- 光閃 上海蟹
- 2025年12月29日
- 読了時間: 33分

2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。
自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。
そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。
本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。
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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第十六回

"楊志、金銀担を護送/呉用、智略で生辰綱を奪う"
生辰綱の出発準備をほぼ整えた北京大名府(ぺきんだいめいふ/Běijīng Dàmíng Fǔ)では——
軍政を預かる梁中書(りょう・ちゅうしょ/Liáng Zhōngshū)が机に向かったまま、長く息を吐いていた。
岳父(がくふ:妻の父)——蔡太師(さい・たいし/Cài Jīng)に賄賂として送る生辰綱。その護送責任者を、いまだ決めきれずにいた。
仕事そのものは、珍しいものではない。
兵も将も揃っている。力だけで言えば、“巨神”の索超(さく・ちょう)を筆頭に、これ以上ない布陣を敷ける。
だが——梁中書の眉は、そこから先で必ず寄る。
梁中書:(硬すぎる……)
北京大名府の軍は統率力があり、正面からの敵には無類に強い。
だが、生辰綱を狙うような輩が正道で来るはずがない。
奇策、裏道、人心の隙……そうしたものに対して、武の直線性はかえって脆いものだ。
そこへ、後堂から足音がした。
蔡夫人が、怪訝な顔で現れる。その視線は、夫の表情よりも、机の上に並ぶ書付に先に向いていた。
蔡夫人:「相公(しょうこう)、生辰綱の護送指示役は、もうお決まりなのですか?」
梁中書:「……いや。なかなか、踏ん切りがつかないでいます。」
蔡夫人の眉が、わずかに跳ねる。
蔡夫人:「まあ。もう明日か明後日には出発だというのに、まだ決めておられぬのですか?」
声は柔らかい。だが、その下にあるのは「遅れなどを取って、父の顔を汚すことは許しませんよ」という威圧だ。
梁中書がいつもの妻の意地の悪い気配を察して、答える。
梁中書:「候補は絞ってはいるのです……声もかけ、準備もさせています。ただ、いざというとき、本当に“信頼できるか”となると……」
蔡夫人は、ふっと鼻で笑った。
蔡夫人:「信頼、ですか。それなら簡単ではありませんか。」
そして、階下に控えている一人の男を指先で示す。
蔡夫人:「あの者でよろしいではありませんか。」
梁中書の視線が、自然とそちらへ流れる。
——青面獣(せいめんじゅう)、楊志(よう・し/Yáng Zhì)。かつて花石綱で災難に遭い、高俅に疎まれ、職を失い、果ては破落戸の殺傷騒ぎで流刑にまで落ちた男。
だが今は違う。梁中書のもとで働き、大名府の提轄(ていかつ)として、これ以上ないほど真面目に、忠実に仕えている。
蔡夫人:「相公は、あの男をいつも褒めておられる。働きぶりも、気性も、文句はないと。」
梁中書:「確かに……」
蔡夫人:「ならば、迷うこともないでしょう。あの青い痣(あざ)のある方に任せて生辰綱を送らせればよろしいのではありませんか?」
その言い方は、軽い。軽すぎる。
梁中書は、無意識に指を組み替えた。
無論、楊志は候補の一人だ。それは間違いではない。能力だけを見れば、最有力と言ってよいであろう。
だがあれこそ、索超より“硬さ”が上だと感じる。真面目すぎるのだ。
梁中書:「楊志は使える男だ。だが、それだけに——」
蔡夫人が被せて言う。
蔡夫人:「相公。世の中とは、そういうものではありませんか。」
彼女は歩み寄り、低い声で続ける。
蔡夫人:「花石綱で失敗した過去。流刑に落ちた経歴。それでも拾ってやったのが相公——いざとなれば、“恩に報いるために命を張る”ことができる男でしょう?」
善い話に聞こえる。
だがその実、この女は責任の置き場を最初から定めている。
万一、何かが起きて蔡京から詰められたとき、「楊志がしくじりました」と言えば済む。相公も蔡家も傷つかない。傷つくのは、あの男ひとり、というわけだ。
梁中書の胸の奥に、言葉にならぬ声が刺さる。
梁中書:(この女からすれば、楊志は所詮、囚人あがり——捨てても損はないというわけだ。)
蔡夫人はそれを口にしない。
だが、口にしないからこそ、なお悪辣だ。
彼女は不敵な笑みを浮かべたまま、追い打ちをかける。
蔡夫人:「楊家将ほどの手練れが、どうして賊などに負けましょう?早くお決めになることです。遅れれば父の機嫌が悪くなります。それでも、よろしいのですか?」
梁中書は返さない。いや、返せない。蔡太師という名が、喉に鉛のように落ちる。
沈黙の末、彼は、ゆっくりとうなずいた。
梁中書:「……仕方ない。楊志を、ここへ呼べ」
蔡夫人の口元が、わずかに上がる。勝った者の笑みだ。
梁中書は人をやり、楊志を呼び入れて、彼に生辰綱の責任者にすることを告げた。
楊志は寡黙にただ短く、「恩相(おんしょう)に改めて段取りを聞きたく存じます」とだけ言った。
梁中書:「うむ、正式に定まった段取りはこうだ。」
梁中書が説明を始める。
梁中書:「この大名府から“太平車(たいへいぐるま)”を十台出す。廂禁軍(しょうきんぐん)を十人、車の監押につける。それぞれの車には黄旗を立て、“献賀太師・生辰綱”と書かせる。さらに車ごとに一人ずつ軍健をつける。三日のうちに出立だ。」
言い切って、梁中書は楊志の反応を待った。
楊志は——首を横に振った。
楊志:「私は恩相の言葉に従うのみ。逆らいはいたしません。ただ……」
