- 光閃 上海蟹
- 2025年12月27日
- 読了時間: 43分

2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。
自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。
そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。
本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。
------------------------------------------
『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第十四回

"赤発鬼・劉唐、霊官殿で寝込む/晁天王、東渓村で義を認められる"
場面を山東・済州(さいしゅう/Jìzhōu)の鄆城県(うんじょうけん/Yùnchéng Xiàn)に移そう。梁山泊(りょうざんぱく/Liángshān Bó)から馬で半日も走れば辿り着く土地だ。湿った水郷の匂いがいつの間にか薄れ、土と藁と炊き煙の香りが鼻の奥へ落ち着いてくる。
ここに新しく赴任してきた知県(ちけん:県令・地方長官)がいた。姓は時(とき/Shí)、名は文彬(ぶん・ひん/Wénbīn)。
この時知県、城門をくぐった瞬間に、まず眉を上げた。
——静かすぎる。良い意味で、静かすぎる。
辻で怒鳴り合う声がない。訴状を抱えて泣き叫ぶ者もない。子どもが走って転び、隣の家の婆が飛び出して抱き起こし、転ばせた子の方まで一緒に叱る。店先では量目(はかりめ)をめぐる喧嘩が起きそうで起きず、片方が先に笑って「まあ、次でいい」と引く。
人の目が、ギラついていない。怖さではなく、「この町なら安心だ」という穏やかな確信で、皆が動いている。
時知県:(これほど穏やかな空気、いまの世でそうそう出るものではないぞ。)
時知県は、徽宗の治世においては珍しく向上心のある誠実な役人である。そこで、ここまで町がよく回っている理由を知りたいと思った。ふと、前任者が短く引き継いだ言葉が脳裏に蘇る。
「この街のことは宋押司(そう・おす/Sòng Yāssī:下級書記官)に任せておけば良い。あの男は実によくやってくれる。」
時知県はさっそく宋押司を呼ぼうとした。だが、親族の訃報があり地方に馳せ参じているという。
そこで時知県、ひとつ策を練った。旅人を装い、茶店に入り、民の声を拾う。いわゆる“微服私訪(びふくしほう)”——お忍びの調査である。
時知県が近くの店に入って茶を頼む。湯気の向こう、店の空気はゆるいのに、妙に澄んでいる。
彼は、呼びかけるように言った。
時知県:「そこに飾っている紅葉の葉、惚れ惚れするほど美しいな。」
茶博士:「え?あぁ、それは東溪村(とうけいそん/Dōngxī Cūn)から戻った者からもらったんですよ。あの村の晁保正(ちょう・ほせい)邸の近くに大きな紅葉の木があるのです。旅人はあの村を通りませんでしたか?」
時知県:「通らなかった。それほど見事な木なのか?」
茶博士:「そうですとも!旅人もぜひ、これから近くを通るようでしたら見に行くと良い。素晴らしいものですよ。」
時知県は「なるほど」と感心してから、何気なく話題を変える。
時知県:「それにしても、ここには初めて来たが……ずいぶんと穏やかな町であるな。なぜこうも穏やかなのか。」
茶博士(ちゃはくし:茶屋の小僧)が肩の力を抜いて笑い、言う。
茶博士:「いまの時間は特にのんびりしていますよ。公人も訴人も、みんな飯を食いに散りましたからね。ちゃんと治められている町ゆえに、あの人たちも良い意味で“暇”なのです。」
時知県は身を乗り出す。
時知県:「噂では、ここに有名な役人がいて、その者がよく治めているという話だが……」
茶博士は、嬉しそうに頷いた。
その顔が、“初対面の旅人”に向けるものではないほど親しげである。
——この町では、初対面が初対面にならない。
時知県はそこに、宋押司の気配を見た気がした。
茶博士:「旅人の方、よくご存じですね!そうですとも。宋押司はね、まさに恵みの雨みたいな人で……あの人のおかげで、このあたりは——」
時知県:「しかし妙な話だ。押司なんて、そのへんにごろごろいる下っ端役人じゃないか。どうしてそんな者がそれほど町に影響をもたらしている?」
茶博士は返事の代わりに、すっと背筋を伸ばした。
まるで「この町の誇り」を語るときの作法が、すでに身についているように。
そして、詩を吟じた。
------------------------------------------
起自花村刀笔吏,英灵上应天星,疏财仗义更多能。事亲行孝敬,待士有声名。济弱扶倾心慷慨,高名水月双清。及时甘雨四方称,山东呼保义,豪杰宋公明。
花村の下級役人として生まれながら、
その魂は天の星と呼応するほどの英気を備え、
財を惜しまず義のために用い、人を助けることに長けていた。
父母には孝を尽くし、
士(学者・客人)には礼をもって接し、
その名は広く世に知られていた。
弱きを救い、倒れかけた者を支える気概にあふれ、
その名声は、水面に映る月のように澄み切っていた。
時にふりそそぐ恵みの雨のように、
人々に望まれ愛された人物——
それこそ、山東の “呼保義(こほうぎ)” 、
豪傑・宋江(そうこうめい)である。
------------------------------------------
詩が終わるころには、店の隅で将棋を打っていた爺が、黙って頷き、隣席の荷担ぎが、茶を置いて「その通り」と呟いていた。
同じ言葉を同じ温度で信じられる空気が、ここにある。
時知県は手を叩いて言った。
時知県:「詩で賞賛されるほどの人物とは!この時代に、そのような清廉な役人がいるとは驚く。その者、家族は?」
茶博士:「父・宋太公(そう・たいこう/Sòng Tàigōng)と、弟の鉄扇子・宋清(てっせんし・そう・せい/Sòng Qīng)が村で田を守って暮らしてますよ。宋押司は鄆城に住んでますね。」
時知県:「学や武のほどは?」
茶博士:「筆に通じ、道に明るい人です。でもね、学者みたいな難しい言葉で理屈をこねない。相手の頭の高さまで降りてきて、わかる言葉で、胸に落ちる言葉で話してくれる。槍棒も堅いですよ。東京の教頭にだって負けません。」
時知県:「後ろ盾は?誰か高官に気に入られているか?」
茶博士:「はは。あの人は、そんなの気にしません。身分の高下にかかわらず、訪ねてきた者を拒まず、誰にでも公平です。困ってる人がいれば金を惜しまない。訴えがあれば、できるかぎり丸く納める。棺桶代や薬代を出し、貧しい者に施し、急を助け、困窮を救う。……でもね、甘いだけじゃない。誰が先に手を出したか、誰が嘘をついているか、すぐ見抜く。」
茶博士は小さく笑い、指を一本立てた。
茶博士:「あの人は、人の中の“良いところ”も“悪いところ”も、同じ顔で見ます。だから皆、騙されにくくなる。逆に、救われもする。……そういう方です。だから呼ばれてるんです。“及時雨(きゅうじう/Jíshíyǔ)”——天から降る恵みの雨みたいな人だって。」
時知県:「そこまでの人だとは!」
