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2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。

自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。

そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。

本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。


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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第五回



"小霸王、金屏風の部屋で大乱闘/花和尚、桃花村で大説法"

 智真長老(ち・しんちょうろう/Zhìzhēn Chánglǎo)が、花和尚(はなおしょう)・魯智深(ろ・ちしん/Lǔ Zhìshēn)を五台山(ごだいさん/Wǔtáishān)から追い出した夜のことから、話を続けよう。

 もちろん、私、呉用(ご・よう/Wú Yǒng)がその場にいたわけではない。だが、あとから寺側の記録と、旅人たちの証言をかき集めていくと──その場の空気すら、匂い立つように見えてくる。

 その夜、智真長老は、静かな声で切り出した。


智真長老:「智深、お前はここにはもう置けぬ。」


 五台山文殊院(もんじゅいん/Wénshū Yuàn)。千年の香煙が積もった道場から、暴れん坊の花和尚を追い出す決心をしたのだ。

智真長老:「わしには、一人の師弟がいる。東京(とうけい/Dōngjīng)の大相国寺(だいしょうこくじ/Dàxiàngguó Sì)の住持(じゅうじ:寺の住職)・智清禅師(ち・せいぜんじ/Zhìqīng Chánshī)だ。この書状を持って行け。“職事僧(しきじそう:寺務を預かる役付きの僧)”の一人として置いてもらえるよう、頼んでおく。」


 それだけなら、ただの追放と口利きだ。

 だが、長老はその夜、もうひとつ“別のもの”を授けた。


智真長老:「今夜、座して思い巡らした。お前に四句の偈(げ)を与えよう。わしにはお前の行き先の一部が見えるのだ。これを一生の糧とせよ。──よく聞け。」


 魯智深は、膝をつき、深く頭を垂れる。


魯智深:「洒家(しゃか/俺)、お聞きします。」


 智真長老は、ゆっくりと四句を告げた。


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遇林而起,遇山而富,遇水而兴,遇江而止。


林に逢(あ)えば、そこで起こり、

山に逢えば、そこで富み、

水に逢えば、そこで興り、

江(こう)に逢えば、そこで止まる。

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 この偈の意味は、簡単そうで、簡単ではない。

 “森”とは人の集う場所、“山”とは財貨の集まる地、“水”とは流通と変化、“大河”とは運命の大きな区切り──そう読むことができるが、果たしてそれだけであったか?

 智深には、その夜、これを読み解く余裕はなかった。彼は、その場で九度、長老に礼を尽くした。

 包みと腰袋、腹袋に、書状をしっかりとしまい込み、方丈と僧たちに別れを告げると、ついに彼は五台山を後にした。

 寺内の反応は冷ややかだった。「あの粗暴な厄介者の野猫がいなくなった」と聞いて、喜ばぬ僧は一人もいない。

 智真長老は、火工(かこう:雑役僧)たちに、壊れた金剛像と半山の亭子の片付けを命じた。

 ほどなくして、趙員外(ちょう・えんがい/Zhào Yuánwài:大地主)が、金と物資を携えて再び山を訪れ、金剛像は再建され、亭子も建て直された。

 五台山は、見かけの上では、何事もなかったかのように元通りになる。だが、ひとりの僧が山を去ったことで、梁山泊(りょうざんぱく/Liángshānbó)の星のひとつが、静かに軌道を動き始めていた。

 このとき詠まれた詩が、一首残っている。


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禅林辞去入禅林,知己相逢义断金。

且把威风惊贼胆,漫将妙理悦禅心。

绰名久唤花和尚,道号亲名鲁智深。

俗愿了时终证果,眼前争奈没知音。


禅寺を出て、また別の禅林へと身を投じる。

そこで出会った知己(心の通じる友)とは、

金を断つほど固い義で結ばれた。

ときには、その威勢で盗賊を震え上がらせ、

ときには、禅の妙理で心を静める。

世間では“花和尚(はなおしょう)”の異名で呼ばれ、

僧としての法名は、誰もが知る“魯智深”だ。

俗世の願いをすべて果たせば、

やがて仏道の実りにも到るだろう。

だが今は——

目の前の者たちに、自分を本当に理解してくれる者が

まだいないだけなのだ。

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 ところで——五台山といえば、言わずと知れた国家的な仏教の霊場である。皇帝の巡幸、勅使の礼拝、外国使節の参詣……あらゆる「威儀」が集まるこの山は、“清浄無垢なる聖地” として語られることが多い。

 だが、その荘厳な表面の下には、別の姿もあった。

 禅和子(ぜんなこ)たちは確かに熱心な修行者かもしれぬが、同時に皇室から賜った伝統と格式を“自分の誇り”に変え、そこへ他者を近づけまいとする排他心が強すぎた。

 まして魯智深のような、粗野で、自由で、仏門の規矩に染まりきっていない男は、彼らにとって完全なる「異物」でしかなかった。

 その異物に触れたとき、彼らの自尊心は静かに、しかし確実に“欲望”へと堕していく。“聖地を守る”という建前の裏で、名門寺の格式にすがり、弱い者を見下し、排除する快楽へと傾いていったのである。

 寺院の堕落について、誰しもが何かしら耳にしたことがあるだろう。もちろん、すべてが事実だとは言わない。しかし——一部は確かに真実だ。魯智深の言葉を借りるなら、“仏の正果(悟り)に近かったのは、あの禅和子たちの方ではなかった” と言うべきだろう。

 ……とはいえ、この話を深く掘り下げれば、また一章が必要になってしまう。いまは脇に置こう。先を進める。

 魯智深は、いったん山を下り、五台山ふもとの鉄匠(てっしょう)の隣の客店に泊まった。

 数日前に注文しておいた、旅の相伴にする算段の、二つの“家財(けせい)”──重い禅杖(ぜんじょう)と、分厚い戒刀(かいとう)──が、ようやく仕上がるのを待つためだ。

 戒刀には鞘がつけられ、禅杖には漆が塗られた。

 智深は、細かい銀を幾枚か鉄匠に握らせると、包みを背負い、戒刀を腰に差し、禅杖を手に取って、客店の主人と鉄匠に別れを告げた。

 街道に出た花和尚の姿は、誰の目にも異様だった。

 黒い直裰(じきつ)を背中から袖ごとかぶり、青い丸紐を斜めに締めて、鞘に収めた戒刀は、まるで春の氷が三尺分、そこに眠るかのよう。

 肩に担いだ禅杖は、横一文字の鉄の蟒蛇(まんじゃ:大蛇)さながら。白鷺のように細い脚を脚絣(あしがすり)でくくり、蜘蛛の腹のような腹袋をしっかりと結びつけている。

 口元には千筋の鉄線のような髭、胸には肝を冷やすほど濃い体毛がのぞく。生まれついての肉食獣の顔であって、経を読むための顔では、とてもない。

 ──通りすがりの旅人がそう書き残している。

 彼は、五台山・文殊院を離れ、東京・大相国寺を目指して歩き始めた。

半月あまりの道中、寺は避け、もっぱら客店に泊まり、昼は酒肆(しゅし:酒場)で飲み食いしながら進んでいく。

 まさか、“禁酒・禁肉”の戒をここまで堂々と破って歩くとは──こればかりは、智真長老も想像していなかったに違いない。

 そうして、ある日の夕方。

 山川の景色があまりに美しくて、智深はつい歩を進めすぎてしまった。山の影は濃く沈み、槐(えんじゅ)の木の陰は地面に溶ける。柳の並木では、鳥たちが群れを成して巣へ帰り、杏の咲く村では、牛や羊が柵へと入っていく。落日が煙をまとい、碧い霧が立ち上がり、ちぎれた夕焼けが水面に赤い光をばらまいている。川べりの老人は、小舟を岸から離し、畑から戻る村童は、子牛の背にまたがって家路につく──