その「ただ」が、刃のように鋭い。
楊志:「このままでは辞退しなければなりません。」
梁中書:「何だと?」
楊志:「昨年の十万貫が途中で奪われた話は、耳にしております。今年は盗賊が昨年以上に跋扈しております。しかも今回は水路がなく、すべて陸路。ご覧ください。」
楊志は書に描かれた地形を指差しながら、道の名を一つずつ挙げる。
それは地理の暗記ではなく、生き残る者の実感であった。
楊志:「紫金山、二龍山、桃花山、傘蓋山、黄泥岡、白沙䲧、野雲渡、赤松林。どれも強盗の巣のような土地柄。単身の旅人でさえ怖れて通らぬ道です。」
言葉が淡々としている分、恐ろしい。
楊志:「まして十万貫の金銀宝物と知れたら……いや、すでに噂は飛び交っている。大々的に旗を掲げながら移動すれば、どこでも襲われることが目に見えている。この時点ですでに負け。護送は守るより奪う方がずっと楽。相手が地の利に任せて次々に攻めてきたら、こちらは包囲された状態で車を背に戦うしかない。刀で何とか防衛しても、終わりなく飛んでくる矢や石で消耗する。何とかひとつの地を切り抜けたとしても、また次の地で同じことをしなければならない。これは財どころか命も捨てるようなもの。ゆえに、私は“行けぬ”と申し上げるのです。」
梁中書:「それならば兵を増やそう。」
楊志:「五百人、千人つけようと同じこと。」
梁中書:「なぜそう言える?」
楊志の目が、わずかに冷たくなる。
楊志:「恩相には正直に申し上げるが、ここの士兵は確かに腕は良いが、心があまりに弱い。この国の士兵らしいと言うべきか、肝が座っていない。実際に命を賭して戦った経験のない若い士兵が多く、生死の掛かった、いざというときの踏ん張りがきかない。強盗たちが雪崩れ込んできたと一声聞けば、真っ先に逃げるでしょう。」
梁中書がため息をつく。
梁中書:「ならば、生辰綱を送るのをやめるか?」
楊志は一呼吸置いた。
そして、別の案を差し出す。
楊志:「私に一計ございます。それをお認めいただけるなら、生辰綱の責任をお引き受けいたします。」
梁中書:「言ってみろ。」
楊志:「太平車は不要。礼物は十数担(に)に分け、すべて“行商の荷物”に偽装する。そして実践経験のある壮健な士兵の精鋭を十人選び、“脚夫(きゃくふ)”として担がせる。さらにもうひとり、客商人に扮させ、小人と一緒に表向きの“主人”を演じる。」
彼の語りは短く、的確で、情がない。
だが、一人で責任を背負う者の確かな計算が感じられる。
楊志:「十人と一人、合計十二人で、夜も昼も行軍し、こっそり東京へ運び込む。これなら、まず生辰綱と気づかれることはない。万が一、賊の気配を察するようなことがあっても、守るのではなく逃げられる。これが、一番安全です。」
梁中書は普段の楊志の寡黙さから参謀のできないものと感じていたが、それは勘違いであるとわかった。
この男は柔らかな知略にも抜きに出ている。これなら、任せても大丈夫であろう——
梁中書:「なるほど、よく考えてくれた!」
楊志:「身に余る光栄にございます。」
こうして、準備が進む。
楊志は担ぎ手の手配をし、兵を選び、荷を括り直した。
翌朝——梁中書は再び楊志を呼ぶ。
梁中書:「明日の出立でよいか。」
楊志:「明け方には出立いたします。」
梁中書:「夫人からも、もう一担、礼物が出る。太師府の“内々の方々”への個別の贈り物だ。それも一緒に持っていってくれ。」
——来た。
楊志の喉の奥で、何かがきしむ。
楊志:(蔡京の娘め……)
荷が増えれば、危険が増える。偽装が厚くなればなるほど、荷を守る手が細くなる。それが分からぬのか。
楊志は舌打ちを呑み込み、表情を変えずに頭を下げる。
楊志:「……承知いたしました。」
梁中書はほっとしたように息をつき、続けて言った。
その息の緩みが、次の一言を軽くした。
梁中書:「道筋をよく知っている謝都管(しゃ・どかん/Xiè dūguǎn)と、二人の虞候(ぐこう/yúhòu)も同行させることにしよう。」
楊志は、今度は即座に首を横に振った。
礼も作法も、ひとまず脇に置く。ここは譲れば危険が高くなる。
楊志:「それは、お受けできません」
梁中書:「なぜだ?」
楊志:「この十担の礼物は、すべて私が責任を負います。」
声は低いが、言葉は揺れない。
楊志:「行き時、休み時、泊まり時——すべて私が完全に指揮しなければ、この厳しい道は越えられぬ。そこへ夫人付きの老都管、太師府の乳母役とも言える男が割り込んでくれば、やり方をめぐって道すがら、私と言い争いになるのは目に見えている。さしづめ私の監視役だろうが、これではまともに護送などできません。」
彼の目が、鋭くなる。
楊志:「つまらぬ自尊心で隊列を乱されれば、それだけ賊に隙を与える。やめた方が無難です。」
ずばりと言う。
梁中書も、それが理であることは分かっている。
分かっているからこそ、顔が曇る。
梁中書の背には、蔡夫人の声が張りついていた。
梁中書:(“安心のために、おつけになってください”だって?まったくどうしようもない……)
夫人は謝都管と虞候を同行させねば安心できぬと言った。彼女は、人を信じない。ゆえに「自分の知っている者」を鎖のように繋いでおきたがる。目の届かぬ場所で、誰かが“勝手に判断する”ことが怖いのだ。
そして、もう一つ。もししくじれば——「謝都管が見ていた」「虞候が聞いていた」、その証言で、責任の形を好きに作り直せる。
だが、楊志はこればかりは折れぬ様子。命令を守る代わりに、他人の顔色は守らぬ男だ。
梁中書はしばし困惑し、唇を湿らせた。
そして改めて、言い直す。
梁中書:「……ふむ。ならば、こうしよう。彼ら三人にも“すべて楊志の指示に従え”と厳命しておく。それを証する書も残しておこう。それでどうだ。」
楊志は一拍を置いて、しぶしぶ答える。
楊志:「そこまで仰せいただけるなら──この身を賭けてお預かりします。」
梁中書は喜び、謝都管と二人の虞候を呼んだ。