茶博士:「名目は下っ端役人ですよ。でも私らにとっちゃ、宋押司は……『民の父母』に近いんです。」
時知県:「私もそうありたいものだ!」
茶博士:「はい?」
時知県:「お、いやいや……こちらの独り言だ。」
時知県は茶碗を置き、胸の内で静かに思った。
時知県:(この町で、のらりくらしと役目をやっていようと思ったが……まずいな。こういう男が部下にいるなら、私も目を覚まさねばならぬ。宋押司が戻るまでに、賊の芽を摘んでおこう。)
こうしてその日——
時知県は早速公座に上り、左右に吏人(りじん)を並べると、尉司(いし:治安・軍事を管轄する役所)の捕盗官(ほとうかん)と、二人の巡捕都頭(じゅんぽととう:警察隊長)を呼び出した。
鄆城の尉司には二人の都頭がいる。
一人は「歩兵都頭」、一人は「馬兵都頭」。
馬兵都頭は朱仝(しゅ・どう/Zhū Tóng)。二十騎の馬上弓手(きゅうしゅ:騎兵)と二十人の土兵(どへい:地方の民兵)を束ねる。
身長は八尺四、五。虎のようにうねる髭は一尺五寸もあり、顔は熟した棗(なつめ)のように赤く、目は星のように明るい。関雲長(かん・うんちょう/Guān Yúnzhǎng:関羽)の肖像画が歩いている、と面白がられる風貌だ。ゆえに鄆城の人々は、親しみをこめて彼を「美髯公(びぜんこう:美しい髭の紳士)」と呼ぶ。
朱仝は生まれつき義の人だ。土地を守ってきた豪家の出で、金は惜しまぬが筋は曲げない。江湖の好漢と交わっても、馴れ合いではなく礼を保つ。武芸は堅実で、いざというときの踏ん張りが利く──まさに「軍中の柱」である。
もう一人、歩兵都頭は雷横(らい・おう/Léi Héng)。身長七尺五寸、顔は紫棠色(したんいろ:濃い赤紫)。扇を広げたような顎髭が目立ち、膂力(りょりょく)は人並み外れ。二、三丈の谷もひと跳びで越えると噂され、人々は彼を「插翅虎(そうしこ:翼の生えた虎)」と呼んでいた。
雷横は鍛冶屋上がりで、のちには碓屋(きねうち小屋)を開き、牛を屠(ほふ)り、博打も打った。義侠心はある。だが朱仝と違って気性が早く、狭いところがある。怒りが刃になるタイプだ。それでも──一身の武芸を持つ好漢であることに変わりはない。朱仝とも、腹の底では通じ合っていた。
朱仝、雷横。この二人が鄆城の盗賊捕縛を一手に担っていた。
時文彬が二人を廳前(ちょうぜん)に呼び寄せ、言う。
時知県:「早々に来てもらってすまないな。」
朱仝:「当然、いつでも参じます。」
雷横:「何か急ぎの問題が起きたのか?」
時知県:「急ぎではないが、気になることがある。聞くところによれば——この済州管下の水郷、『梁山泊』に賊が集まり官軍に抗しているとか。これは本当か?」
朱仝と雷横が目を合わせ、頷く。
朱仝:「梁山泊そのものは、まだ秩序があります。義を立てようとしている連中も多く、大きな騒ぎは起こしていません。」
雷横:「だが、問題は周りにある。梁山泊へ流れ込もうとする途中の賊が、村を荒らしている。」
時知県がうなずいて言う。
時知県:「それだ。梁山泊が義侠の集団であろうとも、その火の粉が必ず近くの村に飛ぶ。そこで、お前たち二人に頼みたい。」
時知県は、声を強めすぎず、しかし言葉を外さず続けた。
時知県:「それぞれ配下の土兵を率い、一人は西門から、一人は東門から出て巡察せよ。賊を見つけたら捕え、ここへ連行するように。ただし、むやみに民を騒がせてはならぬ。罪なき者に縄目をかければ、それもまた官の罪だ。」
そして、少し間を置き、最後に釘を刺す。
時知県:「それと、もうひとつ。風の噂から——東溪村(とうけいそん/Dōngxī Cūn)に、怪しい影がある。必ず見よ。」
朱仝、雷横が辞退しかけたところを、時知県が呼び止めた。
時知県:「巡察の証として、東溪村の“紅葉の木”から葉を数枚採って来い。紅葉がなければ、そこまで行っていない証拠とする。よいな。」
朱仝と雷横は再び頭を下げ、それぞれ屯所へ戻って兵を集めた。
朱仝は西門へ、雷横は東門へ。
命のように冷たい規律と、紅葉という妙に私的な印(しるし)を背負って、それぞれが夜道へ散った。
その夜──
雷横は二十人の土兵を率いて東門を出、村々をくまなく巡察した。
田のあぜ道、小さな河沿い、裏道、横道。水と泥と草いきれの匂いが鼻に絡む。夜は静かだが、静かすぎる夜ほど不穏だ。
やがて一行は東溪村の山へ至り、命じられた通り紅葉を数枚採り取った。雷横がそのうちの1枚を手に、笑って言う。
雷横:「もしや、これがただ見てみたくて、『東溪村まで巡察せよ』なんて言ったんじゃないのか?まぁ確かに、ほかでは見たことがないぐらい見事な紅葉だ。気持ちは分からんではない。風流な知県だな!」
それを懐に押し込み、山を下りて三里ほど行くと、霊官廟(れいかんびょう)の前に出た。
廟の扉は、半分開いたまま。人の気配はある。だが灯はない。暗いのに、扉だけが口を開けている。
雷横:「……ん?この廟には庵主はおらんはずだ。扉が開きっぱなしとは怪しい。中に賊が潜んでいるかもしれん。皆、改めるぞ!」
二十人の土兵が松明を掲げ、ぞろぞろと廟の中へなだれ込む。
見ると──
供卓の前、男がひとり。上半身裸で、供卓に肘をつき、転がるように堂々と眠っている。
巨体。筋肉の輪郭が暗がりの中でも浮く。肩から背にかけて古い傷が何本も走り、荒事の匂いがする。
そして何より、髪だ。松明の火が揺れるたび、頭の毛が赤銅のようにちらつく。紅葉よりも濃い、血の気を孕んだ赤だ。
雷横:(へえ、こりゃ驚いた!時知県どのは本当に賊の居場所を推し当てたぞ……)
男の首元には、粗い麻の縄がほどけた跡がある。旅装の名残か。腰のあたりに置かれた包みは、ただの行李ではない。硬いものが入っている形だ。鉄か、石か──妙に重そうだ。
雷横が大声で怒鳴る。
雷横:「おい、そのやつ!起きろ!」
男はがばっと起き上がろうとした。
だが、その瞬間にはもう、土兵たちが慣れた手で縄を投げ、肩と腕と胸を締め上げて、ぐるぐる巻きにしてしまった。
男は舌打ちし、松明の火を睨むように目を細めた。瞳の色が淡い。どこか、土地の人間の濃さと違う。
雷横:「なにやつだ!」
劉唐:「人呼んで“赤発鬼(せきはつき)”、名は劉唐(りゅう・とう/Liú Táng)!どうして、寝ていただけでこんな目に遭うってんだ!」
口調は荒い。だが、単なる無頼の荒さではない。
“言葉で場を動かす”匂いがある。笑っているようで、目は冷静に人数と距離を測っている。縄の結び目を一瞬だけ見て、どこを崩せば緩むかを探る癖が見えた。
土兵たちは有無を言わさず、ぐいぐいと大男を殿外へ引きずり出す。
時刻は五更。白んでくる空の下、氷のような冷気が肌を刺す。赤髪だけが妙に温かく見えた。
土兵:「都頭、この男、どうしますか?」
雷横:「ひとまずは吊っておけばよかろう。この男を連れて、俺たちは保正(ほせい:村の行政責任者)の屋敷へ行くぞ。皆、歩き通しであったから疲れていよう。休息が必要だ。保正の屋敷で点心でもいただくことにしよう。」
劉唐:「点心?いい趣味だな!だがよ、義侠の旦那。腹を満たす前にひとつ聞いておけ。俺は、実は“寝ていただけ”じゃないんだ。最初から“寝るつもり”であったのだ。」
雷横:「何だと?」