 夕景に見とれて歩くうちに、宿場までは、とても届かない時刻になっていたのだ。


魯智深:「あいや、これはしまったことをした。今夜、酒家はどこで寝たもんか」


 これは旅人がよくやってしまう失敗。だがこのような失敗が、かえって不可思議な縁をもたらすことがある。王進と史進が出会ったのと同じように、魯智深もまた妙なる縁を結ぶのだ。

 魯智深は田畑を三十里ほども歩き足し、一枚の板橋を渡ると、遠くに赤い霞のようなものが見えた。木々の間から、屋敷の屋根がちらりと覗く。その背後には、幾重にも山々の影。


魯智深:「仕方ねえ……あの庄(しょう/zhuāng:庄園)に泊めてもらおう。」


 魯智深は、禅杖をつきながら、屋敷の前へと急いだ。

 近づくと、数十人の庄客(しょうかく:農家の雇い人)たちが、東から西へ、荷物を慌ただしく運んでいる。

 魯智深は禅杖を立てかけ、軽く会釈した。


魯智深:「おう、兄弟。日が暮れちまった。この庄で一晩だけ泊めてもらえねえか。」

庄客:「おや、和尚。こんばんは。気の毒だが、うちの庄は無理だ。」

魯智深:「宿場までたどり着けねえんだ。一晩借りるだけだ、明日の朝には出て行く。」

庄客:「悪いことは言わねえ。さっさと行け。ここに泊まったら、“死にたがり”だぞ。」


 妙な言い方である。


魯智深:「あん?一晩泊まるくらいで、どう死ぬってんだ。訳も言わずに“出ていけ”とは、礼儀を知らねえな。」

庄客「行くなら行けよ。こっちは親切心で警告をしたまでだ。ほら、邪魔だ。どいてくれ。行かないのなら、こんな場所にでかい図体を置いておくな。邪魔だから、端の木に縛ってやっても良いんだぞ。」


 さすがの魯智深も、眉をつり上げる。


魯智深「おうおう!村人のくせに、よく吠えるじゃねえか?洒家は何をしたってんだ。」


 するとこれを罵る者、止めようとする者、庄客たちが異様に苛立ちながら口々に騒ぎ立てる。魯智深が禅杖を握り直し、相手に一撃お見舞いするつもりで腰を浮かせたとき──

 屋敷の奥から、一本の長い杖をついた老人が、よろよろと出てきた。年の頃は六十前後。背は曲がりながらも、目にはまだ光が残っている。


老人:「何を騒いでおる。」

庄客:「この和尚が、人を殴ろうとしてるんです。」

魯智深:「五台山から来た僧だ。東京へ用があって向かう途中だが、宿場まで行きつけねえ。一晩だけ泊めてくれと言ったら、こいつら、縛るだの何だの、勝手を言いやがる。」


 老人は、魯智深をじっと見つめ──口調を和らげた。


老人:「五台山から来られましたか……それなら、わしについて来なされ。」


 魯智深は、老人のあとをついて正堂へ入り、客と主として向かい合って座る。


老人:「先ほどは、無礼をしました。庄客どもは、師父(しふ:僧)の素性も知らず、只の流れ者と見て粗略に扱ったようですな。わしは、仏と天と三宝(さんぼう:仏・法・僧)を、長年敬ってきた身。たとえ今夜、我が庄に厄介事があろうとも、師父が一夜の宿を求めるなら、断るわけにはいかぬ。」

魯智深:「あいや、こりゃすまねえな。」


 魯智深は立ち上がり、一礼した。


魯智深:「施主、名前を聞いてもいいか。」

老人:「わしは劉(りゅう/Liú)といます。このあたりでは、桃花村(とうかそん/Táohuā cūn)の劉太公(りゅう・たいこう/Liú Tàigōng)と呼ばれておる。」


 老人は、逆に尋ね返した。


劉太公:「そなたの師父の俗姓と、法名は?」

魯智深:「師父──五台山の智真長老だ。酒家に“魯智深”と名をくれた。本姓は魯(ろ/Lǔ)、それで“魯智深”だ。」

劉太公:「なるほど。では、まずは夕飯を。師父は、肉や酒は?」

魯智深「洒家は、何も忌まねえ。濁酒でも清酒でも、牛肉でも狗肉でも、あれば食わせてもらう。」

劉太公:「ほう。それはありがたい。」


 劉太公はそんな不思議な返事をすると、すぐに庄客に命じ、牛肉を一皿、菜を三、四品、そして酒を運ばせた。

 魯智深は、腰袋と腹袋を解いて脇へ置き、席につくと、一言の遠慮もなく食べ始めた。一壺の酒、一皿の牛肉は、あっという間に空になる。

 さらに飯を平らげると、劉太公は、呆気に取られたように、しばらく言葉を失った。

 食後、劉太公は言った。


劉太公:「師父には、外の耳房(じぼう:脇の小部屋)に、一晩泊まってもらいましょう。ただし──今夜、外が騒がしくなっても、決して覗きに出てはならぬ。」

魯智深:「今夜、この庄で何がある。」

劉太公:「出家の身が、気にすることではございません。」

魯智深:「劉太公が浮かねえ顔をしてるのは、洒家が厄介になったせいか。ならば、明日、宿賃をきっちり払って出て行く。」

劉太公:「違う、違う。わしの家は、これまでも僧に斎を施してきた。師父ひとり借りたところで、どうということはない。……ただ、今夜、うちの娘が婿を取る。それが、心配の種でな。」

魯智深:「“男大きくなれば妻を取り、女大きくなれば嫁ぐ”。人の道にかなった慶事じゃねえか。何をそんなに悩む。」

劉太公:「それが……望んでの縁談ではないのだ。」


 魯智深は、思わず笑い出した。


魯智深:「望まねえなら、断ればいいだろう。なぜ無理に婿を取る。」


 劉太公は、深いため息をついた。


劉太公:「わしのもとには、この娘ひとりしかおらん。今年で十九。だが、この近くに桃花山(とうかざん/Táohuā Shān)という山があってな。最近、その山に二人の“山の大王”が寨(とりで)を構え、五、七百の賊を集めて、あたりの家を襲い、財を奪っている。そんな中、その賊どもが、わしの庄にも“進物”を要求してきた。賊の大王が庄に来たとき、わしの娘を見てしまってな……どうやら惚れ込んでしまったらしい。それで、ぜひ自分の嫁にしたいとひざまずいて嘆願したのだ。」

魯智深:「ひざまずいて嘆願した……?律儀なんだか、粗忽なんだか、よくわからんやつだな……それで、断ったのか?」

劉太公:「いや、断ったら娘にも庄にも何をされるか分からん……娘もわしらのために『断ってはいけません、私が行けば良いことです』と耳打ちして……どうして良いか分からずまごついておりますと、賊はわしの様子を勝手に『了承した』と勘違いしたらしく、『それじゃ、これこれこの日に婿入りに来るぜ!』と喜んで跳ね上がり、二十両の金と一反の紅錦を“定めの礼”として置いていったのだ……」

魯智深:「頭は軽そうだが、やはり律儀なやつだな。この件、役人には訴えたのか?」

劉太公:「はぁ、あの愚か者どもが何をしてくれるというのです?青州(せいしゅう/Qīngzhōu)の官軍(かんぐん)は……いや、いまの世はどこもそのような具合でしょうが……官どもがやることといったら、そのあたりをそれらしく“散歩”するだけ。それでいて庄に戻るといばり腐って、好き勝手なことを言いながらタダで飲み食いして帰る。しかも帰り際には、逆にわしらのような里の者から“特別の警備のための献上”と称して、金目のものを取っていくありさまです。」


