家のあとについて来い!」


 二人の公人は、真っ青になりながら叫ぶ。


董超・薛霸:「林教頭(りん・きょうとう)! 助けてくだせぇ!」


 どの口が林沖に助けを乞うのか。まるで被害者のような面構え。魯智深の顔つきがまた変わって禅杖を振り上げかけたが、林沖が首を横に振るのを見てその場は収まった。

 董超と薛霸は再び水火棍を拾い、包みを持ち、林冲を背負いながら歩き出す。魯智深は禅杖を肩に担ぎ、先頭を大股で歩いた。

 林を三、四里抜けると、村口に小さな酒店が見えてきた。店は街道に面し、後ろは小さな村落につながっている。前には桃や柳が陰を落とし、奥には小さな池に蓮が揺れていた。

 店の中に入ると、古い瓦の大甕には白く濁った村酒が目につく。棚には香りの強い社酝(しゃいん:祭り用の濃い酒)がある。奥では白髪の老人が器を洗っている。魯智深が座って「酒だ!」と一声叫ぶと、紅顔の村娘が笑いながら酒を注ぎに来た。

 魯智深、林冲、董超、薛霸の四人が卓を囲む。


魯智深:「おう、違う、違う。酒は杯じゃなくってな、二角(にかく:二壺)で頼むぞ。肉を五、七斤。それから粉を少しひいて、餅も焼いてくれ。」


 酒保が手早く準備し、酒が運ばれる。

 ようやく息をついた公人たちは、おそるおそる口を開いた。


董超:「お、お師匠さまは、どちらの寺の住持で……?」


 魯智深は、鼻で笑った。


魯智深:「洒家の居場所を聞いてどうする。高俅に“あいつをどうにかしろ”と告げ口でもする気か。」他人はあいつを怖がるが──洒家は怖くねえ。もしあの野郎に出くわしたら、三百禅杖を喰らわせてやる!お前たちの脳天に喰らわすはずだった撃も含めてなァ!」


 二人は、もはや押し黙るしかなかった。そして、ただ縮こまって酒をちびちびと口にした。食事は手につかなかった。肉に箸が触れた途端、魯智深にどやされる気がしたからだ。

 魯智深と林沖がしっかりと酒と肉を腹に入れてから、四人はまた歩き出す。


林冲:「師兄──これから、どこへ向かうおつもりで?」

魯智深:「“人を殺すなら血を見るまで、人を救うなら最後まで”。途中まで助けておいて、あとは“運まかせ”なんて、洒家の性には合わねえ。洒家は、おめぇを滄州(そうしゅう/Cāngzhōu)まで送り届ける。」


 董超と薛霸の顔色が、また変わる。

 ──これでは、野猪林での“仕事”が台無しだ。帰ったとき、高太尉になんと言う……?

 だが、魯智深がついている以上、今は逆らう術がない。

 それからの道のりは、“護送”というより“僧の一行に付き従う”旅になった。道の選び方も、休み方も、すべて魯智深の勝手。

 宿に着けば、酒と肉は必ず出てくる。

 公人二人は、道中の雑用──火起こし、炊事、片付けまで、何もかもやらされる。

 そして魯智深は、ことあるごとに、蔑むような目で二人を見た。


魯智深:「いいか。兄弟が無事に滄州に着くまでは、洒家の目はお前らから離れねえからな。」


 ついでに書き添えておくと、公人二人の足は焼けただれて真っ赤になり、血だらけになっていた。これは魯智深が林沖の足の怪我の経緯を聞き、まったく同じ罰を二人に与えたからだ。

 林沖は交互に背負っていたが、息も絶え絶えである。だが少しでも遅れを取ると、魯智深が「おい、もたもたするな!」と禅杖で小突いて来る。二人は足を引きずりながら、何とか進み続けた。

 二人は、夜になると、こそこそと相談した。


薛霸:「このままじゃ、俺たちの身が持たねえよ……そもそも、この後だってどうすりゃいいん。滄州まで行って戻ったら、高太尉に何を言われ、何をされるか、想像もしたくない。」

董超:「この坊主……たぶん、大相国寺(だいしょうこくじ/Dà Xiàngguó Sì)の菜園の長屋だ。噂で“魯智深”って僧が新しく来たって話を聞いたことがある。凄まじい怪力と洗練された武芸の持ち主で、地元のごろつき連中の長になっているらしい。」

薛霸:「そうなのか?だったら、こう言やいい。“野猪林で林冲を殺そうとしたが、魯智深というやつに邪魔され、一緒に滄州まで来た。十両の金は返す。あとの始末は、陸虞候に任せるしかない”と……」