劉唐:「ここは運命の風が変わる匂いがするそうだ。そういう卦が出たもんでな。公孫勝(こうそん・しょう/Gōngsūn Shèng)は『紅葉の匂い』などと言っていた。これから縁を持つ都頭が来るとも言っていて、やはりこうして来た!」
劉唐は笑った。縄に縛られながら、まるで縄を縛った方を試しているような笑い方だった。
雷横の眉がぴくりと動き、怒鳴る。
雷横:「奇妙なやつめ、意味のわからん軽口を叩くんじゃない!ほら、さっさと歩け!」
雷横はひとつ大きな声をあげると、劉唐を小突いて歩かせた。
そうして、彼らが向かったのは東渓村の保正、晁蓋(ちょう・がい/Cháo Gài)の邸宅——
この晁蓋、生家は富裕。田畑と人脈に困らず、しかし驕り高ぶることはない。来る者は善悪を問わず泊め、去る者には銀を持たせてやる。そのため彼の屋敷には、訳ありの旅人、行き場を失った者、名を伏せた好漢たちが絶えなかった。
柴進と並び、江湖(こうこ/侠客世界)で名を知られた“本物の義人”である。
だが晁蓋の義は、感情に流される類のものではない。
誰を匿い、誰を拒むか。彼は常に、その人間が背負っている因果の重さを量ってから決めていた。
趣味は武芸。妻は取らず、日々筋骨を鍛える。槍と棒術にかけては、東渓から西渓まで、これに並ぶ者はいない。
その彼に与えられたあだ名が——托塔天王(たくとうてんおう)。
托塔天王と言えば、唐代における石猿の精妖、あの孫悟空が大いに関わった天界の名武将。なぜ、そのような有名な神仏の名がついたのか。それには、村々のあいだで今も語られる興味深い出来事がある。
東渓村と西渓村のあいだには、大きな川が流れている。かつてその西渓に、精妖が出没する騒ぎが巻き起こった。これは天界が人界に関わらぬようになり、精気が地上に漏れなくなって以来、非常に稀なこと。その精妖は昼間に人を惑わせ、夜には川へ引きずり込むという悪事を重ね、大きな事件となった。
村は恐れ、ついに一人の道僧を招いた。
道僧は言った。
道僧:「青石で塔を作り、西渓の川辺に据えよ。それが結界となり、妖は鎮まろう。」
村人は言われるまま宝塔を建てた。すると精妖は本当に現れなくなった。ところがこの精妖、消えたわけではなかった。西渓村から逃げて、今度は東渓村に現れるようになってしまった。
この話を聞いた晁蓋は、烈火のごとく激怒した。
晁蓋:「なぜ西渓を救い、東渓を苦しめる!問題ごとを移しただけではないか!」
彼が怒るのも無理はない。この世の多くの愚かな役人は、問題を解決ではなく移動させるだけで終わりとする。たとえば、家を失った災民が徒党を組んで賊となり、治安が悪化したと聞けば、軍をその地へ送って足を蹴散らす。役人たちはこれにて「問題は解決した」と平然と豪語する。
冗談ではない。賊といっても、そのひとりひとりに人生というものがあり、生活というものがあり、命というものがある。そもそも、どうして彼らは落草しなければならなかったのか。それは行き場を失った災民に対して、国が家や仕事、食べ物や薬を十分に分け与えなかったからだ。
蔡京に渡す十万貫の賄賂、あの一部でも有効に使われれば、これらの災民は賊になる必要もなく、立ち直ることができるだろう。にもかかわらず、役人どもがやることは「手っ取り早く問題を移動させて、自分の見えない範囲にそれを押しやれば、任務は完了」「あとのことなど知ったことではない、民より自分たちが大事、責任はできるだけ取りたくない」という有様なのだ。
だから、私にはわかる。晁蓋はこのとき、西渓村や道僧に怒ったのではない。まさに、そんな世の歪んだやり口に対して怒ったのだ。
晁蓋:「ならば、こちらは真っ向から精妖を誅するのみ!」
そう怒鳴ると、彼は一人で川を渡り、西渓の川辺から青石の宝塔を抱え上げ、そのまま東渓の岸へと運び戻した。重さに耐えかねて石が鳴り、水に足を取られながらも、彼は手を放さなかったという。
そして、なんとそのまま一晩、彼は青石の宝塔を掲げ続けた。精妖はその日以来、嘘のように姿を消した。
のちに私たちの仲間である道士、公孫勝(こうそん・しょう/Gōngsūn Shèng)が調べたところによれば——川辺近くの林で、精妖が消失した焦げ跡のようなものを確認したそうだ。宝塔の清気が晁蓋によって増幅し、精妖がその清気をまともに浴びて消滅した、ということになるのだろう。
この出来事を経て、人々は言った。「晁保正は塔によって精妖を滅した天王だ!」と。これにて彼は「托塔天王」の名で敬愛されることになった。それは圧倒的な怪力と清気を示す称号であると同時に、「責任をまっとうする者」への名でもあった。
さて、雷横たちが東渓村に到着し、門を叩いたとき、晁蓋はまだ床に就いていた。報告を聞くと、彼は跳ね起きた。
晁蓋:「雷都頭だと?」
庄客:「おや……晁保正、大丈夫ですか?顔色がお悪いのでは?」
晁蓋:「いま、妙な夢を見ていてな……七つの星が……いや、それはいいから、はやく門を開けて差し上げろ!」
慌てて身支度を整えさせるあいだ、土兵たちは雷横に命じられるまま、捕らえた大男を門房の梁に吊るし上げた。
やがて雷横は草堂へ通され、晁蓋から手厚いもてなしを受ける。
酒が注がれ、点心が並ぶ。
晁蓋:「都頭、どうしてまた我が村へ?」
雷横が杯を傾けながら答える。
雷横:「新しい時知県の命でな。朱仝(しゅ・どう)と二人、賊たちの様子を探るために下村の巡捕に来たのだ。夜通し歩いて疲れたので、晁保正どのの家で少し休ませてもらうとなった次第。……それとだ。さきほど霊官廟で、大漢ひとり捕えた。」
晁蓋:「霊官廟?あんな場所に忍び込んで、何が目的です?」
雷横:「その通り、そこが問題だ。当人はただ旅の途中で寝ていただけだと言うが、どうにも胡散臭い。後日、時知県のもとに連れ帰ってしっかり取り調べをするつもりだ。」
晁蓋は顔色一つ変えず、酒を勧める。
だが胸の奥では、静かに推測が膨らんでいた。
晁蓋:(ここは梁山泊にも近い……あそこから流れて来た者か?いや、あそこの賊の結束はかなり固いし、私とも良好な関係を築いているから、この村で悪さを働こうというわけではあるまい。となると、そやつは流れ者ということになるが……だが、ここには流れる理由というものがない。どこに行くにも途中では通らない土地だからな。となると、その男は間違いなくこの村に……あるいは、『この私』に会いに来たという可能性が高い……)
崇杯と酒が進んだころ、晁蓋が席を立つ。
晁蓋:「少し手を洗って参る。都頭、どうぞごゆるりと。」
雷横:「おう、そちもゆっくりしてこい。」
もちろん、これは口実であった。
晁蓋は灯籠を手に、門房へとこっそり向かう。
晁蓋:(私の考えの通りなら、その男は私に何かを言いたいのだ。だが、おそらくその風貌からすると、『普通の話』ではあるまい。やつを官のもとに返す前に、話を聞いておかねばならん。)
廊下では土兵たちが酒を飲み、騒いでいる。
見張りはいない。
扉を押し開けると——黒々とした巨体が、梁から吊られていた。
露わになった筋骨たくましい身体。太腿には黒い毛が密に生え、素足は床すれすれまで垂れている。
晁蓋はその男の顔に灯をかざす。青黒い大きな顔。鬢(びん)に黒と黄が混じったような赤っぽい毛が逆立っている。
男は晁蓋を見ると、泥を噛むような声で言った。
劉唐:「あんた、ここの村の者か?」
晁蓋:「いかにも。あなたは?」