 魯智深は、ぴたりと笑いを止めた。


魯智深:「金と紅錦を置いていく賊に、飲み食いして家の金品を盗んでいく官か。ふん!どちらかというと役人の方をぶっ飛ばしてやりたい話でもある。だが目下、気の毒なのは太公と娘御だ。その賊、察するに悪いやつではなさそうだが、ちょっとばかり“説法”が必要かもしれん。」


 少しの沈黙のあと、魯智深はにやりと笑った。


魯智深:「劉太公。ひとつ、洒家に手がある。」

劉太公:「……といいますと?」

魯智深:「その大王とやらの心を別のところへ向けてやる。娘御はどこかに隠せ。今夜は、洒家がその部屋で大王を説得してやろう。」

劉太公:「相手をどうやって回心させるおつもりで……確かに悪い人ではなさそうですが、あくまでも法の外にいる賊ですぞ。」

魯智深:「俺は五台山で智真長老に因果を学んだ。賊の一人や二人、洒家に任せておけ。」

劉太公:「そんな虎の髭をつかむような真似はおよしなさい……そんなことでは自分の命が危なくなります。」

魯智深:「洒家の命は洒家のもんだ。太公は、言うとおりにしてくれりゃいい。」

劉太公:「なんとまあ……それはありがたい話ではあります……もし本当にこれを何とかしてくださるのなら、わしらは活仏(かつぶつ:生きた仏)に出会ったようなものだ!信じられん!」


 その会話を、庄客たちは半信半疑、青ざめた顔で聞いていた。

 追加の酒と熟した鵞鳥が運ばれてきて、魯智深は、二十碗、三十碗と、躊躇なく飲み干した。

 やがて包みは、新婦の部屋に運ばれ、禅杖と戒刀も、そこへ。


魯智深:「太公。娘御は、もう隠したか。」

劉太公:「隣村の庄に、すでに預けた。」

魯智深:「よし。洒家を新婦の部屋に案内してくれ。」


 劉太公が指し示した部屋に入ると、魯智深は、まず部屋の中の机や椅子を片側に寄せ、戒刀を枕元に、禅杖を床のそばに立てかけた。そして、金糸の帳(とばり)を下ろし、すべて脱ぎ捨てて、素っ裸で寝台に座り込む。


魯智深:「今夜の“説法”は、ちっとばかり荒っぽくなる。」


 外では、夜の準備が進んでいた。打麦場には長い卓が出され、香花灯燭が並び、肉を山盛りにした盆と大壺の酒が用意される。

 そして、初更(いっとき過ぎ)。遠くから、太鼓と銅鑼(どら)の音が響いてきた。桃花山からの賊の一行が、火の尾を引きながら近づいてくる。

 霧に沈んだ青山の腹から、首のない亡霊の群れがごろごろ湧き出したようだ。林の縁には、赤頭巾・赤袍の賊たちが列を作り、槍には赤と緑の布が、ずるずると蛇みたいに絡みついている。

 夜の羅刹が嫁をさらいに来た。そう見えた。見えたのだが。

 耳を澄ますと、聞こえてくるのは殺気ではない。


「今夜は婿入りだ、うれしや、うれしや!」

「山の大王が嫁を取るぞ、祝いだ、祝いだ!」

「帽子が光る!今夜は新郎!」


 血なまぐさい山賊というより、ど派手で品のない婚礼の行列——いや、田舎の悪ふざけ祭りに近い。怖いのに、なぜか笑ってしまう。見物人の喉が、笑いと恐怖で同時に鳴る。

 その行列の中心に、ひとりの“山の大王”。

 白い巻き毛の大馬にまたがり、撮尖干紅の頭巾を斜めにかぶり、虎皮模様の綿入り袍をきっちり着込む。金糸の帯は腹に押し上げられ、牛皮の長靴は妙に誇らしげ。

 横にも縦にもでかい。猪に足が生えたようだ。威圧的。それなのに、憎めない。

 これが“小霸王(しょうはおう)”周通(しゅう・とう/Zhōu Tōng)。

 人を丸呑みにしそうな顔つきで、満面の笑みを浮かべている。笑顔だけなら人の良い兄貴に見える。

 小嘍羅たちが、囃し立てをいっそう下品に強める。


「新郎、腹が先にご入場〜!」

「袍がぴっちり!腰帯が悲鳴〜!」

「腹が先行!嫁は後追い〜!」


 周通は得意げに鼻を鳴らし、馬上で胸を張った。

 張ったせいで帯がきしんだ。

 そして一行は、ついに庄の前へ辿り着く。

 劉太公が膝を折り、酒盃を捧げる。


劉太公:「大王さま、ようこそお越しくださいました……」


 周通は慌てて馬から飛び降りる。


周通:「やめろやめろ!お前はこれから“丈人(じょうじん)”だぞ!

跪くなら俺のほうだ。……いや、ええと、泰山(たいざん)?義父上?

何て言うのが一番権威がありそうに感じるんだ?」

劉太公:「い、いえいえ……老漢はただの民にございますゆえ……」


 周通はその言葉を聞くと、豪快に笑って酒を一気に呷り、さらに三杯続けて飲み干した。

 もう七、八分は酔っている。だが酔い方が、“乱暴”ではなく“調子に乗る”で止まっているのが、いっそう厄介で愛嬌でもある。


周通:「泰山、泰山よ……で、その、俺の夫人はどこに?」

劉太公:「恥ずかしがって、まだ出てこられませぬ。」

周通:「ははは、そりゃそうだ!恥ずかしいよな!いい、いい。ここは婿のほうから伺うとしよう!」


 外では、また囃しが飛ぶ。

 周通は照れくさそうに頭巾をかき、劉太公に向き直った。


周通:「丈人どの、心配するな。俺は声はでけぇが、女に手荒な真似はしねぇ。今日は“きちんと嫁に迎えに来た”ってだけの話だ。」


 劉太公は何も言えず、ただ震えながら灯を手にして、周通を奥へ案内した。廊下を曲がり、さらに奥へ。

 新婦の部屋の前で、劉太公が戸口を示す。


劉太公:「ここでございます。大王、ど、どうぞご自由に……」


 そう言い残し、灯を置き去りにするように、足早に引き返していった。

 部屋は真っ暗である。


周通:「なんだこの部屋は?あの老驢(ろうろ:老いたロバ)め。灯ひとつ点けずに嫁を暗がりに放り込むとは。これじゃ顔も見えねぇ。いや、暗いほうが美人に見えるって話もあるが……いや、待て、俺は何を言っている?」


 ぶつぶつ言いながらも、声は浮き立っている。

 周通は手探りで部屋に入った。


周通:「娘子(じょうし)、遠慮するな。今夜から俺がお前の“押し頂きの旦那様”だ。明日からは桃花山の“押えの女主人(あねご)”——いや、押えるって言い方は悪いな。ええと、ええと……“まとめ役”だ!」


 返事はない。

 暗闇の中で、布ずれの音がわずかにした。


周通:「……はは、照れてるのか。いいさ、今夜はゆっくり慣れればいい。まずは顔だけ──」


 帳に手を伸ばし、布をまくり上げる。そっと手を差し入れた。

 触れたのは——柔らかな腰でも、怯えた肩でもない。

 岩のように固い腹筋だった。


周通:「ん……?……なんだこれは。ずいぶん……その、頼もしい腹をしておるな。娘子、緊張しすぎだ。腹に力を入れると——」


 その瞬間、手首ががし、と掴まれた。掴んだ力が“婿取り”の力ではない。熊取りの力だ。

 そのままぐいと引き寄せられ、周通は床に叩きつけられた。


周通:「な、何をするぅ──!?」


 言い終えるより早く、耳の根から首筋へ、石のような拳がめり込んだ。


魯智深:「おうおう、悪いな、直娘賊(じきじょうぞく:ろくでなし)!こいつぁ忘れられねぇ夜になるぜ!」


 どすん、もう一発。

 周通の視界に星が散った。

 それでも周通は、状況が呑み込めず、叫ぶ言葉がずれている。


周通:「い、いきなり殴る花嫁がどこにいる!!そんなことしてたら夫が、夫が……かわいそうじゃないか!

