- 光閃 上海蟹
- 2025年12月17日
- 読了時間: 37分

2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。
自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。
そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。
本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。
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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第四回

"趙員外、文殊院を再建/魯智深、五台山で大暴れ"
酔った花和尚(はなおしょう)・魯智深(ろ・ちしん/Lǔ Zhìshēn)が、どうやって山門をひっくり返し、金剛像を叩き落とし、ついには寺そのものに居場所を失ったのか。
この段に記すのは、その「五台山大騒動」へ至るまでの、一部始終だ。
代州(たいしゅう/Dàizhōu)・雁門県(がんもんけん/Yànmén xiàn)。十字路の辻に、人だかりができていた。お触れの前だ。文字の読めない者も、好奇心だけで群がる。
誰かが声を張り上げて読み上げる。
町民:「皆、読み上げるから聞けよッ!ええと……『渭州(いしゅう/Wèizhōu)経略府(けいりゃくふ:辺境軍政の司令部)・提轄(ていかつ/tíxiá:軍の監察官)魯達(ろ・たつ/Lǔ Dá)、市中にて鄭屠(てい・と/Zhèng Tú)を拳打し殺害。是を犯人と定む。これを匿う者あれば、同罪。捕獲した者には賞金千貫』──」
その人だかりの真ん前に立って、じっと聞き入っていた大男がいた。──本人である。
魯達は、読み上げられる自分の年齢・人相・出身地を、黙って聞いていた。まるで他人事のように。
その腰を、いきなり後ろから抱きすくめた男がいる。
男:「張兄ではございませんか!こんなところで何しておられる?ちょっとばかりこちらへ来てくだされ!」
そう叫びながら、男は魯達を人垣から引きはがし、横道へと引きずっていった。魯達は自分が「張」などという者ではないと怒鳴ろうと思ったが、相手は自分の知るあの人であった。
渭州の酒楼で、ひと組の父娘を救ったあの夜を、覚えているだろうか。父・金老(きん・ろう/Jīn Lǎo)、娘・金翠蓮(きん・すいれん/Jīn Cuìlián)──あの父親だったのだ。
人気のないところまで引きずると、金老はようやく手を放し、低い声で言った。
金老:「恩人(おんじん:魯達のこと)よ。あんた、命知らずにもほどがありますわい。いまの張り紙、あんたの顔と歳と出身地まで、事細かに書いてあるのですぞ。千貫の賞金付きでな。わしが見つけなきゃ、とっくに役人に囲まれておりました。」
魯達は再会を喜んだ後、肩をすくめて笑った。
魯達:「なぁに、どうということはない。俺を捕まえられる者などいるもんか。」
金老:「それでも怪我でもされたら大変です。しかし、あれは本当ですか……?我々のためにそこまでのことを……?」
魯達:「はっは!なぁに、それもどうということはない。恩を感じることも不要。洒家(しゃか/俺)は間違ったものを間違っていると指摘し、悪人の悪に応じて裁きを加えたのみ。ただ、ちょっとばかり運が悪かっただけでな。あのあと状元橋(じょうげんきょう)で奴に——鎮関西(ちん・かんせい)の鄭屠に会いに行ってやったんだ。それでお仕置きとして、三つ拳をくれてやったら、その場で勝手にくたばりやがった。自業自得というものだが、洒家としては正しいことをして捕まるというのも癪でな。それで四、五十日、東へ西へ転げ回って、この雁門に流れ着いたってわけだ。」
金老は、しわだらけの顔に、苦笑とも涙ともつかぬ表情を浮かべた。