劉唐:「俺は遠方の旅人だ。生業は行商……といっても、あまりまともな品は取り扱っちゃいない。朝廷の腐敗した専売特許のやり方が気に入らなくてな。江湖(こうこ:義侠集団)の数人で手を組んで、塩だの茶だの、磁石だの陶磁器だの……禁製品や珍品をちょっくら仕入れて、全国を渡り歩いていた。その旅の最中、公孫勝とかいう道士に不思議な予言をもらって、ここに来てみたのだ。卦の予言の通り、都頭の野郎が来たまではよかったが、縄でぐるぐるに巻かれてこの有様よ。どうしたもんかと思っていた。このままじゃ、俺は天下に名の知られる義士に会う前に、この村から連れ出されちまうからな。」
晁蓋が眉をわずかに上げる。
晁蓋:「その者の名は?」
劉唐:「晁保正(ちょう・ほせい)——いや、よかった。天はちゃんと俺を導いてくれるんだな。気配でわかる。あんただろ?」
灯の火が揺れ、晁蓋の目が細くなる。
晁蓋:「私に、何の用だ?」
劉唐は胸を張り、縄に縛られたまま、堂々と言った。
劉唐:「あんたに“起義の話”を持って来た。いや、起義(きぎ:不正や圧政を倒すために、民衆や士兵が立ち上がり、武装して蜂起すること)といってもだな、そう構える規模のものじゃない。俺たち全員がちゃんと恵みを得ながら、天地を揺るがす義を示しながらも、それでいて大げさにならないような、非常にしたたかなやつだ。」
晁蓋にはこの男が何を言っているのかわからなかったが、その直感が確かに告げていた。「この話は絶対に聞かねばならない」と。
表に小水に向かったらしい、酔っ払った土兵(どへい:地方の民兵)の気配がした。晁蓋が劉唐に向かって黙るように仕草をする。
しばしの静寂。
土兵が去った気配を確認した後、晁蓋が声を落として言う。
晁蓋:「……よかろう。よいか、これから私が雷都頭を送り出して戻ってくる。そこでお前は私と対面することになる。瞬間、お前は私を『阿舅(あじゅう/叔父)』と呼べ。驚いたように言うのだ。」
劉唐:「叔父さん、やっと会えました!……ってな具合か?」
晁蓋:「その通りだ。お前の名は——」
劉唐:「劉唐だ。劉備の劉、唐代の唐。」
晁蓋:「よし、こういう話としよう。劉弟はこの東溪村で、私の外甥(がいせい)として生まれた。その後、家族が早くに病気で亡くなって、九歳か十歳のころに別の地の親戚の家に移った……」
劉唐:「その別の地をどこにする?」
晁蓋:「それはお前が自由に決めろ。東京だろうが延安府だろうが、どこでも良い。そもそも、そこまで雷都頭が質問することもなかろう。とにかく、お前は成長して、久しぶりにこの村に戻って来て、叔父にやっと出会ったというわけだ。この話で十分、土兵を黙らせることができる。わかったな。」
劉唐:「すべて理解した。」
劉唐が深く頭を下げる。
晁蓋が灯籠を持ち、静かに門房を出ようとすると、劉唐が呼び止めて言う。
劉唐:「あんたは本物の義士だ。会えてよかった。だが、おそらく、なんと言うべきか……あんたが持つ元来の清気は感じるんだが、どうも俺たちとは違う気がするな。」
晁蓋:「なんの話だ。」
劉唐:「いや、すまねえ。俺の与太話だ。それじゃ、阿舅!またあとでお会いしよう!」
扉を閉めながら、晁蓋はわずかに笑った。
晁蓋:(面白いやつだ。それにしても、風が吹き始めたな。これだけの歪んだ世。いずれ、このような話——腐った官を痛めつけるような話が私のもとに来ると思っていた。良いじゃないか。やってやろうとも!)
晁蓋は後堂に戻り、再び素知らぬ顔で雷横と杯を交わした。
やがて、東の空が白み始めた。爽やかな土の香りが漂う、晴れた良い朝である。
雷横が礼をして、立ち上がる。
雷横:「では我らは郡へ戻る。画卯(がぼう=点呼)に間に合わねばならぬからな。」
晁蓋:「官のお務め、お引き止めするわけには参りませんな。また公務でこちらへお越しの節は、どうか必ずお立ち寄りを。」
雷横:「ずいぶんと世話になってしまった!では、また。」
晁蓋と雷横がふたり、並んで庄門のほうへ歩き出す。
土兵たちは慌ただしく槍や棒を手にして、門房の中の大男を降ろした。そして背中で手を縛り上げると、門の外へ連れ出した。
晁蓋が感心したように言う。
晁蓋:「これは見事な大漢じゃないか。」
雷横:「うむ。こいつが、霊官庙で捕えた例の賊でな──」
そう説明しかけたところで、吊られていた男が突然叫ぶ。
劉唐:「阿舅(あじゅう)──!叔父上、どうかお助けを!」
晁蓋がいささか芝居がかった調子で目を丸くする。
晁蓋:「おや、こいつは……よくみるとお前、劉唐ではないか?」
劉唐:「そうです、阿舅!覚えておられましたか!」
一同、唖然とする。
雷横が晁蓋に問いただす。
雷横:「この男はいったい……?」
晁蓋:「いや驚いた。幼い頃の面影は薄いが、この赤い髪が何よりの証拠。こやつは私の外甥、王小三に間違いない。姉貴の子でな。この村で育ったが、九、十歳のころに父親を失って、親戚のいる土地へ移り住んだのだ。移り住んだ場所は……たしか……」
劉唐:「南京です、阿舅!」
晁蓋:「そうだった。それきり、消息を絶っていたな。てっきり、そっちの方でうまくやっているものだと思ったが……」
雷横:「ははぁ……しかし、そうだとすれば、なぜこやつは霊官庙などに隠れていたのだ?」
すると晁蓋は、急に怒鳴り声をあげた。
晁蓋:「まったくだ!おい小僧、なぜ真っ直ぐに私のところへ来なかった!盗みでも働こうとした!」
劉唐:「阿舅、俺は誓って盗みなんかしてねえ!」
晁蓋:「いや、そうに違いない!お前は幼い頃から手癖が悪かった!どうせここに来たのも、俺の邸宅に忍び込んで何か金目のものを盗もうとでもしたのだろう!許せん!」
晁蓋は土兵から素早い動きで棍棒をひったくると、頭ごなしに振り上げて打ちかかろうとする。
雷横たちが慌てて止めに入った。
雷横:「待たれい、保正!ここは、まずこやつの話を聞こうではないか!」
劉唐が必死で弁解する。
劉唐:「阿舅、どうかお怒りをおさめてください!これはあまりにお恥ずかしい話で……久しぶりに故郷に戻り、阿舅にお会いすると思ったら少々緊張をしてきまして……何しろ、金がなくて仕事も見つからず、阿舅に何か口利きをして欲しいとお願いに来たもんだから……どう切り出そうかなと悩みましてね!それで昨夜、道中で気を紛らわそうと酒を飲みすぎてしまい、すっかり酔っ払ってしまった。そのままお屋敷へ顔を出すのはためらわれて……それで一夜の宿を借りようと、霊官庙に転がり込んでしまった!そこへこの方たちが事情も聞かずに、いきなり捕えられたのです!本当に盗みなどしておりません!」
うまい。劉唐の演技は実にもっともらしかった。雷横はこの男が言った妙な言葉などすっかり忘れ、「なるほど、そのような事情であったか」と大いにうなずいた。
晁蓋はその様子を確認しながらも、もうひと押ししておくべきだと考えた。このまますんなり納得すると、あとで雷横に違和感が残ると思ったのだ。
晁蓋がなおも棍を振り回しながら罵る。
晁蓋:「道端でくだらぬ黄湯(おんたく:酒)を欲しがり、酔って寝込むとは何事だ!義の者である私が、自分の身内が困っている様子を助けないとでも思うのか!この小僧、人に恥をかかせおって!」
雷横が苦笑いしながらため息をつく。