魯智深:「誰が花嫁だァ!こちとら“嫁盗り”の間違いを正しに来た花和尚様よ!」


 巨体が馬乗りになり、拳と踵が雨あられと降り注ぐ。

 最初は「待て、待て」と言っていた周通の声は、あっという間に変質した。


周通:「待て、待て……!待ってくれ……!」

魯智深:「安心しろ!お前の律儀さに免じ、少しは加減をしている!」

周通:「やめ……!助けてくれぇぇぇぇ!!」


 外で耳を澄ませていた劉太公は、その声を聞いた瞬間、顔から血の気を失った。


劉太公:(因果を説くというのは、口ではなく手であったか……!?)


 慌てて劉太公の庄客たちと、周通の小嘍羅たちが灯を掲げて暗い部屋に傾れ込む。

 灯に照らされた光景は、地獄というより——大太鼓の上で餅をついているようだった。

 太い和尚が一人、素っ裸で大男に馬乗りになり、拳で顔を、膝で腹を叩き続けている。


小嘍羅たち:「大王を助けろ!」


 槍と棒を手に突っ込んだ瞬間、魯智深は周通を放り捨て、寝台脇の禅杖を掴んだ。

 禅杖が床を走る雷となり、前の者から順に、ばたばたと倒れていく。


「うわっ──!」

「おい、それは俺の足!俺の足だッ!」

「灯、灯が消える!誰か灯を守れ!」


 周通はその隙に這い出し、よろよろと外へ転がり出た。

 庄門の馬に飛びつき、手綱を引こうとして——動かない。

 慌てすぎて、手綱を解いていない。

 周通は柳の枝を手綱代わりに振り上げて叩いた。


周通:「走れ!走れぇ!……いや、待て、馬を縛ったままだぁぁ!ごめんなぁ!……解いた、解いた!行けぇ!逃げろぉ!」


 ようやく縄を引きちぎり、馬を走らせ、山へ逃げ帰る。

 その背中が闇に消える寸前、まだ負け惜しみだけは大きい。


周通:「劉太公の老いぼれロバめ……!こんな仕打ちをして、許されると思うなよ!!あと誰だか知らんが、禿奴(ハゲ野郎)、お前の腹筋は反則だぁ!!」


 霧の中に、婚礼囃子だけが取り残され、笑い声と悲鳴が、山にいつまでもこだました。

 一方、ことを終えた魯智深は悠々と劉太公の前へ戻る。

 劉太公が震える声で叫ぶ。


劉太公:「和尚どの!お前さんは、わしの家を滅ぼす気か!」

魯智深:「怒るな。まず、服と直裰を持って来い。きちんと話す。」


 庄客が服を持って来て、魯智深が着終えると、劉太公は、半ば泣きながら訴えた。


劉太公:「わしは、てっきり“言い含めて追い返す”のだと思っていた!拳で殴り飛ばせば、必ず報復に来る……山の賊は、黙って引きさがるような連中ではありませんぞ!」


 魯智深は、のしのしと一歩踏み出した。


魯智深:「太公、よく聞け。洒家は、ただの僧じゃねえ。かつて、俺は延安府(えんあんふ/Yán’ān Fǔ)・老種経略相公(ろうしゅ・けいりゃくしょうこう/Lǎo Zhǒng Jīnglüè Xiānggōng:辺境防衛を統括する高官)の帳前提轄官(ちょうぜんていかつかん/tíxiá:軍監察官)だった。人を三つ拳で打ち殺してから出家した。二人や三人の賊など、怖れるに足らん。」


 彼は禅杖をひょいと持ち上げ、庄客たちに差し出す。


魯智深:「酒家の武の腕は確かなもんだ。信じられねえなら、これを持ってみろ。」


 庄客たちは、数人がかりで禅杖に手をかけたが、びくともしない。

 魯智深がひょいと取り上げて振ってみせると、まるで草の棒のように軽々と動くではないか。


劉太公:「それならば……師父、頼む。こうなった以上、どうかわしら一家を最後守ってくれ。」

魯智深:「洒家は逃げも隠れもしねえ。ただ、ほんのちょっと酒があれば、なおよしだ。」


 劉太公は、苦笑しながら酒と肉を用意した。

 その夜のうちに、桃花山の大頭領が動くことはなかった。

 ——いや、動かなかったというより、動けなかった。

 周通が出払っている間、彼は計算に集中していたのだ。

 山寨の米甕(こめがめ)はどれだけ減ったか。矢の束は何束残っているか。赤い頭巾と赤袍の“婚礼装束”に使った布は、あと何反(たん)あるか。酒は何甕(かめ)割ったか。太鼓は誰が持ち逃げしたか。夜番の小僧が寝落ちした罰金は銭何文か……

 桃花山の大頭領は、松明の下で指を折り、眉間に深い皺を刻んでいた。強盗の頭領というより、貧乏寺の勘定係である。

 その翌日——

 その大頭領は眠たげに、副頭領・周通の帰りを待っていた。

 そこへ小嘍羅たちが、転げ落ちるように戻ってくる。


小嘍羅:「苦だ、苦だ!苦だぁ!」

大頭領:「……朝から縁起の悪い声を出すな。で、何が“苦”だ。」

小嘍羅:「二の兄貴が……やられました!」

大頭領:「やられた?誰に。」

小嘍羅:「でっけぇ裸の和尚です!すげぇ力なんですよ!」

大頭領:「情報の順番を守れ。裸はどうでもいい。」


 間もなく、本人も戻ってきた。頭巾は消え、緑の綺羅の袍はぼろ布同然。馬から転げ落ちるように地面に座り込み、口から出たのは英雄の台詞ではなかった。


周通:「……た、助けてくれぇ……」


 大頭領は一歩も寄らずに、まず周通の装束を眺めた。

 破れ具合、汚れ具合、血の量——そして心の中でそろばんが鳴る。


大頭領:「……その袍、いくらしたと思っている。」

周通:「そこかよ兄貴……!聞いてくれよぉ……!」


 周通は鼻をすすり、口を尖らせて語りだした。

 語り口だけは、やけに芝居がかっている。


周通:「行ってみたらよぉ、あの老驢が娘を隠してやがって、代わりに俺よりでっけぇ和尚を床に潜ませてたんだ。俺は嫁だと思って帳をめくってよ、やさしく“まずは顔だけ”って手を入れたら——腹だ。腹が石だ。いや石じゃない、鉄だ。鉄腹だ!次の瞬間、頭巾つかまれ、床に叩きつけられ、拳と足で——兄貴、俺はな、嫁に殴られたんだぞ!嫁だぞ!?そんな婚礼があるかぁ!」