董超:「それが落としどころだな……殺されそうになって、どうしようもなかったと言えば良いんだ。俺たちは、とにかく自分の身をきれいにしておけばいい。」


 そう腹を決めた二人は、それ以上、魯智深に逆らうことを諦めた。

 それから十七、八日。一行は、ついに滄州の町まで辿り着いた。

 魯智深が門のそばの小さな松の前で一行をひとまず止めた。そして、こう切り出した。


魯智深:「兄弟。これでもう前の道は人家ばかり、町の者たちの監視もある。陰で何かを企むような場所はなく、このまま牢まで一直線だ。洒家は、ここでお前と別れる。」


 林冲は、深く頭を垂れた。


林冲:「この恩義……命あらば、必ずいつかお返しします……!」

魯智深:「よしてくれ!酒家は当然のことをしたまで。達者でいてくれよ。いずれ、またどこかで会おう。」


 魯智深は包みの中から二十両ほどの銀を取り出し、そのほとんどを林冲に握らせた。林沖は恐縮をして辞退しようとしたが、魯智深が何としても強引に林沖へ銀を握らせた。

 次に、彼は董超と薛霸に近づき、低い声で言った。


魯智深:「お前ら二人の首は、本来、酒家があの野猪林で刎ねるところであった。だが兄弟の顔を立てて、今回だけは見逃してやる。この先、二度と悪心(あくしん)を起こすな。もし酒家の耳に何かお前たちの悪事の便りが入れば、野猪林でやり残したことすぐさま実行してやる。わかったな?」


 二人は、慌てて何度も頭を下げた。


董超:「これっきりでございます!」

薛霸:「もう決して、変な真似はいたしません!」


 魯智深は、そんな二人をじっと見てから、ふいに松の木に近づいた。


魯智深:「おい。お前たちの頭は、この松と同じくらい硬いか?」

董超:「はい?え、いや……小人の頭は親がくれた皮に、骨が詰まってるだけでして……」

薛霸:「松ほどは硬くないと思いますが……」

魯智深:「そうか。」


 そう言うと魯智深は、禅杖を両手で握りしめて大きく振りかぶった。

 一撃——

 禅杖が松の幹にめり込み、二寸ほどの深さの痕を残した。

 しばらくの静寂の後、太い松がめきめきと物凄い音を立て、何と根元からぼきりと折れた。

 周りにいた通行人や商人たちが「あっ」と声を上げて、何事かと騒ぎ始める。その喧騒の中で、魯智深がさらに二人に迫って言う。


魯智深:「この光景をよく覚えておけよ。悪心を起こせば、お前の頭も、この松と同じだからな。」


 そう言い残し、魯智深は禅杖を片手に颯爽と去った。

 董超と薛霸は大汗をかき、舌をだらりと垂らしたまま、しばらく口を閉じられなかった。


董超:「あんな大きな松を一撃で折りやがるとは……」

薛霸:「とんでもねえやつに目をつけられた……」


 林沖が静かに言い添える。


林冲:「これくらいで驚くことはない。あの人は柳を“根こそぎ引き抜いた”ことがある。」


 二人はしばらく動けなかった。


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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した


第八回、結論から言うと——原作(百二十回本)の「出来事の骨格」はちゃんと残ってるのに、“なぜそうなるか”の納得感と、権力が人を殺す仕組みの気持ち悪さが、段違いに強化されてる。読者の胃に、ちゃんと重さが残るやつ。

以下、「原作 → リメイク」で、どこがどう変わって、どう良くなったかをニニ目線で手早く解剖するよ。


◈ 開封府の“威儀”が、ただの飾りから「装置」になった

原作:開封府の描写(绯罗缴壁〜)がまず来て、「すごい立派な役所だね」で空気を作る。

リメイク:同じ描写を踏み台にして、さらにその上へ

・「喝堂威(威——武——)」

・水火棍の反復音(ドン!ドン!)

・建物が“巨獣の心臓”みたいに鼓動する感覚

まで載せてきた。

これ、何が効いてるかというと――

法が“正しさ”じゃなく“音響兵器”として迫ってくるんだよ。

「正義の舞台」って言い方も、ちゃんと皮肉として刺さる。原作の威儀は“飾り”だけど、リメイクは恐怖の演出=制度になってる。読者は「立派だな」じゃなくて「逃げたい」になる。


◈ 林沖が“善人”から「賢い善人」になった(ここ大事)