雷横:「保正、晁保正どの!落ち着いて、落ち着いて!……いやはや、俺も短気な方だが、あなたもやはり熱っぽい好漢だ!ははは、まぁよいではないか。どうやら令甥は本当に盗人ではなさそうだ。いやなに、そもそも俺たちが悪かった。面識のない顔だったので、怪しんで捕えてしまった。最初から保正どのの外甥と知っていれば、こんな無礼は絶対にせん。失礼した!」
雷横が土兵に命じて縄を解かせた。
雷横:「晁保正、早とちり、まことに面目ない。これで小人どもは引き上げる。そこの劉唐とやら、あなたにもすまなかったな。どうか許してくれ。」
劉唐:「いや、こちらこそ、お騒がせをしてしまってすまねえ!」
晁蓋は顔を緩め、申し訳なさそうな笑みを浮かべて言う。
晁蓋:「お手を煩わせてしまいました。雷都頭、少しお待ちいただけるでしょうか。」
晁蓋が再び草堂へ戻る。すると彼は十両の花銀を持ち出して、これを雷横の前へ差し出した。
晁蓋:「つまらぬ物ですが、これは都頭に受け取っていただきたい。お詫びとしての品です。」
雷横:「不要だ!俺はそこらの都頭とは違う。やめてくれ。絶対に受け取らん。」
晁蓋:「受け取ってくださらぬなら、かえって私を責めておられるように聞こえます。絶対に受け取ってもらわねばなりません。」
劉唐:「そうそう、雷都頭、受け取ってくれよ。お詫びの気持ちを受け取らんと、詫びたことにならん。」
晁蓋:「小僧、また軽口を叩きおって!お前は黙っていろ!」
雷横が叔父と甥っ子の自然なやりとりを見ながら、また苦笑して頭をかく。そして、しぶしぶ手を差し出す。
雷横:「うーむ、そこまで言われてしまっては……仕方ない。保正の厚意、ありがたく頂戴しておきます。いつか必ずお返ししますよ。いや、むろん、これは言葉だけではないということを知っておいてください。この雷横、約束を違えることは絶対にない。」
晁蓋は雷横へ礼をさせ、さらに幾らかの銀を土兵たちにも配った。
門まで見送り、雷横は一行を連れて去っていく。
そのあとで晁蓋は劉唐を軒下へ連れていき、衣服と頭巾を与えた。
晁蓋:「さて──改めて紹介を願おうか。」
劉唐:「晁保正、心から感謝するぜ。小人、姓は劉(りゅう/Liú)、名は唐(とう/Táng)。東潞州(ひがしろしゅう/Dōng Lùzhōu)の出なんだ。この朱砂の鬢(びん、髪の毛)のおかげで、人からは“赤発鬼(せきはつき/Chìfà Guǐ)”というあだ名で呼ばれる。」
晁蓋が改めて、まじまじと劉唐の髪の毛を見る。
晁蓋:「確かに赤毛というのは珍しい。異国の血が流れているのか?」
劉唐:「さあ、どうかな。俺は天涯孤独の身。飢饉によって親たちも早くに死んでしまって、その後は江湖(義侠の者)の連中が集まる場所で育ったんだ。こんなわけで、あまり先代のことは知らん。ただ、どうやら一族の起源は西方にあるようだな。そんな話を幼い頃に親父から聞いた覚えがある。俺の記憶じゃ、たしか親父も赤毛だった。」
晁蓋:「なるほどな。それで、生業は密輸だったな。」
劉唐:「そう。山東、河北あたりで密貿易を営んでいた。朝廷の連中が不正に囲っているもの、日用品から貴重品まで、あらゆるものを仲間と一緒に裏で動かしていた。」
晁蓋:「その過程で道士から何かを聞いて、私のもとに来たと。」
劉唐:「そういうこと。“有縁千里来相会(縁あれば千里でも会う)”、“無縁対面不相逢(縁なければ目の前でも会えない)”と言うが、こうして出会えたのは本当に幸いだったぜ。あの道士の言葉、眉唾だったが……こうしてみると、ことごとく当たっている。ここに俺の道が続いていると言ったが、来てみると本当にしっくり来る。保正、遅くなってすまなかったが、まずは四度の拝礼をお受けいただきたい。」
そう言うと劉唐は、きちんと四度、床に頭をつけて礼をした。
晁蓋:「よいよい。なおってくれ。お前のことはわかった。それで、肝心のお前が持って来た“小さな起義”の話を教えてくれ。」
劉唐:「ここで話しても問題はないか……?」
この間は開け放たれていて、使用人たちが行き来している。
晁蓋は言う。
晁蓋:「ここにいるのは皆、私の腹心だ。包み隠さず話してよい。」
劉唐:「では──話すぞ。俺はあまり頭が良い方じゃないから、順番にゆっくり話す。まず、北京大名府(ぺきんだいめいふ/Běijīng Dàmíng Fǔ)のことだ。あそこの留守司(るすし:地方軍政長官)・梁中書(りょう・ちゅうしょ/Liáng Zhōngshū)を知っているか。」
晁蓋:「話には聞いている。なかなかの善人らしいな。」
劉唐:「そうだ。だが、残念ながらやつの夫人はあの奸臣(かんしん:悪辣な臣下)、蔡京の娘。当然、そこに色々な“臭さ”が出てくるわけだ。ここ最近、やつは付近の民から十万貫(じゅうまんかん)に相当する財を特別の税として巻き上げた。この汚い裏金を、金・珠玉・宝物・玩器に変えて洗い、蔡京の誕生祝いとして送り届ける計画が進んでいる。いわゆる『生辰綱(せいしんこう:誕生祝いの財の輸送事業)』ってやつだな。」
晁蓋:「それも噂には聞いている。」
劉唐:「それなら話は早い!つまり、あれはまぎれもなく“不義の財”──民を苦しめ、世をますます歪める、不正なる金銀だ。となれば、これを盗み出したところで、天に反するということにはならんわな?生辰綱の途中で、道理にかなったやり口で奪い取れば、天理もきっと目をつぶるはず。」
晁蓋:「その盗みを私に手伝って欲しい、ということか。」
劉唐:「そう!晁保正の名は江湖にも響き渡っていた。小人も、多少の本事(ほんじ:腕)を身につけている。一、二千の軍馬の中に槍一本で飛び込んでも退くことはない。晁保正、あんたの義を頼りたい。どうか、この事業を一緒に成功させてくれんか。この歪みきった世の中に、仁と義がまだ残っているということを示したい。」
瞬間、晁蓋は胸の奥が熱くなる。
晁蓋:「これは大きな話になる。すぐには決められん。そもそも、お前は遠路はるばる苦労してここに来たのだ。話の大筋はわかったから、今日はひとまず客室で休め。じっくり私も考える。明日改めて話そう。」
晁蓋は庄客を呼び、劉唐を客房へ案内させた。
客房に入った劉唐はしばらく黙って天井を見つめていたが、やがてひとりごとをつぶやく——
劉唐:(……なんだ、胸の奥がむかむかしてきやがる。あの場じゃ穏やかに収めた。晁保正の顔も立てた。——立てたさ。だがよく考えてみろ。俺はただ寝っ転がっていただけだ。それを賊扱いで縄をかけられ、犬みてぇに蹴られ、梁から吊るされた。江湖(こうこ)の名折れってやつだろ。赤発鬼(せきはつき)が聞いて呆れる。晁保正が助けてくれなきゃ、今ごろ県牢の臭い藁の上だ。……恩は恩。だが、礼は礼だ。あの都頭には、せめて“間違った”と分からせねぇと腹の虫がおさまらねえぞ。)
そう決まるや否や、劉唐はすっと床を離れた。
息を整えるでもなく、足が先に動く。——こういう男は、いったん火が点くと理屈はあとだ。
武器架から朴刀(ぼくとう:長柄の大刀)を一本抜き、肩に担ぐ。
そのまま庄門を出て、南へ歩き出した。
空はすでに白み始めている。北斗七星が横たわるように傾き、東の端がほんのり赤い。鶏が鳴き、女たちは髪を結い直し、馬が嘶き、旅人が歩みを急かされる。
劉唐が駆け足で五、六里も進むと、前方にゆっくり行く一行を見つけた。雷横の土兵たちだ。土の道に、隊列の影が長く伸びている。