梁中書:「よく聞け。生辰綱十一担。監押の責任はすべて楊提轄(よう・ていかつ)に負わせた。お前たち三人は彼の指示に一切逆らうな。道中の起居、行軍、宿泊、すべて楊志の言葉に従え。夫人からの細かな用向きはお前たちだけでよく考えて処理せよ。とにかく一刻も早く無事に行って戻るのだ。」
三人は口々に「承知」と答えた。
そして、出立の日——
府の前に、十一担の荷が整然と並べられた。
生辰綱十担。夫人からの礼物一担。
その前に“脚夫”の姿をした士兵が十一人、肩をすぼめて立っている。
楊志は、荷より先に脚夫を見た。
——顔が違う。
昨夜までに自分が選び抜いたはずの者が、一人もいない。
目つき、立ち方、足の置き方。
精鋭の匂いが薄い。かわりに漂うのは、命令待ちの臆病さ。
楊志の喉の奥で、怒りが焼けた。
楊志:「どういうことだ!こいつらは誰だ!誰の指示でここに来た!」
声が府の門を叩き、空気が一瞬固まる。
脚夫たちは互いに目を泳がせ、誰も口を開かない。
その中で、小柄な士兵が、恐る恐る一歩だけ前に出た。
士兵:「謝都管に、言われまして……」
楊志の目が、厳しく細くなる。
そのとき、客人風の衣に着替えた謝都管と、従者の装いをした二人の虞候が、こちらへ悠々と歩み出てきた。
謝都管は涼しい顔だ。涼しすぎる。命賭けの旅をしようという覚悟の顔ではない。
楊志は間合いを詰めた。
朴刀に手は掛けない。だが、その声は刃である。
楊志:「都管どの。これは何だ。私の選んだ者はどこへやった。」
謝都管は肩をすくめ、さらりと言った。
謝都管:「わしは相公(梁中書)から命じられたまで。事情はわからんよ。疑問があるなら、当人に聞きに行ったらどうだ?」
その言葉は、逃げでもあり、刺でもある。
「責任は上だ」と言いながら、同時に「今さら戻れるのか」「誰だって変わらん」と笑っているのだ。
楊志は、奥歯を噛み締めた。
楊志:(どうせ……また、あの女だな。)
蔡夫人の顔が、脳裏に浮かぶ。安心のために、士兵をそっくり“自分の手の者”に入れ替えたのだ。もししくじれば、証言も責任も、完全に好きな形にできる。
楊志:(くそ……蔡京の泥娘め!)
だが、ここで引き返せば、それこそ負けだ。
出立が遅れれば「怠慢」。揉めれば「能力不足」。
どんな形でも、罪状は作られる。前へ進むしか道がない。
楊志は怒りを飲み込んだ。
飲み込んだ怒りが、腹の底で石になった気分だ。
楊志:「……わかった。行くぞ……」
楊志は涼笠(すげがさ)を深くかぶり、青い薄衣を羽織り、麻の靴を履いた。腰には刀。手には朴刀。
そして、彼は予定にはなかった藤条も手にした。これは馬を打つ鞭のようなもの。崩れる列を、無理やりでも真っすぐにするための道具だ。
楊志:(こんなもんは必要ないはずだった。こんなふうに出鼻を挫かれるとは思いもよらなかった。くそッ……!)
楊志が苦い顔つきで一歩を踏み出す。
総勢十五名。全員が朴刀を携え、北京城を発つ。行き先は東京(とうけい/Dōngjīng=開封)。
楊志は列の先頭に立たない。最後尾にも立たない。彼は列の“芯”に立つ。そうでないと、隊列が崩れるからである。
時は五月半ば——
空はよく晴れている……が、これが次の問題となった。
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玉屏四下朱阑绕,簇簇游鱼戏萍藻。
簟铺八尺白虾须,头枕一枚红玛瑙。
六龙惧热不敢行,海水煎沸蓬莱岛。
公子犹嫌扇力微,行人正在红尘道。
玉の屏風のまわりを朱塗りの欄干が囲み、
水の中では、無数の小魚が萍(うきくさ)や藻の間を楽しげに泳ぎ回っている。
八尺もある白い“蝦ひげ筵(えびひげむしろ)”を敷き、
枕にはひとつ、赤い瑪瑙(めのう)が置かれている。
六匹の龍でさえ暑さを恐れて動けず、
まるで海水が煮えたぎって蓬莱山までも沸き立つようだ。
そんな猛暑の中、
この若公子はまだ扇ぐ風が弱いと文句を言い、
行き交う人々は、
赤い塵の立つ道の上で汗まみれになって歩いている。
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日差しはまるで火の鞭。地面は真っ赤な炉のよう。
朝廷の貴人たちはいまごろ、玉屏の中で氷を浮かべた蓮根をかじり、扇を振りながら、なお暑いと顔をしかめているだろう。
だが、楊志たちはそうはいかない。名誉と薄い給金のために、鎖につながれてもいないのに、三伏(さんぷく:夏至後の初伏・中伏・末伏の季節)の炎天下に近しいような過酷な道を歩くしかない。
とにかく、楊志たちは六月十五日の生辰に間に合わせるため、ひたすら歩き続けた。
そうして、北京を出て五〜七日。
最初は五更に起きて朝の涼しさを追い、日が高くなれば宿場で休むというまともな行軍だった。だが、日を追うごとに人家が疎らになり、道は山道ばかりになる。
いよいよ、ここからが護送の本番というわけだ。
楊志はここで早朝の進行が危ういと考え、辰の刻(午前八時ごろ)に出て、申の刻(午後四時ごろ)に止まるという行程に変えた。
十一人の脚夫たちは重い荷を背に汗だくで歩く。林が見えるとすぐ涼みたがるが、楊志は藤条を振るって容赦なく叱りつけた。
楊志:「止まるな、まだ前へ進め!」
止まれば罵倒、ひどければ藤条が飛ぶ。
これは楊志が士兵を追い詰めているわけでも、憂さ晴らしをしているわけでもない。襲撃に遭いやすい場所を推し図り、そこで止まることが危険であると考えての指揮である。
だが、楊志はいちいちそれを説明しない。ただ淡々と怒鳴り、打つ。
この楊志の寡黙さと苛烈さが徐々に裏目に出始める……
虞候一:「この青あざ野郎め……相公の家の提轄風情がでかい面しやがって!」
虞候二:「威張り屋が!いずれ痛い目を見させてやる!」
列に追いつけなくった虞候らが、こんな呪詛の言葉をもらした。