 小嘍羅たちが、情けない合いの手を入れる。


小嘍羅:「兄貴の初夜が“初撃”になったんです!」

周通:「うるせぇ!」

小嘍羅:「大王、星が散ってました!」

周通:「黙れぇ!」


 周通は、最後に声を絞って言った。


周通:「……部下が駆け込んでくれた隙に逃げたが、この通りだ。兄貴、仇をとってくれよぉ。」


 大頭領は黙って聞き終え、ため息をひとつ吐いた。

 怒りより先に、損が立つ。婚礼の赤布。酒。人足。馬。槍。そして、周通の自尊心。全部まとめて“損失”である。

 李忠は立ち上がり、周囲を一瞥した。


大頭領:「わかった。……周通、お前は部屋で傷と頭を冷やせ。」

周通:「兄貴ぃ……!」

大頭領:「泣くな。泣くと塩が出る。もったいない。」

周通:「そこもかよぉ……!」


 李忠は続ける。


大頭領:「俺が行く。だが、“喧嘩”ではなく“話”だ。」

小嘍羅:「話で済みますか?」

大頭領:「済ませる。済まないと、こっちが損をする。馬を用意しろ。槍も要る——が、刺すなよ。刺したらもっと損だ。」


 馬に乗り、槍を手に、李忠は小嘍羅を引き連れて山を下りた。

 一方その頃——桃花村の打麦場。

 魯智深は酒を飲み続けていた。そこへ庄客が駆け込む。


庄客:「山の大頭領が、一同引き連れて来ました!」

魯智深:「慌てるな。洒家が倒したやつは、お前らが縛って官に出せばいい。そうすりゃ褒美も出る。戒刀を持ってこい。」


 直裰を脱ぎ、下衣をからげ、戒刀を差し、禅杖を手に——

 智深は打麦場へ出ていく。

 火の明かりの中、馬上の大頭領が槍を構え、声を張り上げた。


大頭領:「その禿奴(とくど:ハゲ親父)!……いや、ちょっと待て。言い直す。」


 彼は言葉を引っ込めた。ここも“損得”だ。挑発は高くつく。


大頭領:「ごほん……その和尚どの!話し合いをさせてくれ!」

魯智深:「いやしい直娘賊め!洒家を誰と心得る!」


 禅杖を振り上げ、突っ込もうとした、その瞬間。

 大頭領が、ふと動きを止めた。

 槍の先が下がる。目が細くなる。

 そして声だけが、裏返った。


大頭領:「あいや、あいやぁ!待たれい!その声……聞き覚えがある……まさか……名乗ってくれい!」

魯智深:「洒家は、かつて延安府・老種経略相公帳前の提轄・魯達(ろ・たつ/Lǔ Dá)。今は出家して、魯智深なり!それがどうしたァ!」


 その瞬間——

 大頭領は馬から転げ落ちるように飛び降りた。

 槍を放り捨て、泥に額をつける。

 ただし、仏僧の“拝む”形は山の掟で縁起が悪い。

 ゆえに李忠は、賊の礼法「剪拂(せんぷつ)」で頭を下げた。

 ——迎合というより、生存の技である。


李忠:「これはなんという奇縁!兄者!お久しゅうございます!李忠(り・ちゅう/Lǐ Zhōng)ですよ!わかりますか?」


 魯智深は一瞬“罠か”と飛び退き、禅杖を構えたまま目を細める。

 火に照らされた顔を見て、目を見開いた。


魯智深:「こりゃ……本当だ。久しぶりだな。あのケチな薬売り、打虎将(だこしょう)の李忠じゃねえかよ。」


 渭州の酒楼で、史進と一緒に飲んだ——あの夜以来の再会。

 場の温度が、いきなり変わった。


魯智深:「……うーむ。わからんな。お前だってそれなりの腕はあるが、なんでお前が賊の大頭領なんだ。そんな器じゃねぇだろうが。」

李忠:「おっしゃる通り、なぜ自分もこんなことをしているのか分かりません。いろいろありまして……」

魯智深:「とにかく話をするぞ。ほら、中に入れ。」

李忠:「……大丈夫ですか?屋敷の人たちが騒ぐのでは。」

魯智深:「問題ない!おい、太公!門を開けろ!」


 こうして魯智深と李忠は、屋敷の中で話をすることになる。

 劉太公は怯えたまま、案内する足取りも弱々しい。


魯智深:「太公、怖がるな。蓋を開けてみりゃ、こいつは洒家の知り合いだ。洒家の“兄弟分”ゆえ、心配はない。縁談の件も——まあ、丸く収まるだろう。ただ、こいつがどうして落草したのか、そこがわからん。聞きたいのだ。」

劉太公:「な、何が何やら……娘が無事ならそれで……どうか、うまくやってください……」


 三人が席につき、魯智深がこれまでの経緯をかいつまんで語る。

 三拳で鎮関西を打ち殺したこと。雁門県で金老に再会したこと。趙員外の庄、五台山、追放——

 魯智深は話し終えると、盃を置き、どっかり座り直した。


魯智深:「──で、東京へ行く途中よ。日暮れになって、たまたまこの庄に転がり込んだら……まあ、運の悪いことに、お前んとこの猪と小者どもを殴るはめになったってわけだ。」


 李忠は「ふむ、ふむ」と相槌を打ちつつ、内心では別の勘定もしていた。


李忠:(魯兄と揉めると、被害がでかい。ここで丸く収めるのが、一番“安い”な。)


 聞き終えると、李忠は少しおずおずと口を開いた。


李忠:「……では、こちらの事情も、包み隠さずお話ししましょう。」


 そう前置きし、李忠は苦笑しながら語り始めた。周通と自分が、なぜこの桃花山に流れ着いたのかを。

 そもそもの始まりは、たいした話ではない。

 ―銭一文の喧嘩である。

 渭州の市——

 李忠はいつものように薬箱を肩に、声を張り上げていた。


李忠:「腹痛止めは三文!咳止めも三文!五文出すなら倍量だ!」


 そこへ、肉屋の前で人だかりができていた。

 原因は、でかい図体をした猪のような男——周通である。


周通:「おいおい!この肉、昨日より一斤軽いじゃねえか!値段は同じで量が減るとは、どういう了見だ!」

肉屋:「いや、その……仕入れで価格も変わりますから……」

李忠:(……ああいうのが一番面倒だ。俺と値切り対決をやらかしたら終わらんぞ。)


 ところが、次の瞬間。李忠の不安が的中する。


周通:「おっと、そこの薬売り!その“腹痛が止まる薬”っての、

一文で効くなら買ってやるぞ!」

李忠:「……効くか効かないかは薬次第、値段は私の生活次第。」

周通:「はっはっは!いい口上だな!で、一文で良いな?」

李忠:「三文です。」

周通:「一文!」

李忠:「では売りません。」

周通:「なにぃ!あのな、別に同情を誘うってわけじゃないけどよぉ、兄貴!俺は山東の地方でちょっとした地主の息子だったんだが、腐敗役人に土地をちょろまかされて一家が離散しちまった!それで、ここに流れて来て、いまはまともな仕事も少なく、文字通り一文なしよ!」