劉唐:「おい!雷都頭!待て!」
雷横がゆっくりと振り返る。
赤い髪、朴刀を担いだ大男が、朝靄を割って迫ってくるのを見て、さっと顔色が変わる。
土兵も腰を浮かせる。
雷横は咄嗟に兵の朴刀をひったくり、逆に構え直して怒鳴り返した。
雷横:「何の用だ、赤髪の小僧!そこで止まれ!」
劉唐:「話は簡単だッ!」
劉唐は歩みを止めない。
視線は雷横だけでなく、背後の兵の数、間合い、逃げ道までを一瞥で測っている。
劉唐:「よく考えてみりゃな——お前らのやったことは、失礼千万だ!この俺を盗人扱いしやがって!」
劉唐は多少の間合いを取れる位置でぴたりと止まり、今度は語気を抑えて言う。
劉唐:「ひと勝負しろ。」
雷横は一瞬、苦笑した。ここまで真っ直ぐに喧嘩を売られれば、本音ではすぐにでも買いたいところ。
だが——相手は“晁保正の甥”と聞く。
ここで私闘になって何かが起これば、県の面子も、土兵の威信もまとめて地に落ちる。
雷横:「村へ帰れ。やめておけ。」
劉唐:「帰らん。」
即答だった。
劉唐:「戦え。」
土兵:「どうします?雷都頭」
雷横:「放っておけ。相手にならん。」
その言葉が、劉唐の胸を狙い澄まして打ち抜いた。
劉唐の目が、ぎらりと光る。
劉唐:「おうおう、よくも吠えたな。」
一歩、踏み出す。
劉唐:「民を痛めつける、薄汚ねえ官吏の仲間め。その腐った心根、叩き直してやる!」
雷横の目が、すっと細くなった。
雷横は気が短い。だが同時に、“情の人”でもある。
罵られても、多少は耐える。
だが……自分が守ってきた筋を踏みにじられると、引けない。
雷横:「……いまの言い草は、許されんぞ。」
雷横は、深く息を吸う。
雷横:「いいだろう。勝負で決めよう。血を見ることになる。俺を恨むんじゃないぞ!」
劉唐:「こちらの台詞だ!」
次の瞬間、劉唐が朴刀を高く掲げて突進した。
雷横は呵々(かか)と笑い、正面から刃を受けに出る。
街道の真ん中で、鋼と鋼がぶつかり、火花が散った。
打ち合い、斬り結び、突けば受け、受ければ返す。
ひとりは、北京の都頭「插翅虎(そうしこ)」雷横。
もうひとりは、江湖の好漢「赤発鬼(せきはつき)」劉唐。
純粋な武芸の腕前では、雷横が上だった。
動きは速く、刃筋は正確。
一撃一撃が、官軍仕込みの正道である。
だが、劉唐は妙だった。
鈍いわけではない。わざと、半拍遅らせる。
打つと思えば流し、引くと思えば踏み込む。
雷横の呼吸、足運び、力の入る瞬間を、一合ごとに盗み見ている。
それは正道の稽古では生まれぬ、江湖流の“癖”。
赤い髪と同じく、危うく、計算された光を放っている。
三十合を越えても、勝負は決しない。
雷横は気づき始める。
雷横:(押し切れん。この男、最初から勝つ気ではないな?このまま俺が疲れて隙が出るのを狙っているのだ。)
雷横は自分の背後で、土兵たちがそわそわと腰を浮かせ始めたのを感じる。雷横の胸に、重たいものがのしかかる。
雷横:(これ以上、俺が押し切れぬと見れば、一斉に飛びかかる算段だな。それはいかん。ここで兵が出れば、これは“正義”ではなく“数の暴力”になるわ。そこまで大事に至れば、収まりがつかんぞ。)
忠と孝。官としての務め。民の目。部下の信。
それらが、一瞬にして雷横の背に翼のように重なった。
瞬間、場の空気がふっと歪む。
劉唐の視線が、雷横ではなく、背後の土兵たちへと一瞬だけ走る。
雷横:(小僧も感じ取ったか。いよいよ、これはいかんぞ!)
——そのときだ。
この戦いのすぐ目の前の邸宅で、朝の空気を吸っていた男がいた。
この私、呉用だ。
いつもと変わらぬ朝……と思いきや、とんでもない。籬(まがき:竹の垣根)の向こうから、金属が噛み合う凄まじい音が聞こえて来るではないか。
覗くと、街道の真ん中で朴刀が踊っている。
片や雷都頭、片や見知らぬ赤髪の大男。
その背後にいる土兵たちが、今にも動き出しそうに蠢いている。
私:(これは面白い。だが、面白がっている場合ではないな。)
土兵が動けば死人が出る。死人が出れば、知県の耳に入る。知県の耳に入れば、この村の失態として、晁保正が責任を負うことになる。
ここは、何としても仲裁に入らねばならない。
私は急いで籬門を押して、表に出た。
私:「お二方、そこまでにしておきなさい!しばらく見物させてもらったが——ここから先は“勝負”ではなく“殺し合い”になります!」
ふたりは朴刀を引き、ひとまず間合いを切った。
劉唐がぎらりと私を睨む。
劉唐:「誰だ?」
私:「この村の書生です。あだ名は“智多星(ちたせい)”。秀才(しゅうさい:官僚登用試験・科挙の中級合格者)で、私塾で子どもに字を教えている身です。」
劉唐は鼻で笑った。
劉唐:「こんな時代に官僚になりたいのか。秀才風情が何の用だ?」
雷横:「小僧、失礼な言い方をするではない!立派な先生であるぞ!お前の叔父上とも親しい仲だ!……あいや、先生、朝から失礼をした。実は——」
雷横は事情を説明した。
霊官廟での捕縛。晁保正の“外甥”という口添え。放免。
それを不服として、いまこうして挑発された——と。
私は内心で首をひねる。
私:(晁蓋とは幼なじみだ。親類の顔ぶれは、手の皺ほど知っている。姉妹の子に、こんな赤髪の大男などいるはずがない。……何か“仕掛け”があるな。)
だが今はそれを暴かない。
晁蓋が敢えてこの赤髪の大男を庇ったのだ。
暴けば何かが壊れると、私は踏んだ。
私:「赤髪の大漢。保正と都頭が“納得した形”で場を収めました。それを掘り返して騒げば、晁保正の面目は丸つぶれです。それでも構わないというのですか?」
劉唐:「構うもんかよ!やられたらやり返す!これは阿舅(あじゅう/叔父)の顔とは別だぜ!そもそも、あの都頭は阿舅から十両を奪った盗人だ!俺が成敗せねばならん!」
落ち着き始めていた雷横の目がぎらりと光る。
雷横の怒鳴り声が天に響く。
雷横:「おい、赤髪!とんでもないことを言うなよ!あれは保正どのから“正当に”いただいた銀だ!貴様もその場にいたであろう!」
劉唐:「そうだったか?知らんな!役人はいつも嘘をつく!」
雷横:「嘘つきは貴様であろう!」
——もう子どもの喧嘩と同じだ。
ふたりは互角に見え、しかも“面子の守り方”がよく似ている。
私は声を強めた。
私:「やめなさい!もう十分でしょう!雷都頭は“仕事としての疑い”を示しただけ。あなたもこの打ち合いで“無礼の恨み”を晴らしました。これ以上続けて、どちらかが傷を負ってしまえば、もう取り返しがつきませんよ。双方に何の得もありません。」
雷横:「だが先生、ここまで侮辱されて、黙っているわけにはいかんではないか?」
劉唐:「上等だ!来いよ、腐れ都頭!」
ふたりが再び飛びかかろうとした、そのとき——
土兵たち:「保正だ!」
振り返ると、晁蓋が衣を羽織り、前をはだけたまま、大股で駆けてくる。息が荒い。
晁蓋:「畜生め!無礼をやめんか!」
私は思わず胸の内で笑った。
晁蓋が割って入れば、刃は必ず止まる。
この男の義の声は、それほど重い。
晁蓋は雷横の前に立ち、深く頭を下げた。
晁蓋:「雷都頭、すべてこの愚かな“令甥”の勝手な振る舞い。聞いて肝を冷やしました。どうか今日はお引き取りを。改めて、こちらから正式に謝りに参ります。」
雷横は一転して苦笑し、すんなりと朴刀を下ろした。