この任では、蔡夫人に言われて同行することになった二人の虞候もそれぞれ荷を担いでいた。彼らの持つ荷は他の士兵と比べてずっと軽い。だが彼らは鍛錬を積んでいないので、消耗が早いのだ。
汗がとめどなく流れ、足がもたつく。その疲れの責任を、彼らは楊志になすりつけた。
楊志はそんな彼らの言葉を耳にしたが、まったく動じない。彼の頭の中にあるのはただひとつ。「生辰綱を無事に運ぶこと」だけなのだ。
それから厳しさは日に日に増していった。
十四〜五日も進む頃には、同行の十四人全員が心の中で楊志を恨むようになっていた。
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祝融南来鞭火龙,火旗焰焰烧天红。
日轮当午凝不去,万国如在红炉中。
五岳翠干云彩灭,阳侯海底愁波竭。
何当一夕金风起,为我扫除天下热。
火の神・祝融が南からやってきて、
火の龍を鞭うち、
炎の旗は天を赤々と焼きつくす。
真昼の太陽は、空の一点に凝りついて動かず、
世界中がまるで巨大な炉の中に放り込まれたようだ。
五岳の青々とした峰は乾ききり、雲も消え、
海の底では、陽侯(海を司る神)でさえ
波が尽きてしまうのを恐れている。
ああ、せめて一夜でよい——
金風(きんぷう=秋風)が吹き起こり、
この地上の暑熱を
すっかり掃き払ってくれないものだろうか。
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六月四日——
この日も朝から、空は一片の雲もない。
陽は真上にとどまり、山々は焼け、石は割れ、鳥は森深く逃げ込み、魚は泥の底へ潜る。
そんな中、一行は南の山、北の嶺を抜け、人家もない山道を二十里ほど進んだ。誰もが柳陰でひと息つきたかったが、ここでも楊志は止まることを許さない。
楊志:「前の岡を越えるまで休むな!そこを過ぎれば休ませてやる!」
その岡こそ、黄泥岡である。
頂には緑の松が茂り、麓には黄色い砂が広がる。老龍が丸まったようなごつごつした地形。茅草は刃物のように鋭く、石は虎や豹のように牙をむいている。「蜀の道が険しい」とはよく言うが、この太行山の一角もまったく劣るものではない。
楊志一行はようやく岡の上へ辿り着いた。
すると誰が言ったわけでもなく、全員が急に荷を下ろすと、ぜいぜいと息をつきながら松の陰へ倒れ込んだ。
楊志がこれに気づき、怒鳴りつける。
楊志:「ここで休むとは何事だ!ここがどんな場所かわかっているのか!起きろ!進め!」
脚夫たちが口々に呻く。
脚夫:「切り刻まれようと、これ以上は無理だ!進めん!」
そこへ、列から遅れをとっていた謝都管と虞候二人がようやく岡の上に登ってきた。
謝都管:「提轄、いいかげんになさい……!少しは士兵のことも気遣うことです。これがまともに歩ける状態ですか?」
楊志:「甘えるんじゃない。ここは“黄泥岡”。強盗が日中から出没する土地だ。太平の頃でさえ油断ならぬのに、ましてや今のような歪みのある時勢、誰がここで足を止める。」
虞候一:「またその話かよ!」
虞候二:「ここまで何もなかったじゃねえか、提轄どの!」
謝都管:「ともかく、日が少し傾くまで待ってから行くべきです。この炎天下ではもう歩けませんよ。」
楊志は頑として首を振る。
楊志:「この岡を下った先もまだ人家まで七〜八里ある。ここで止まれば虎と狼に囲まれたも同然。どれだけ疲れていても、早く通り過ぎねばならん。」
謝都管:「そうですか。」
意外にも謝都管が反論をせずに、あっさりと返事をする。
そして、どかりと腰を下ろす。
謝都管:「では、先に行きたいなら、ひとりで行ってください。わしはここでひと息ついてから追いつく。」
楊志が苛立ちを隠さず、藤条を握りしめる。
楊志:「全員、立てと言ったら立て!一歩でも動かねば二十杖打つ!」
脚夫:「俺たちは百斤の荷を担いでる!空身のお前とは違う!留守相公(るすしょうこう/留守司、梁中書のこと)がここに自ら来ていたとしても、もう少し俺たちを人間扱いするはずだ!」
楊志は怒りと焦りで視界が暗くなる。
楊志:「黙れ!」
藤条が空気を裂く。
謝都管がついに耐えかねて口を開く。
謝都管:「楊提轄。わしは昔、東京の太師府で“奶公(ないこう:古参の家人)”をしていたのだぞ。門の内の官軍は何千何万といたが、誰もがわしを見れば頭を下げた。一方、お前は楊家将とは言え、ただの一兵卒ではないか。しかも、罪人だ。相公の慈悲で提轄にしてもらっただけ。芥子粒(けしの種)ほどの官で、そんなに威張り腐るな。」
虞候一:「そうだ、この野郎!村の老爺だってもっと人の言葉に耳を貸すってもんだ!」
虞候二:「人を打つことしか知らぬとは何事だ、この野蛮な男め!」
楊志は怒鳴る。
楊志:「お前たちは都会育ちだから知らんのだ!いまの山路がどれほど危険かを!」
謝都管:「それは聞き捨てならんな?わしは蜀(しょく)も広南(こうなん)も歩いたことがある。だが、お前のようなことを言う者はいなかったぞ。実際、何も騒ぎは起きんかった。」
楊志:「いつの時代の話だ!くそ、話にならん!」
そのとき──楊志は視界の端に妙な影を見た。
松林の中で、誰かが首だけ出してこちらを覗いている。
楊志:「ほら見ろ!“盗人”が来た!」
楊志は藤条を捨てて朴刀を掴み、松林へと駆け込んだ。
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说鬼便招鬼,说贼便招贼。
却是一家人,对面不能识。
「幽霊の話をすれば幽霊が来る、
盗賊の話をすれば盗賊が現れる。」
ところが——
いざ目の前にその“仲間”がいても、
互いに気づかないものだ。
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松の陰に、行商の車が七台。そばに立つ男が七人。
どいつもこいつも上半身裸で、汗を乾かしている——いや、乾かしているふりではないか?