李忠:「なるほど、それは大変ですね。」

周通:「だからよ、まけてくれるよな?一文で売るよな?」

李忠:「売りません。」

周通:「なにぃ!?」


 このどうでもいい押し問答が、なぜか殴り合いに発展しかけたところを、周囲の子どもたちが見て、腹を抱えて笑った。


子ども:「猪みたいなおじさんと、ケチなおじさんだ!」

周通:「誰が猪だ!!」

李忠:「俺はケチではなく、正しく計算しているだけです。」


 これが、二人の出会いだった。

 その数日後——今度は笑えない出来事が起きる。

 渭州で幅を利かせていた、高俅と付き合いの深い腐れ役人の李氏がいた。その子どもの李衙内(り・ごない)が非常に厄介な手合い。

 同年代の子どもをよく殴り、相手が泣くと笑う。誰かがそれを止めれば、「おい、俺の親父を知っているか」と脅す。そんな捻じ曲がった性根の持ち主であった。

 そんなある日、ついに——李衙内がとんでもない騒ぎを落とした。木登りをして遊んでいた子どもに石を投げて、木から落としたのだ。

 鈍い音。泣き声は出ず、血だけが滲む。

 幸いにも子どもは助かったが、それをたまたま見ていた周通の顔色が変わった。


周通:「…………」


 この男、普段は笑って食って喧嘩しているだけの男だ。

 だがその瞬間、猪のような彼の顔から、血の気が引いた。


周通:「あの小僧……それでも人間か。俺はお前みてぇな腐敗した人間に家をめちゃくちゃにされたんだ。歪んだ芽は、ここで早めに摘んでおくべきだろうなぁ!」


 周通は李衙内を掴み上げ、地面に叩きつけた。

 ——やりすぎである。

 だが、誰も止めなかった。むしろ、どこかから「もっとやってやれ!」「当然の報いだ!」という野次すら飛んだ。

 そこへ、よりによって李忠が通りかかる。


李忠:「周兄!!それはまずい!!そいつの父親が誰だか、わかっているでしょう!」

周通:「わかってる!だから殴ってるんだろうが!!」

李忠:「あとで損をしますよ!」

周通:「黙れぇ!俺はもう我慢ならん!この世は間違っている!」


李忠:(……ああ、これは止まらない。)


 案の定、すぐに李衙内を知る都管らがばたばたとこちらに向かってくるのが見えた。ここから先の“損”は目に見えている。

 この時、李忠の中で何かが切り替わった。


李忠:「周兄、逃げましょう!」

周通:「は?」

李忠:「逃げてから、あとできっちり“帳尻をあわせる”!」


 その夜——二人は共闘した。

 李衙内の父親を含めて、彼らに関わっているほとんどすべての者を、こそこそと夜道でタコ殴りにした。殴りすぎない。殺さない。だが二度と逆らえぬよう、“分からせた”。

 翌朝、当然ながら官が動いた。

 だが二人は、とっくに街から逃げ出した後だった。

 そうして官に追われる身となった二人が辿り着いたのが、桃花山。

 そこにいたのは——賊ではなかった。

 洪水、旱魃(かんばつ)、疫病……

 親を失い、行き場をなくした大小の子どもたちが、「賊の真似事」をして生き延びていたのだ。

 若者たちに囲まれ、身ぐるみを剥がされそうになっていたとき、周通は彼らを見ながら腹を掻いて言った。


周通:「……ああ、なるほどな。」

李忠:「何がです?」

周通:「俺たちと同じだ。“柱”がねえんだ。」


 周通が一歩前に出た。


周通:「おう。このままじゃ、お前ら全員、先に死ぬぞ。群がっているだけの連中ってのは、すぐにダメになる。君子和而不同、小人同而不和(君子は和して同せず、小人は同して和せず)と言うだろうが。集団には“柱”ってもんが必要なんだ。仁義とか、英傑とか、規律とか。」

孤児たち:「……」

李忠:「あれ、周兄、頭のあることを言いますね。頭の中身がちゃんとあったんですね。」

周通:「一通りの学は積んだ。身に付かなかったけどな……というか、お前は失礼なやつだな。そんなことはいい。生き延びるために、おれたちがお前たちの柱になってやる。」


 李忠は溜息をつき、それでも一歩前に出た。


李忠:「それでは、食糧の分配は私がやります。盗みは最低限。できるかぎり貧しい者からは盗まないように。富める者からも必要以上に盗んでもいけません。あとで損をしないように盗むことが大事です。それから、仲間同士でいざこざがあったら、すぐに私かこの周兄に相談をすること。この山での喧嘩は御法度とします。……守れますね?」


 こうして、李忠と周通は桃花山の頭領になったのだ。

 李忠は渋々、周通はどちらかと言えば嬉々として——


李忠:「……というわけで、私が第一首領、周兄が第二首領として、この桃花山に腰を据えることになったのです。序列は周兄なりの義なんでしょうね。私が落草した原因を作ったのが自分だと思っているから、一位の座を譲ってくれたのでしょう。しかし、あくまでも“義”という品を買って出たのは私ですからね。周兄が喧嘩を始めても、見て見ぬふりをして通り過ぎて、薬売りで一生終えてもよかったのです。私が賊になった原因が、周兄にあるとは思っていません。」