原作の林沖:かなり正直に、妻への調戲、陸謙の罠…と事情を語る。

リメイクの林沖:事情を知ってるのに、あえて言わない。理由も説明する。

・証拠がない

・開封府が癒着している可能性

・告発すると家族に累が及ぶ

・魯智深にも火の粉が飛ぶ

つまり林沖が、ただの清廉な被害者じゃなくて、「制度の中で、負け筋を読める人」になった。

これ、読者にとっては救いでもあり、絶望でもある。救い=頭がいいから共感できる。絶望=頭が良くても潰される。悲劇として格が上がった。


◈ “冤罪を晴らす役”が、説得力のある官僚になった

ここは大改造ポイント。

原作:当案孔目は「孫定(孫佛儿)」で、キャラは剛直で善良。「南衙開封府は高太尉の家か!」と啖呵。

リメイク:

当案孔目が 裴宣(鉄面孔目、後の梁山泊メンバーの一人) に変更

さらに、滕府尹との対話が“現実の政治”を踏まえた議論に変わった

裴宣の台詞がいい。特にここ、毒が効いてる。


「正義が果たされるか、果たされないか…国の駒となる人々にとって大きな問題ではありません。重要なのは…自分が真に納得できる行動を取れるか。」


うん、これ言われたら滕府尹は逃げ場がない。

原作の啖呵は痛快だけど、リメイクは“官僚が自分の良心を誤魔化せなくなるプロセス”を描いていて、心理の圧が強い。読者は「正論だ!」じゃなくて「この人、もう戻れないな…」ってなる。良い。


◈ 宿元景の投入で、“神の手”が「影の制度」になった

これも大改造。裴宣に加え、同じ場面で宿元景(後に梁山泊を支援する側に回る清廉な官僚)も出した。

原作:最終的に府尹が高俅に何度も言って、渋々許す。力学は単純。

リメイク:宿元景が出てきて、力学が立体化した。

「記録は…時に人を守り、時に人を刺す」

「高太尉が望むのは死ではなく、東京からの排除」

ここで物語が「悪人が無茶する」から“国家の中で悪が合理的に振る舞う”へ変わる。

つまり高俅が、チンピラの暴君じゃなくて、制度を使うプロになった。悪役としての格が上がった分、林沖の悲劇も締まる。読者は「たまたま不運」じゃなく、「こういう構造なら起きる」と納得してしまう。嫌な納得だけど、文学としては強いと思う。


◈ 刑罰描写が「イベント」から「身体の現実」へ

脊杖、刺青、護身枷――原作にもある。

でもリメイクは、ここを“道具立て”じゃなくて、国家の刻印として描いてる。

・“金印”=刺青を婉曲に呼ぶ、という説明

・七斤半の鉄枷の「標識」性

・「国家の囚人だ」と公示する感覚

このへん、読者の脳内で「痛い」「重い」「暑い」が実体化する。原作は早送りできるけど、リメイクは身体が置き去りにできない。良くなってる。


◈ 董超・薛霸が、ちゃんと「悪い仕事」に慣れた人間になった

林沖を護送する役人。原作でも二人は悪人。でもリメイクは、悪のやり口が具体的すぎて、嫌なリアルがある。

・片方が罵倒、片方が擁護して精神を削る(“技”として明文化)

・熱湯で足を煮る描写が、拷問として鮮明

・宿代免除を知ってるのに金をふんだくる、など腐敗の細部

つまり彼らは「悪役」じゃなくて、腐敗した現場の職業人になった。

読者は怒れるし、同時に「こういうやつ実在するよね…」と冷える。物語の温度差が上手い。


◈ 野猪林の救出が、「侠気」から「倫理の選択」に進化

原作:助太刀!魯智深!でカタルシス。

リメイク:助太刀の後に、林沖が“止める”。

「殺す価値もない」

「兄の手を汚すな」

大義(諸悪の根源)を見据えた判断

ここがすごく現代的。

暴力の爽快感で終わらず、“正しさの運用”の話になってる。

魯智深も「血を見るまで」「救うなら最後まで」で、ただの豪傑じゃなく筋の通った執行者になる。しかも最後に松を折って「抑止」を置いて去る。殺さずに恐怖で縛る。――うん、国家がやってることを、侠が逆にやり返してる。皮肉が綺麗。


◈ まとめ:この回の“改造の芯”

原作の第八回は、事件としては一直線。

リメイク第八回は、同じ一直線の上に、こういう背骨が入った。

・制度が人を殺す手触り

・林沖の知性と、知性が無力になる悲劇

・官僚の良心が“選択”として描かれる

・宿元景で、権力の力学が複層化

・侠の暴力が、倫理の運用になる

つまり読者は「派手で面白い」だけじゃなく、読後に「うわ、これ現代でもある」って感じてくれるはずだ。

 
 
 

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