次の瞬間、赤髪の大男が朴刀を片手に進み出た。
一歩ごとに、松葉が音もなく沈む。
足さばきがいやに慣れている。武芸の腕はあるようだ。だが、この手の足さばきは普通の賊が出せるものではない。
違うか……?
赤髪:「何の用だ!近づくと斬るぞ!」
「呵っ!」と他の六人も立ち上がる。だが、抜くのが早いのは二人だけ。残りは半歩遅れ、互いの位置を確認してから構える。
即興の商人ではない。賊でもなさそうだ。隊列に癖がある……
楊志は立ち止まり、朴刀の刃先をわずかに下げた。
斬るより先に、斬られない線を引く。
楊志:「こちらは賊ではない!貴様らはなにやつだ!」
赤髪:「こっちの台詞だ、こんちくしょう!」
楊志:「身分を明かせ!」
赤髪:「お前の目は節穴か!?どう見ても行商だろうが!」
別の男が、わざとらしく肩をすくめる。
男:「旦那、私たちは見ての通り、小さな商いですよ……」
さらにもう一人。声が柔らかい。
柔らかいが、こちらの足元を測る声にも感じる。
男:「お前のほうがよほど“賊の匂い”がするぞ。その顔の青あざは戦いの中で火にあぶられでもしたか。」
楊志:「このあざは生まれつきだ。」
男:「こちらに盗むものはないぞ。やめておくことだ。」
楊志は荷を睨み、朴刀の柄に指を掛けたまま問う。
楊志:「見たところ、車は江州車(こうしゅうしゃ:江州で発明された前輪が小さく後輪が大きな手押し車、宋代の輸送車両の代表格)か。どこから来た。」
赤髪:「濠州(ごうしゅう/Háozhōu)をめぐって来たところだ。」
楊志:「何を売っている?」
赤髪:「このご時世だ、金目のものは売らん。移動中に賊に奪われたらおしまいだ。」
すると鬢にザクロの花を挿した男が、荷に手を突っ込んで、ぽいと赤い実を放り投げた。
男:「山東産の棗(なつめ)だ。ほらよ。」
楊志が受け取る。確かに、うまそうな棗だ。
彼らの話していることは自然で筋が通っている。
だが、あまりに自然すぎて、何となしに違和感も残る……
楊志:「どこへ行く。」
赤髪:「東京で売る。もう買い入れの話もついてる。」
別の若い男が苛立ったように吐く。
男:「あれこれ質問しやがって!休みの邪魔をするな!」
すると、年嵩の男が低く叱る。
年嵩:「やめろ、令甥。そこの兄、失礼なことを言ってすまない。こいつはどうも熱くなりやすくてな。教育が足りんのだ。」
楊志:「……いや、いい。こちらこそすまない。」
楊志が踵を返しかけた、そのとき。
年嵩が引き留めて言う。
年嵩:「そうはいかん。令甥、袋につめろ。詫びとして差し上げろ」
令甥:「阿舅(あきゅう:叔父上)、もったいないですよ……」
年嵩:「つべこべ言うな。さっさとやれ!」
赤髪の大男(令甥)が、しぶしぶ棗を袋に詰めて差し出す。
楊志は小さく頭を下げ、受け取った。
楊志:「お気持ちだけいただく。」
彼は隊列へ戻った。
謝都管が「やれやれ、やはり何もないではないか」と腹を立て、ひとつ皮肉でも言おうと身を起こしかける。だが争う気力が残っていないので、結局、何も言わずにまた木陰へと沈み込む。
こうして両者は距離を取ったまま、同じ熱気の下で影を分け合う。
しばらくすると——
今度は遠くから歌声が流れてきた。
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赤日炎炎似火烧,野田禾稻半枯焦。
农夫心内如汤煮,公子王孙把扇摇。
真っ赤な太陽が火のように照りつけ、
野の稲は半ば枯れ焦げる。
農夫の心は湯のように煮え、
公子王孫は扇で涼む。
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見ると、岡を登ってくる男がいる。担桶(たんとう)を肩に担ぎ、足取りは軽い。いや、軽すぎるのではないか。
苦労人の脚夫が出す“音”がない……と、楊志は思う。
だが、何でもかんでも疑い過ぎか……?とも、思う。
実際、隣にいる連中は賊ではなく、単なる棗売りだった。
楊志:(今度は様子を見るか……)
男が近づいてくると、楊志一行の脚夫たちが立ち上がって、興味本位に声をかけ始めた。
脚夫:「兄弟、その桶は何だ?」
酒売り:「白酒(ばいちゅう)だぜ。」
脚夫:「ほう?どこへ売りに行く。」
酒売り:「下の村までさ。」
脚夫:「一桶いくらだ?」
酒売り:「五貫。」
脚夫:「妥当だな。買おう。喉が焼けそうなんだ。」
銭を集め始めた、その瞬間。
楊志の檄が飛ぶ。
楊志:「おい、何を勝手なことをしている!」
脚夫:「何って、酒を買うだけじゃねえか。」
楊志:「酔うことなど許さん!それに、何が入っているかわからんではないか!賊の薬酒で幾人の旅人が倒れていると思うか!」
担ぎ男が呆れたように鼻で笑う。
酒売り:「待ってくれよぉ、客官!あまりに言葉が過ぎるんじゃねぇの?なんでおれがそんな物騒なことをしなくちゃなんねぇんだよ。そもそも、別におれが買ってくれと言ったわけでもねぇしさ……妙な話だ。はいはい。算了、算了(やめだ、やめだ)。あんたたちに売らんよ。もともと村で売るんだからさぁ。」
そこへ——さっきの棗売り七人が松林からぞろぞろと出てきた。
騒ぎの匂いを嗅ぎつける動きが、妙に早い。
赤髪:「なんだ、どうした?」