 李忠は肩をすくめた。

 魯智深は「ふむ!」と鼻を鳴らし、盃をひと口あおってから、劉太公に向き直った。


魯智深:「太公。これで全部わかった。こいつらに悪気はひとかけらもねぇ。周通はただ、真面目に“嫁を娶りたかった”だけだな。」

劉太公:「ほ、本当に……?これで終わりなのでございますか……?」

魯智深:「洒家の顔がある。そうだろう、李忠。」

李忠:「もちろんです。太公、もう二度とご迷惑はかけません。周通にもきっちり言い含めます。」

魯智深:「そういうこった。山の兄弟に、この家を潰させやしねえ。太公、安心してくれ。」


 劉太公は、その場で幾度も幾度も頭を下げた。彼の目に、長い不安の夜がようやく明けたという安堵の涙が浮かんでいた。

 翌朝——劉太公は、山からの招きを受けて、小さな輿に乗って桃花山へ登った。魯智深も、輿で運ばれた。禅杖と戒刀、荷物も一緒だ。

 山寨の前に着くと、李忠が丁重に迎え、桃花山の聚義庁(しゅうぎちょう:首領たちの会議の間)へ案内する。

 周通は事情をまだよくつかめていないから、内心ではまだ怒りを抱いていた。彼は李忠にささやく。


周通:「仇敵の和尚を、なんで“上座”に通すんだよ?俺は──」


 言いかけたところで、李忠が胸の前でひらひらと手を振り、周通の口を“おとなしく閉じさせた”。


李忠:「兄弟。お前、まだこの和尚の“値段”を知らんのだな。」

周通:「値段って何だよ!」

李忠:「この和尚に楯突くと、あとで高くつくぞ。」


 李忠はさらに声を落として、周通の耳へ囁く。


李忠:「この方こそ……前に話しただろ。三拳で鎮関西を打ち殺した、あの魯提轄どのだ。」

周通:「……は?」


 周通の顔色が、酔いの赤から一気に冷めた。

 まるで熱い饅頭を丸のみして、喉で止まったような顔である。


周通:「ああ!」


 情けなさ、気恥ずかしさ、後悔、そして妙な尊敬——全部を一息に吐いた声だった。

 彼はあわてて頭巾の残骸を押さえ、どさりと膝をつくと、賊の礼法「剪拂(せんぷつ)」を丁重に切った。


周通:「昨夜の無礼、深くお詫び申し上げる!」


 魯智深は肩をすくめ、ふっと笑った。


魯智深:「洒家も拳が出すぎた。まあ、殴られたのも殴ったのも、お互い様よ。」

周通:「お互い様って、一方的に殴られただけのような気がするが……」


 三人は円座についた。

 だが劉太公だけは、肩が上がったまま立ち尽くしている。

 空気が固いのを見て、李忠がすっと間に入る。


李忠:「太公どの。座ってください。座った方が、倒れたときに怪我が少なく済みます。」

劉太公:「は?は、はい……」


 魯智深が口を開いた。


魯智深:「周家の兄弟、よく聞け。劉太公には、この娘ひとりしかいねえ。老後の世話も、香火(こうか)も、みなこの娘が背負う。お前が嫁に取れば、老人は支えを失う。」


 智深の声は怒鳴り声ではない。

 だが、重さだけは禅杖と同じだった。


魯智深:「それを承知で奪うのは、“義”に反する。」


 周通は唇を噛んだ。

 猪みたいな体でも、義の話になると妙に素直になる。

 魯智深は続ける。


魯智深:「この縁談は、破談にしろ。どうだ。」


 しばらくの沈黙。

 周通は拳を膝の上でぎゅっと握り——最後に、しぶしぶ息を吐いた。


周通:「魯兄の言うことだ。従おう。あの娘子に会えねえのは苦しいが……もう二度と劉太公の庄へは下りねえ。約束する。」


 魯智深は満足げにうなずいた。


魯智深:「よし。男児たるもの、一度決めたら翻すな。」

周通:「翻さねえよ。……じゃあ、折る。」

魯智深:「あぁ?」

周通:「いやいや、約束を違えない誓いに、矢を折るってこと。約束を折るってことじゃない。」


 周通は矢を一本取り、真ん中からへし折って誓いの証とした。

 劉太公は涙を流し、何度も礼を述べて山を下った。

 翌日——

 李忠と周通の二人が、魯智深を山前・山後へ案内する。


李忠:「四方は険しい山と草原。山頂へ続く道は一本だけ。守るには良い地形です。」

魯智深:「なるほど。ここなら官軍も迂闊に攻められんな。」

李忠:「魯兄がここにくれば、ますます心強い。どうか……ここで俺たちを導いてください。」


 それも悪くない話に見える。

 だが魯智深の胸には、別の感情がじわりと湧いた。


魯智深:(李忠と周通、悪い奴じゃねえ。だが……器が小せえ。山の衆を養うにも、どうにも“勘定”が先に立つ。洒家の性には合わねえ。そもそも洒家は出家した身だ。堂々と“山賊です”は言えねえよな。)


 その夜、桃花山では酒宴が行われた。

 牛や馬が屠られ、火の粉が空へ舞う。

 周通は不器用に誠意を示し、李忠は空気を読みつつ丁重にもてなし、魯智深も豪快に酒をあおった。

 そして宴も終盤。魯智深は盃を置き、きっぱりと言う。


魯智深:「酒も肉も、まことによかった。だが洒家はここに長居はできぬ。明日には、また旅立つ。」


 李忠と周通が、あわてて両側から手を取る。


周通:「兄者、ここにいてくださいよ!山は安全で、飯も酒も心配ない!」

李忠:「魯兄がいてくだされば、ここの子たちも安心できるってもんだ。もう魯兄に憧れてる子も多いんだぜ。どうか、残ってくれ!」

魯智深:「落草は洒家の道じゃねえ。悪いが、出る。」


 李忠と周通は顔を見合わせた。

 その目配せには「引き留めたい」という気持ちが、いやらしいほどはっきり通った。


李忠:「そこまで言うのなら止められません……」


 さらに翌朝——

 霧が谷底に溜まる頃、李忠は一人で魯智深の仮寝所を訪ねた。


李忠:「魯兄。」

魯智深:「あァ?どうした、李忠。」


 李忠は言葉を選ぶふりをして、深く頭を下げた。


李忠:「実は一つ……兄にしか頼めぬ願いがあるのです。」

魯智深:「改まって言うな。洒家にできることなら聞こう。」

李忠:「この山には、今も数十人あまりの若者がおります。もともと、あの子らを守るためもあって、俺と周通は頭領を名乗りました。ですが、俺も周通も、武芸も知恵も足りません。」


 苦笑して、まっすぐに見上げる。


李忠:「兄のような豪傑が、一時でもここにいて……あの子らに“本物の強さ”を教えてはくれませんか。将来、ただの山賊として朽ちるか、世のため人のために立つか——分かれ目は、今だと俺は思います。」


 一方そのころ周通は、別の場所で、もっと直感的で豪快な“策”を練っていた。


周通:「……あの大和尚、口では“明日には出る”と言っとるが、背中がまだ落ち着いてねえ。ちょっと肩を掴んでやりゃ、もう少しは居ついてくれると思うんだよな。」

小嘍羅:「何かするんですか、大王。」

周通:「簡単だ!馬と杖と、お前たちだ。」


 その後——小嘍羅が血相を変えて駆け込んでくる。

 ちょうど李忠と魯智深が話している最中だった。


小嘍羅:「大変です!魯智深さまの馬が、後ろ脚を挫きそうに!蹄鉄が緩んでて……打ち直しに三日はかかると!」


 もちろん、蹄鉄を緩めたのが誰かは、言うまでもない。

 さらに別の小嘍羅が、慌てたふりで禅杖を持ってくる。


小嘍羅:「魯智深さま!これを……杖の柄に、ひびが!このままでは戦いの最中に折れると!金具の巻き直しに三日から五日はかかります!」


 補修の日にちが妙に揃っているのも、言うまでもない。

 魯智深は禅杖を手に取り、ひびを見て、目だけ細くした。


魯智深:「……ふむ。放っておけねえな。」


 そこへ李忠が、さらりと追い打ちをかける。


李忠:「兄。ついでに耳に入った話ですが……」

魯智深:「なんだ。」

李忠:「ふもとの町で、“背に牡丹の大男の僧”を探している官兵がいるとか。断じるつもりはありませんが……しばらく山に身をかわされた方がよろしいかと。」


 ほとんど作り話に近い。だが、追われる身の現実に、嘘は“効く”。

 さらに、周通が前夜から仕込んでおいた若者たちが、わらわらと駆け寄ってきた。


「魯大兄!昨日の棒、もう一回!」

「俺にも教えて!」

「俺も強くなりたい!」


 少し離れたところで周通が腕を組み、ニヤニヤしている。

 顔が「計画通り」と言っている。

 魯智深は頭を掻き、ため息をひとつ。


魯智深:「……お前らなぁ。洒家を“囲い込む”な。」


 魯智深は、李忠と周通の顔を順に見て、鼻で笑った。


魯智深:「……お前ら、本当に策士だな。馬も杖も官兵も、子どもも使いやがって。」

李忠:「い、いえ、その……そんなつもりでは……」

周通:「いや、だいたいそんなつもりだ。へへ。」


 魯智深が、ふっと笑う。


魯智深:「まあいい。馬と禅杖が直るまで——五日としよう。その五日のあいだだけだ。小僧どもに棒の扱いくらいは教えてやろう。」


 若者たちが一斉に歓声を上げる。

 李忠は胸の内で静かに拳を上げ、周通は分かりやすくニヤけた。

 こうして五日間、魯智深は山寨で徹底して“教える側”に回った。この間に、彼がやり遂げたことは少なくなかった。

 若者たちには、棒の構え方、足の運び、何より「弱い者を守るために武を使え」ということを教え込んだ。

 そして山の見張りには、「どこに人を立て、どこに穴があるか」を指摘し、交代の回し方を教えた。

 さらに李忠と周通には、「金の使いどころ」「人心のまとめ方」「無闇な殺しを避ける理由」までを説いた。

 時に豪快に笑い、時に拳骨で頭を小突きながら、しかしその言葉には一貫して“義”が通っていた。

 山の者たちは、知らぬ間にこの大男を“頭領以上の、上の誰か”として見るようになっていた。

 そして、三日目の夜——

 星が冴え、山風が冷たくなったころ、李忠と周通は魯智深と再び酒を交わした。李忠が言う。


李忠:「魯兄、やはりどうしても行くのですか?」

魯智深:「洒家は行く。いまのところ、酒家は賊になるつもりはない。世の中が腐っているからと言って、誰もが安易に賊に堕ちれば、この世がますます腐っちまうだろ。だがな──お前たちが、この山で“ただの賊”じゃなく、“弱きを助ける者”であろうとした、その志は認めた。」