彼もまたどこかで刀を下ろす機会を求めていたと見える。
雷横:「保正もご苦労なり!保正がそう言うなら、俺もこれ以上は追及せん。——では!」
雷横は土兵たちを促し、隊列を整えて去っていった。
朝靄の向こうへ、官の影が遠ざかる。
その背を見送り、私は晁蓋に言った。
私:「保正が来なければ、本当に殺し合いでしたよ。ところで、その“令甥”……ただ者ではありませんね。雷横ほどの朴刀遣いが、押し切れないとは。」
晁蓋は静かにうなずいた。
晁蓋:「江湖の者だ。姓は劉、名は唐。東潞州出身。赤発鬼(せきはつき)と呼ばれている。——まったく、劉弟。いまは目立つことはよくない。せっかく静かに収めたのに、なぜ火を起こした。」
劉唐は、さっきまでの鬼が嘘のように頭を掻いた。
熱が引いたのだ。こういう男は、引くときは潔い。
劉唐:「すまねぇ。思い出すと、急にかっとなっちまう性分でな。」
劉唐が深く頭を下げる。
不器用だが、礼は知っている。恩を受けたまま、知らん顔ができる男ではない。
私は晁蓋の言葉に引っかかった。
——「いまは目立つことはよくない」。
私:「保正、何か問題があったのですか?」
晁蓋:「うむ……お前も耳に挟んでいるだろう。北京大名府の梁中書(りょう・ちゅうしょ)……生辰綱の件だ。」
晁蓋は劉唐を見た。
晁蓋:「劉弟は、ある道士から話を聞き、卦(け:易に基づく占い)の筋を辿って、私のところへ来た。あの不義の財を奪う話を持ってな。『奪っても天理には背かぬ』——そう言った。」
劉唐:「この先生に言っちまって大丈夫か?」
晁蓋:「問題どころか、むしろ欠かせぬ。力だけじゃ成らん。——智が要る。つまり、呉先生が要る。」
劉唐は私をちらと見て、まだ半信半疑の顔をした。
劉唐:「だが……危ない橋を渡るんだぞ。先生は官の道を断つのか?」
晁蓋がふっと笑う。
晁蓋:「先生を、口先だけの儒家だと思うな。私とは幼馴染でな。義を貫くやり方も、汚い世の渡り方も、互いに腹の底まで知っている。私が腹を立てて、“斬って済ませる”方へ転げそうになると……いつも先生が——その一歩手前で、もっと利く策へ引き戻してくれるのだ。」
劉唐:「ほう。たとえば、どんな具合だ?」
晁蓋:「五年ほど前、このあたりで水害があっただろう。寒く乾いた時期に、なぜか山東だけがひどく荒れた。」
劉唐:「ああ、あったな。俺は南京にいたが……話を聞いて、胸が詰まったぞ。」
晁蓋:「あのとき、災民がこの村へ流れ込んできた。私は屋敷を開け放して受け入れたが、流行病が出てな。どうしても薬が要った。薬は三里先の官倉にあった。“救荒の備え”だ。仁宗のころ、富弼(ふ・ひつ/Fù Bì)が整えた——あれだ。」
晁蓋は眉をひそめた。思い出すだけで腹が立ったのだ。
晁蓋:「私と呉先生、庄客を数人連れて馬を飛ばし、頼みに行った。すると門番どもが言う。『いまは高俅(こうきゅう)の許可がなければ、開けられません』と。」
劉唐:「……その非常時に、か?」
晁蓋:「そうだ。民が咳き込み、子どもが熱で震えている時に、だ。“高俅の印がいる”——そう言った。」
劉唐:「……なんだと!?くそったれ!」
晁蓋:「銀子も出した。だが首を振る。『許可が出るのは早くて翌週』——そう言いやがった。」
劉唐:「民を何だと思ってやがる!!」
晁蓋:「私も同じことを叫びかけた。もし呉先生が止めなければ、その場で連中を斬り殺し、倉をこじ開けていた。」
劉唐は、呉用をにらむ。
劉唐:「先生、なんで止めた!そんな奴ら、死んで当然だろう!」
私:「私も、腹が煮えました。ただ……正面からの暴力は、最後の手段です。暴力で片がついても、次の禍が必ず生まれる。」
劉唐:「じゃあ、夜に忍び込んで盗むのか?」
私:「それも考えました。しかし保正は“静かに潜る”性分ではない。見つかれば兵を斬る。庄客たちは力はあっても、戦の訓練はない。私にあるのは学問だけ。孔子と孫子の書を掲げても、槍は止まりません。」
劉唐:「……じゃあ、どうした?」
私:「そこで一策、講じました。“倉を開けるには許可が要る。許可を証明するのは書と印だ。ならば——書と印を、先に用意すればよい”と。」
晁蓋が、にやりと笑う。
晁蓋:「つまり——許可書は、本物でなくてもよい、というわけだ。」
劉唐:「あ?偽造か。先生、そんな高等な芸まで持ってるのか?」
私:「私が出したのは“案”だけです。実際に動かせたのは、保正の人脈ですよ。」
晁蓋:「私たちと親しい好漢に、“聖手書生”の蕭讓(しょう・じょう/Xiāo Ràng)と、“玉臂匠”の金大堅(きん・だいけん/Jīn Dàjiān)がいる。書と印の贋作では、あの二人は化け物じみていてな。済州にいたから、夜通し馬を走らせた。」
私:「事情を話すと、二人とも机を叩いて怒りました。『そんな不義がまかり通るのは間違っている!』と。」
晁蓋:「そしてその場で——完璧な許可書を作ってくれた。」
私:「それから庄客を数人、都から来た伝令に変装させました。『災害時は、救援の求めがあれば即刻、薬剤と食糧を明け渡すべし。』——そう書いた紙を、門番の鼻先に突きつけたのです。」
劉唐:「それで倉が開いたのか!」
私:「……いえ、実は。」
晁蓋:「この話には、もう一山あってな。焦っていたせいで、印の文字を間違えたことに、誰も気づかなかった。」
劉唐:「間違えた?」
晁蓋:「本来は『太尉高俅』。だが彫られていた印の文字は——『太尉高球』だった。数年前に使われていた『球』の字体だったのだ。」
劉唐:「古い印かよ!?」
私:「それに気づいたのは、変装した庄客が偽書を門番に渡そうとした——まさに、その瞬間でした。」
劉唐:「じゃあ、終わりじゃねえか!」
私:「——ところが、です。」
私は、そこで一拍置いた。
私:「たまたま、その官倉に視察に来ていた押司(おす:下級の書記官)がいた。事情は、すでに聞いていたようでした。彼は書を一目見るなり、さっと手に取り、深く頭を下げて、こう言ったのです。」
——これは、まさしく高太尉どのからの命。
——早く実行せねば、こちらの首が飛ぶ。
——皆、急いで倉を開け、薬を渡しなさい。
晁蓋:「後で知ったが、その押司は“義”で名高い役人だった。書の間違いにすぐ気づきながらも、これを見逃してくれたのだ。」
私:「こうして倉は開き、薬は手に入り、民も助かった。——とまぁ、そういうわけです。」
劉唐:「どうなるかと思ったが……ははっ!よかった、よかった!いやぁ、痛快だ!」
晁蓋が締めくくる。
晁蓋:「だから言ったろう。呉先生は——“法を曲げて義を押し通す”天才だ。腐敗役人は“法を曲げて利を押し通す”。俺たちは、その真逆というわけだな。」
続けて晁蓋は私を見て、少しだけ声を落として言う。
晁蓋:「俺は義憤が起きると、まっすぐ斬る方へ転げる。短く太くしか生きられん男だ。だが先生がいるから、義を果たしながら、まだ生きていられる。だからな……話を戻すが、劉弟の生辰綱の話。先生がいなければ、絶対に実行できん。」
劉唐は、今度ははっきりと私へ頭を下げた。
劉唐:「呉先生。さっきは無礼をした。俺は熱くなると目の前しか見えない。だが、今回の橋は——先生がいなきゃ渡れねえ。どうか、指導してくれ。頼む。」
私は微笑んで首を振った。恐縮しているふりをしながら、内心では測っていた。この男は荒い。だが、義に向けたときの推進力は稀だ。——使いどころを誤らなければ、揺るぎない刃になる。