酒売り:「おやぁ、別の客官か?いやなに、この客官たちがさぁ……おれの酒に蒙汗薬(もうかんやく:麻痺効果のある毒薬)が入っているみたいなことを言ってさ……別におれが売りたいと言ったわけでもないのに。失敬千万だよなぁ……」
男:「あなたはどうしてそこまでいきりたっているのですか?確かに言い過ぎだと思いますよ。」
男:「なぁ、それなら俺たちに売ってくれよ!もう喉がからからなんだ!熱いったらねえ!」
男:「そうだな。ぜひもらおう。」
酒売り:「良いけどさ……村に行けば桶でそのまま買ってくれるから、小分けしたくないんだよなぁ……」
赤髪:「心配ない!阿舅、一桶買おうぜ!」
男:「そうしよう。いくらだって?」
酒売り:「五貫。」
七人が賑やかに笑顔を浮かべながら銭の勘定を始める。取引が無事に終わると、椰瓢(やひょう:ヤシの実やヒョウタンで作った器)を各々が持ち出して置かれた酒桶の周りに集まる。
すると、急に楊志が割って入る。
楊志:「待て。桶を入れ替えろ。」
酒売り:「はぁ?」
赤髪:「何を言ってやがる……?」
楊志:「いいから。桶を入れ替えろ。」
酒売り:「あんたさぁ、さっきからいったい……」
年嵩:「なんだって良い。放っておけ。どっちの桶だろうが一緒だ。旦那、それじゃあ、そっちの桶をくれ。」
酒売りが桶の腹のあたりを手で押さえながら、桶の蓋を開ける。芳醇な酒の香りがぷんとあたりに漂う。七人は歓声をあげて、代わる代わる酒をすくって飲んでは、棗をかじった。
「うめぇ!」
「沁みますね!」
「おい、こぼすな……もったいない!」
「すまねえ、美味しくてつい!」
「棗とも合う。これは良い酒だ。」
「生き返る!」
「運がよかった、ははは!」
——この“飲みっぷり”、楊志一行にはあまりにたまらない。
見ているだけで、喉が鳴る。
脚夫が謝都管へ駆け寄って言う。
脚夫:「老爺……助けてくださいよ!あの客人たちも、さっき酒を飲んで何ともないじゃありませんか!ここには水もない……少しだけ、買ってもいいでしょう!」
脚夫:「楊堤轄に言ってください!もう我慢できません!」
謝都管も喉を鳴らす。
謝都管:「まあ……この熱さではな。岡の上には水場もない。楊堤轄、これはいくらなんでも『飲むな』というのは酷というものじゃないか。わしが払う。一桶、買ってやろうではないか。」
楊志は黙りこくっている。七人の様子を観察しているのだ。
楊志:(仮に……この酒売りと棗売りたちが結託していたら、毒の入ってない桶の酒を飲ませて油断させ、俺たちに毒の入っている桶を差し出すはずだ……だから、俺はさっき桶を変えろと言ったが……考え過ぎだったか。毒があれば、もうとっくに倒れるはず。そもそも、やつらが飲もうとはせんだろう……)
謝都管が痺れを切らして、もう一度言葉で押そうとする。
そこで、楊志がついに言う。
楊志:「都管どのがそこまで言うなら、一桶を買え。飲んだらすぐ出発する。」
脚夫たちが手を叩いて喜ぶ。謝都管は待ってましたとばかりに銭嚢を取り出し、五貫をつまんで差し出した。
だが酒売りは、渋い顔で桶を抱え直す。
酒売り:「売らない。どうせ、おれの酒には蒙汗薬が入ってるから、やめておけ。」
脚夫:「兄弟、さっきは悪かった!頼むよ!」
酒売り:「嫌だと言ったら嫌だぁ。」
そこへ、棗売りの赤髪が割って入った。
赤髪:「哀れで見ちゃいられねえ……酒売りの旦那、売ってやりな。」
脚夫:「行商の兄、助かる!言ってやってくれ!」
酒売り:「でもよぉ……あんなに馬鹿にされたんじゃ、やっちゃいられねぇよ。」
赤髪の横で、年嵩の“阿舅”が、穏やかな声を差し挟む。
穏やかだが、言葉は計算されている。
年嵩:「そう言いなさるな。旦那も得ではありませんか。ここから村までは、まだ七里ほど。ここで売り切ってしまえば、早めに帰れるというもの。」
酒売り:「……じゃあ、六貫だ。一桶、六貫。」
脚夫:「あ!?それはお前——」
謝都管:「よいよい!六貫だな、ほれ!これで問題ないな?」
酒売り:「まだよくない。あの男に飲ませないことが条件だ。」
酒売りから指差されたのは楊志。
謝都管が思わず笑う。
謝都管:「それはわしも同意見だが、さすがに可哀想だ。一杯ぐらいならよかろう?」
酒売り:「まぁ、一杯ぐらいなら……」
楊志はいよいよ疑いを晴らす。
そもそも、この酒売りには“殺気”がまるでない。
棗売りたちにはどうも怪しげな臭いがあったが、酒売りはどこにでもいる単なる民。戦地で鍛え抜かれた楊志の鼻が、この男には“何もない”と告げている。
そしてついに、楊志がこう言う。
楊志:「酒売りの旦那、許してくれ。こちらにも事情というものがあった。もう疑わない。酒を飲ませてもらう。都管、お代も俺が払う。」
謝都管:「なになに、気になさるな!酒売り、それではよいな?この人にも飲んでもらうぞ?」
酒売り:「仕方ねぇなぁ……好きにしてくれ。」
酒売りは銭を受け取ると、歌いながら岡を下っていった。
この瞬間——楊志の頭に何かの強烈な違和感が走った気がしたが、彼もまた人なり。喉の渇きに勝てなかった。
桶の蓋がなかなか開かず手こずったが、がちりと何か妙な音がした後にすんなり開いた。これまた芳醇な香りが漂う。
脚夫たちがまず一瓢を汲み、謝都管へ。もう一瓢を楊志へ。