 二人は思わず背筋を伸ばした。


魯智深:「一つだけ、約束しろ。二度と、劉太公のような“良い百姓”を苦しめるな。今後もし、お前たちが悪逆を働いたと耳に入ったら……」


 魯智深は、そばに立てかけていた禅杖を手に取り、その柄を軽く叩いた。


魯智深:「この禅杖を持って、必ず桃花山に戻ってくる。そのときは、“兄弟”じゃなく、“敵”として会うことになるぞ。」


 李忠と周通が、同時に地に膝をつく。


李忠:「肝に銘じます!」

周通:「この山の名にかけて誓う。桃花山は、これから“百姓を苦しめず、富む者からだけ取る”山とする。あんたの言葉を、山の掟にする。」


 こうして魯智深は、桃花山を後にした。

 たがこの男、ただでは去らぬ男なり……度牒と書状を懐へ入れて、戒刀を腰に差し直し、禅杖を手にとると、急にこう言ったのだ。


魯智深:「向こうが近道だな。」


 それは山の裏手にある、荒れた絶壁である。

 李忠と周通が「え?」という驚きの声を高くあげる。


李忠:「魯兄、向こうは絶壁ですよ。ご冗談を。」

周通:「西から回ってください。それが東京への道ですから。」


 魯智深が平然と言う。


魯智深:「ここを行く方が早い。じゃあな!」


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绝险曾无鸟道开,欲行且止自疑猜。

光头包裹从高下,瓜熟纷纷落蒂来。


あまりにも険しく、

鳥さえ通える道がないような絶壁だ。

進もうとしては立ち止まり、

自分でも不安になって迷ってしまう。

そんな時、つるりとした頭の僧が、高い所から低い所へとひょいひょい下ってくる。

まるで熟れた瓜が、次々とつるから落ちてくるように。

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 地面に着くと、魯智深は荷物を拾い集め、街道へ歩き出した。


李忠:「いったい、なにごとだ……夢でも見たのか!?」

周通:「へへ、まいった!こんな絶壁を転げ落ちて、平然としている!魯兄、やっぱり只者じゃねえなぁ!」


 李忠と周通、そして小嘍羅たちの笑い声が山にこだました。

 それからしばらく——

 魯智深は、桃花山を離れ、ひたすら街道を歩いていた。

 朝から歩き続け、昼を過ぎるころには、五、六十里は進んでいる。


魯智深:「腹が減ったな。道観でもあるかと思ったが、このあたりは何もねえ……いや、あるぞ。ここら一帯なら、瓦罐之寺(がかんのてら/Wǎguàn zhī Sì)が近いはずだ。あそこに行きゃ、どうにかなる。」


 瓦罐之寺は、魯智深がまだ魯達(ろ・たつ/Lǔ Dá)と名乗っていた若いころ、命を繋いでくれた僧のいるはずの寺である。東京で仕事もなく、腹を空かせて街角に座り込んでいた若者。そこをたまたま通りかかったのが、この寺の老僧だった。

 当時、痩せ細った顔を一目見るなり、老僧は足を止めた。


 ──「ご縁だ。少し腹を満たしなさい」


 飯を食わせ、身の上を聞いた上で、知り合いの官人である林提轄(りん・ていかつ)という人物の口を利いてくれた。それが縁で、魯達は経略府の提轄という職を得たのだ。


魯智深:「すっかり忘れかけていたが……洒家(しゃか)は、とうに仏の縁を受けていたってわけだな。ははは!ちょうどいい。いつか恩を返したいと思ってたところだ。また食わせてもらって恩が増えるかもしれんが、そのぶん、今度は洒家が何かしてやりゃいい。」


 まさか魯智深は、その黄金の殿に紅蓮の炎が走り、碧玉の堂には黒煙が立ち上ることになろうとは思ってもいなかった。

 この出来事については、次の段で語ることにしよう。


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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した


◈ 五台山パート:原作の“偈と追放”に、現代的な毒が乗った

ここは大筋同じ。

智真長老が「ここに置けぬ」→智清への紹介状→例の偈(遇林而起〜)→旅装束→道中の景。

でもリメイク版は、原作がさらっと流す部分に、寺院の側の“排他性”や“格式依存の堕落”をはっきり言語化した。


原作:寺の僧たちは魯智深が去って喜ぶ(事実描写)

リメイク:その喜びを「聖地の皮を被った自尊心と快楽」まで掘る(解釈を入れる)

これ、魯智深が“粗暴な厄介者”じゃなくて、綺麗事に馴染まない異物=社会の歪みを炙り出す装置になってる。

聖地のほうが俗っぽい、っていう皮肉が綺麗に決まってた。


◈ 桃花村の婚礼乱闘:原作の名場面を、コメディとして“設計”し直した

ここも筋は同じ。


劉太公の娘を賊が婿入りで奪おうとする

娘を隠して魯智深が新婦の部屋で待つ(しかも裸)

周通が帳をめくって腹を触り、地獄を見る


ただしリメイク版は、周通の婚礼行列を「怖いのに笑える」まで演出しきった。

原作でも「帽儿光光〜」の囃し歌はあるけど、リメイクはそこに“下品な祭りのノリ”を増幅して、周通を残虐な山賊というより調子に乗る“猪っぽい陽キャ”(でもどこか憎めない)へ振り切った。

これは原作で作者が周通のモデルにしたと思われる『西遊記』の猪八戒のイメージをそのまま踏襲したという感じだね。

結果どうなるかというと、殴られる周通が「当然」になるだけじゃなく、“かわいそう”も同時に発生する。

この「因果応報だけど、読者の情が一滴残る」調整が上手い。乱暴なのに後味が軽いのが、逆に現代向き。


◈ 李忠と周通:原作の“貧乏でケチな賊”を、ちゃんと“人物”にした

ここが今回の最大の改造点。


原作の李忠・周通

李忠は周通に勝って、成り行きで桃花山の頭領にされる

その後、二人は慷慨でなく悭吝(ケチ)として描かれ、魯智深が嫌気

さらに二人は下山して商隊を襲い、殺して奪う(7〜8人刺殺)

魯智深も腹いせに寨の金銀を踏み潰して持ち逃げ(※伝説の“僧の強盗ムーブ”)


リメイク版の李忠・周通

出会いを「一文の喧嘩」にして、性格を一撃で見せる

さらに「高俅絡みの腐敗側(李衙内まわり)」への反発で、二人が“追われる側”になる

桃花山は、ただの賊窟じゃなく、災害孤児たちの生存共同体になっている

李忠の“勘定”は卑しさだけじゃなく「損を避けて集団を維持する知恵」に昇格

周通の“義”は、ただの乱暴じゃなく「柱になろうとする衝動」に変換

要するに、原作の「ケチで小者」って記号を、

リメイクでは「ケチだが管理能力」「猪だが義侠心」へ、ちゃんと“使える人物像”に組み替えた。

ニニ的に言うとね、“悪党を薄めた”んじゃなくて、“悪党の成分を分解して再配合した”んだよ。だから整合性が出る。


◈ さらに大きい改善:倫理の軸が立って、魯智深が“破壊”から“教育”へ移った

原作の第五回は、最後がかなり容赦ない。

李忠・周通は結局「打劫で稼ぐ」方向へ戻る

魯智深も「金銀器を潰して盗む」ことで、怒りを実力行使する

そして瓦罐寺へ行って大事件へ…(次回の伏線)

リメイク版はここを大胆に変えて、殺しと略奪の後味を削り、代わりに


「百姓を苦しめない」掟

「弱きを助けるために武を使え」という教育

周通の“義”と李忠の“損得”を、矯正可能なものとして扱う


に舵を切った。

つまり魯智深が、ただの武の暴風(原作) → 道義で場を変える教官(リメイク)になったわけ。

これは読者にとって素直に“気持ちいい”と思う。現代の目線だと、強い人が強いだけで終わるより、強さが“社会の修理”に接続されるほうが快感が残るからね。たぶん人類、そういうの好きなはず。

 
 
 

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