そのとき、晁蓋がふっと黙り込み、腕を組んだ。
そして思い出したように言う。
晁蓋:「昨夜、妙な夢を見た。北斗七星が屋根の上へ、すとん、と落ちてくる夢だ。その斗柄(ひしゃく)の先に、もうひとつ小さな星がくっついていてな。それが真っ白な光になり、空へ飛んで消えた。」
私:「七星……七人でやれ、という暗示でしょうか。」
劉唐:「七人だけじゃ足りねぇ気がするな。俺は庄客も動かすものだと思ってた。」
私は少し笑い、すぐに真顔に戻した。
私:「大きな計画ほど、小さな人数で行う。人が多ければ噂が走る。噂が走れば官が動く。生辰綱ほどの財を正面から奪えば、追手は百倍になる。だが七人、あるいは夢の“小さな星”も加えて八人なら——相手は必ず油断する。そこを突くのは、十分にあり得る戦略です。」
言いながら、私の脳裏に“水の者”が浮かんだ。
晁蓋も私の顔を見て、同じ結論にたどり着いたらしい。
晁蓋:「となれば——」
私:「石碣村(せきけつそん/Shíjié Cūn)の三兄弟。彼らの力がいまこそ必要。彼らもまたこのときを待っていたはず。」
ここで言う三兄弟とは誰なのか。
それは次の段で、改めて語ることにしよう。
------------------------------------------
※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した
◈ 章の“入口”を作り直した:鄆城の空気が「説明」から「体験」になった
原作は、いきなり雷横が霊官殿で赤発鬼を縛るところから入る。テンポは早いけど、読者は「鄆城ってどんな場所?なぜこの人たちが動いてるの?」が置き去りになりがち。
リメイク版はまず、
鄆城が「静かすぎるほど穏やか」
それを不思議がる新任知県・時文彬
お忍び調査(微服私訪)で“民の声”を拾う
という導入を入れて、舞台の治安と倫理の空気を先に読者の肺に吸わせた。
これ、地味に効く。
「賊が出る/出ない」じゃなくて、“なぜこの町は壊れてないのか”から入るから、後の生辰綱が「ただの盗賊話」じゃなくて「歪んだ制度への反応」に見えてくる。
◈ 宋江の“伝説化”を前倒し:詩が「飾り」じゃなく「政治装置」になった
原作の第十四回は、宋江(のちの梁山泊の指導者)そのものは前景にいない。章題にも出ない。
でもリメイク版は、茶店で詩を吟じさせて、宋江=鄆城の空気を作ってる中心として提示した。しかも茶博士の説明がいい。
“難しい理屈で殴らない”
“相手の頭の高さまで降りてくる”
“甘いだけじゃなく嘘を見抜く”
つまり宋江を、単なる「いい人」じゃなくて、民間統治の実務者として描いてる。
原作だと宋江の評価は「義侠の名声」が先行しがちだけど、こちらは「なぜ信頼されるか」を言語化してる。読者の納得が、だいぶ近代的になる。
◈ 知県・都頭たちに“仕事”を与えた:捕縛が偶然じゃなく、行政の判断になる
原作では「巡捕してたから捕まえた」が基本線で、知県の存在は命令文で済む。
リメイク版は、
時知県が梁山泊周辺の火の粉を警戒し
朱仝・雷横の役割を整理し
「民を騒がせるな/冤罪は官の罪」と釘を刺す
といった具合に、統治のディテールを入れた。
これ、読者にとっては“劉唐の捕縛=完全なる偶然”じゃなく、
“治安システムに基づく結果の邂逅”に見える。
◈ 晁蓋の“托塔天王”を、寓話から社会批評へアップグレード
原作の塔エピソードは、わりとストレートに「鬼が出た→僧が塔作れ→晁蓋が怒って塔を運んだ→托塔天王」という民話っぽい味。
リメイク版はここを、あえて大きく膨らませて
精妖騒ぎ=“問題の押し付け合い”
愚かな役人=“解決ではなく移動”
災民が賊になる背景=“分配の欠如”
蔡京賄賂十万貫=“狂った優先順位”
まで踏み込んだ。
要するに晁蓋の怪力を、腕力自慢じゃなく
「責任を引き受ける倫理」に格上げしてる。
托塔天王が“筋肉の称号”から“政治的意思の称号”になった。これは強い。
◈ 劉唐が「ただの乱暴者」から「戦略の匂いがする男」へ
原作の劉唐は、豪胆で短気、そしてわりと直線的。
もちろん魅力はあるけど、動機が「吊られた・銀子だ」で終わりやすい。
リメイク版は捕縛の場面からして、劉唐に
人数と距離を測る
結び目を見る
わざと半拍遅らせる戦い方
という描写を足してる。
結果、劉唐が“暴れ牛”じゃなく
「荒いけど計算もできる危険物」になった。
この先、呉用と組ませる布石としても自然だし、読者の期待値が上がる。
◈ 呉用の登場が“詩付き自己紹介”から“危機管理の現場介入”になった
原作は、呉用が銅鎖を持って登場→詩で称賛→仲裁、という伝統芸能の型が美しい。
ただ、現代読者には「急にプロフ解説が始まった」という分断感が出やすい。
リメイク版は、そもそもこの物語を「呉用」の一人称視点で描くという設定に置いて、出来事の因果や自身の心理状態を肉づけた。
また原作にはない呉用の“経歴”も対話の中にさりげなく登場させて、彼の後の軍師としての正当性を高めてもいる。
これで呉用は「何だか賢そう」じゃなくて
「危機の構造が見える人」として入ってくる。
賢さの見せ方を、ちゃんと現代小説の呼吸にしてみたんだ。
◈ “七つの星”の夢が、計画論に接続される:占いがロマンじゃなく戦略になる
原作でも晁蓋の夢は重要で、「七〜八人必要」という人数論へ行く。
リメイク版はそこに、
「人数が多いほど噂が走る」
「噂が走れば官が動く」
「だから小人数が合理的」
という、呉用の“現代的な作戦原理”を差し込んだ。
占いを、ふわっとした神秘で終わらせず、情報戦の話に翻訳してる。こういう親切さが納得につながる気がする。
◈ 呉用の“経歴”:官倉の偽造許可証エピソードで「義の技術」を提示した
ここは原作にない、かなり大きなリメイクの改造ポイント。
晁蓋が斬って解決しそうになる
呉用が“暴力は最後”で止める
書と印を先に用意(後の梁山泊メンバー、蕭讓・金大堅が前倒しで登場)
しかも印の字体ミスを、押司の宋江が“義”で拾う(ここが晁蓋と宋江の出会いの起点となる)
つまり「義」は心情だけじゃなく、
制度の穴を突く技術(しかも人命優先)として描かれている。
原作の梁山泊は“義賊”だけど、リメイク版はさらに一段進んで、
「腐敗が“法を曲げて利を通す”なら、こちらは“法を曲げて義を通す”】【ただし無差別には壊さない】
という倫理体系が立ち上がってる。
読者が「賊の話」を読んでいるはずなのに、いつの間にか「社会の設計」の話を読まされてるというイメージで構成した。
ちなみに、この出来事は、晁蓋のモデルと言われている琺瑯(ほう・ろう:後の『水滸伝』における“ラスボス”、実在の宋代の反乱指導者)の逸話をモチーフにしたよ。
◈ この回で起きた変化
原作は「事件が起きる」中心、リメイク版は「事件が起きる社会の構造」を中心に描く。
読者は、劉唐や晁蓋や呉用を、武勇の駒じゃなく “歪んだ世界に対するそれぞれの解答”として読めるようになったんじゃないかな。
梁山泊を“腕力の伝説”から、“倫理と戦略の実験場”に格上げしようという試みだ。
宋代官界が腐ってるほど、その輝きが増す。皮肉だけど、物語としては深い味が出る。
コメント