謝都管が一気にぐいと飲み干し、大きくため息をつく。その顔に笑顔が広がる。楊志も飲み、さらにもう一杯をすくって飲んでから、憮然としたまま瓢を脚夫に返す。
そうこうして、あっという間に桶は空になった。
さて——
そろそろ、種明かしをするべきであろう。
棗売りとは、私、晁蓋、公孫勝、劉唐、阮家三兄弟。
そして酒売りの正体は、安楽村で仲間に引き入れた白日鼠(はくじつそ)・白勝(はく・しょう/Bái Shèng)である。
私たちが実際に会ってみると、この男に「異能」があることがわかった。「愚鈍に見えるほど凡庸な振る舞い」ができる男なのだ。
どうしてそれが「異能」か。
人というのは、大なり小なり、義なり利なり、何らかの目的ある者は必ず“気”が放たれるもの。ましてや誰かを騙そうとする者は、どうしても妙な気配が漏れてしまう。経験を積んだ楊志のような手練れが、その気配を見逃すわけがない。
だが、白勝にはそれがない。この男には徹頭徹尾、目的というものがないのだ。どのような裏の意図があろうとも、表に出ている彼の言動は凡庸そのもの。これほど優れた諜報の者がいるだろうか。
これについては公孫勝も驚いていた。彼いわく、当人は無意識に“走馬鑑花の道術”を身につけているという。走る馬から眺める花のように、印象が薄い。印象を薄めれば、目的はおのずと隠される。
よって今回、「小さな白い星」は極めて重要な役回りを演ずることになった。白勝が「どこからどうみても、ただの酒売り」にしか見えないことが、最大の武器になったのだ。
薬を仕込む仕掛けは、あまり複雑なものではなかった。私たちはよくある二重底の酒瓶の仕組みを利用して、特別な桶を作った。
桶の蓋は二重の構造になっており、桶の腹のあたりにある出っ張りを押しながら開ければすんなりと開く。しかし、その出っ張りを押さず、無理にこじ開けると、二重底の下側にある薄板が割れて、そこから粉末の薬が流れ込む。
この二重底の酒桶は劉唐が教えてくれた。この男はさまざまな禁製品を密輸していたゆえ、このような珍品にも出くわしたことがあったのだ。そしてこれを作ったのは阮三兄弟。舟の修理に慣れているゆえ、木の扱いも実にうまかった。
もうひとつ、公孫勝が「炎天下」を呼び込んでいたという点についても触れておこう。公孫勝は例の「五雷法」——天界に助力を求める奏上(そうじょう:君主や天子などに提議すること)の術——を用いて、不義の財を奪うために数日間の日照りを引き起こして欲しいと頼んだ。
これについては当人も「奏上が届くかどうかは分からない」と言っていたが、結果としてはその通りになった。おそらくであるが、これは晁蓋の持つ大きな清気が天界に認められたものと見るべきだろう。
こうして——
楊志一行がひとり、またひとりと地面に崩れ落ちていく。
足は鉛、頭は石。白い涎が口元に垂れ、手足が痺れて動かない。
楊志だけが、飲んだ酒が少ない分、少し長く持ちこたえた。だが視界は白く霞み、膝が言うことをきかない。
ただ、次の言葉だけが漏れていた。
楊志:「お前ら……なんてことを……」
私たちはそんな声に耳を貸さず、まずは自分たちの荷車に山と積まれた棗を、ざっと地面にぶちまける。その空いた荷台に、生辰綱十一担を積み込んでいく。
金珠、宝玉、器物、品々。布で覆い、縄で固める——
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诛求膏血庆生辰,不顾民生与死邻。
始信从来招劫盗,亏心必定有缘因。
民の脂(あぶら)と血をしぼり取って
上役の誕生日を祝おうとし、
人々の暮らしも、
隣で死ぬ者の苦しみも顧みない。
だからこそ、
こうした“略奪(掠め取り)”が招かれるのだと
今になってようやく気づくだろう。
やましい行いには、必ずそれ相応の報いがあるのだ。
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楊志の意識が薄れゆく。
そこに、晁蓋の次の言葉が響く。
晁蓋:「気の毒だとは思う。だが——お前だって、この財のいびつさに気づいていよう。災害や戦乱で苦しむ民を尻目に、蔡京は十万貫を懐へ入れようとしていたのだ。お前は民を見ろ。この世で何が起きているか見ろ。それで、自分の道を定め直せ。仁と義が少しでも残っているなら——そうしろ。」
楊志は意識を失った。
だがやはり強靭な肉体の持ち主、誰よりも早く立ち上がった。
日は完全に暮れている。
続けて地面に転がっている、謝都管、虞候、士兵……
楊志は彼らを横目にしながら、当てもなくふらつく足で黄泥岡の端まで向かった。
その先は崖。眼下には激しく轟く黄河の支流が広がっている。
楊志:(まずい……やられた……花石綱に続き……俺はいつも肝心なときに運がない……ああ、あのときに変だと思ったのだ……酒売りが桶をそのまま置いていくわけがないではないか……それなのにおれは見過ごしてしまった……俺の失態だ……これでは北京に戻ることも、東京に行くこともできん……いっそ、ここで終わらせるか……)
春の雨に散る花を三度わざと折り、秋の霜に柳を九度なぶるような運命。楊志は自分の運命を呪いながら、一歩足を踏み出そうとした。
だが、楊志という男の人生は、まだここで完全には折れない。
この後、楊志がどう命を拾うのか——
それは、次の段で語ることにしよう。
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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した
第十六回、原作(百二十回本)の骨格はしっかり残しつつ、「誰が何を恐れて、何を選んだか」を“見える化”して、読み味をぐっと現代小説側に寄せてみた。結果として、同じ事件(智取生辰綱)なのに、ただの痛快な騙し合いから、制度と心理の圧力が生む必然の破局に変わったんじゃないかな。
◈ 冒頭の焦点が「梁山側の作戦会議」から「大名府の権力劇」に移った
原作は前半、晁蓋・呉用・公孫勝・劉唐・三阮が集まって作戦を練る“梁山側の段取り”が厚い。つまり「智取」の“智”=呉用の作戦立案のキレを先に見せる構成。
リメイク版はそこを大胆に引いて前回に組み込み、この回はまず梁中書と蔡夫人の会話で始めた。これで何が良くなったかというと——
「生辰綱がそもそも不義」だけじゃなく、“不義が運用される現場の空気”が立ち上がる
蔡夫人が“正しい理屈”の顔で人を道具にするので、読者の胃がキリッと痛む
梁中書が単なる無能ではなく、不義を理解しているのに逆らえない管理職として立つ
つまり、奪う側が賢いだけじゃなく、奪われる側の仕組みが「奪われるようにできている」と見える。
◈ 蔡夫人の“悪”が、原作よりも精密になった(そして現代的に嫌)
原作の蔡夫人は「提案してくる存在」だけど、リメイク版はさらに一段、刃が薄い。
ぼくたちは彼女に、こういう機能を与えた:
責任の置き場を最初から設計する(失敗したら楊志一人に押しつける)
“安心”という言葉で監視を正当化する(謝都管・虞候の同行)
さらに決定的に、脚夫を“すり替える”(隊列の魂を抜く)
これ、派手な悪事じゃないのに最悪なんだよね。人間社会でいちばん多いタイプの悪。
だからこそ、読者は「生辰綱が奪われた」より前に、「もう詰んでる」を感じる。これでドラマの密度を上げられる。
◈ 楊志が「武の人」から「冷徹な現場指揮官」へ格上げされた
原作でも楊志は合理的で、行程を変えたり、危険地帯を説明したりする。
でもリメイク版はそれを、“参謀能力”として明確に描き切った。
地名列挙が暗記じゃなく、生存者の地図になってる
「守るより奪う方が楽」「包囲戦になる」と、戦術の先読みで語る
兵の弱さも「根性論」じゃなく、実戦経験の欠如=心理的崩壊として説明する
そのうえで、楊志の苛烈さ(藤条で叩く)も「嫌な上司」ではなく、“危険地帯で止まらせない”という判断の帰結にしてる。
読者は楊志を憎みきれない。むしろ「正しいのに負ける人」として、刺さる。
◈ 「謝都管・虞候」の役割が“ただの邪魔”から“構造的な破壊者”になった
原作の老都管たちは、ぐちぐち言って隊列を乱す存在。
リメイク版では、彼らはもっと陰湿に機能する。
出発時点で脚夫を入れ替え、楊志の計画を初手で破壊
そのくせ「命令されたから」「相公に聞け」で責任から逃げる
そして楊志に「罪人」「芥子粒の官」と階級で殴る
この改造で何が良くなったかというと、黄泥岡での崩壊が「暑さ」だけじゃなく、組織内政治で隊列が腐っていた結果になる。
奪われたのは金銀だけじゃない。最初に奪われたのは“指揮権”だった、って見えと筋が強くなる。
◈ 智取の「トリック」が、原作の“手品”から“チーム戦の技術”になった
原作の種明かしはシンプルで痛快:
呉用が薬を用意して、瓢で混ぜて桶に戻す——いわゆる古典的な“仕掛け”。
リメイク版はここを、現代小説の読者が納得する形に再設計した:
白勝の“異能”=目的の気配を消す凡庸さ(諜報として説得力がある、今後の物語中盤〜後半の伏線としても機能)
桶の二重構造=物理ギミック(視覚的で分かりやすい)
劉唐の知識、阮三兄弟の工作、公孫勝の天候操作が噛み合い、役割分担のチーム戦になる
結果、「呉用が賢い」から、「この集団は“勝てる設計”を作れる」に進化した。
梁山泊が“侠気”だけじゃなく、技術と運用で勝つ集団として立ち上がる。これはシリーズ全体の強度も上げる改造だね。
◈ 事件の倫理が「不義の財だからOK」から「楊志への問いかけ」へ踏み込んだ
原作は「不義の財、取って何の咎がある?」が基本線。
リメイク版はそれを保ちつつ、晁蓋の台詞で楊志に“視線の方向転換”を迫る。
> 「民を見ろ。…自分の道を定め直せ。」
この一言で、楊志がただの被害者じゃなく、“不義の運搬者”として自分の立ち位置を問われる存在になる。
つまり、次回以降の楊志の転落(そして梁山への接続)が、偶然じゃなく“倫理的な必然”として繋がっていく。読後の残り香が濃い。
◈ まとめの一言
原作の第十六回は、痛快な“智取ショー”。
リメイク版の第十六回は、権力・組織・心理・技術が噛み合って起きる「構造事故」になってる。
そして、皮肉な話だけど——
蔡夫人が「合理的に悪い」ほど、
楊志が「正しく苦しい」ほど、
梁山側の「奪う知恵」が“ただの悪党の狡さ”じゃなく、歪んだ富の流れを断ち切る技術に見えてくるはずだ。
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