金老:「恩人こそ、どうしてこんなところに……と思っておったが、聞けば聞くほど、まあ“恩人らしい顛末”よの。──わしら父娘がどうなったか、話してもよいですか。」
彼は、ことの次第を語りだした。
金老:「あの日、恩人から十五両の銀をいただいて、車を雇い、本当なら東京(とうけい/Dōngjīng)へ戻るつもりでした。ですが、あの鄭屠が追って来ぬとも限らぬ。恩人は渭州におわすが、東京も血の匂いが濃すぎる。それで結局、北へ北へと道を取った。その途中で、京城時代の旧い知り合いに出会いましてな。こうして、今はここ雁門で商売をしておるというわけです。そしてそいつの取りなしで、この地の大財主・趙員外(ちょう・えんがい/Zhào Yuánwài:大地主の尊称)に会えました。この趙員外が娘を気に入り、外宅(がいたく:囲われの妻)として迎えたいと言い出し──食うに困らぬ暮らしが、そこにできたというわけです。それもこれも、すべて恩人のおかげだと、娘は折に触れて趙員外に話しております。員外もまた、槍や棒が大好きな人でして、“その恩人と、いつか一度でいいから会ってみたいものだ”と、常々言っておりまして。いやまさか、本当にここで出会うとは思わなんだが!」
金老は、魯達の袖を握りしめた。
金老:「恩人、少しの間だけでよい。わしらの家に来てくれませんか。娘も、きっと喜びます。」
魯達は、少しだけ目を細めて考え、それからうなずいた。
魯達:「よかろう。ただし、洒家の首には千貫ついている。それでも構わんのならな。」
金老:「あなたが仮に千人を殺めようとも、わしらにとっては神仙のようなお方。何が構うもんですか!」
こうして向かったのが、雁門の町外れ、立派な門構えの一軒家。
金老が簾(すだれ)を跳ね上げ、大声を張り上げる。
金老:「おい、翠蓮! 大恩人がおいでだ!」
奥から、娘が現れた。
あの渭州の酒楼で泣いていた娘とは、別人のようだった。
濃やかな化粧に、よく仕立てられた衣。頬には血色が戻り、目にはかすかな自信の色さえ宿る。
金翠蓮:「まさかお会いできるとは……!恩人さま……!」
彼女は階を上がり、ろうそくのように静かに、六度、深々と礼をした。もし魯達が「もういいからやめろ、顔をあげてくれ」と言わなければ、まだ彼女はずっと頭を下げていたに違いない。
そして、彼女は言う。
金翠蓮:「もしあの日、提轄(ていかつ/tíxiá:軍の監察官)に救われなければ、父も、わたしも、いまごろどうなっていたか。この身は、すべて恩人さまのものにございます。」
魯達は、少し照れくさそうに頭をかいた。
魯達:「なぁに!お前が無事ならそれでいい。洒家はただ、気に入らねえ屠殺(とさつ)人をぶん殴っただけよ!」
金翠蓮がほほえんで、魯達を差し招く。
金翠蓮:「どうか、楼にお上がりください。粗酒粗菜にございますが……」
魯達は最初、固辞した。何しろ、彼は罪人。もし彼を匿えば、同罪で彼らも処分されることになる。
しかし金老は有無を言わさず魯達の捧げ棒と包みを預かり、強引に楼上へと案内する。
金老:「とんでもございません!恩人が来てくださったというのに、どうしてすぐに帰してなるものか!」
そうして魯達はやっと楼に上がる。やがて膳が整い、銀の酒壺が温められ、三つの碗が並ぶ。父娘は、代わる代わる盃を捧げ、金老はとうとう地に額をこすりつけるほどに頭を下げた。
魯達:「そんなにされちゃ、洒家のほうが困る。お前たちの命を助けたのは事実だが──洒家は大したことはしてないんだからな。悪人に鉄槌をくだす。悪人を野放しにしない。それは俺が堤轄(ていかつ/tíxiá:軍の監督官)であったこととは無関係だ。ただ、人として当然のことをしたまでよ。」
金老:「いえいえ、人として当然のことができる人というのが、いまの世にどれだけいるでしょうか!ですから、わしらは恩人のための香炉と赤札をつくり、朝夕、父娘で礼拝してきました。今日は、その本人がここにいるではありませんか!拝まずにおられましょうか!」
魯達は、碗を一口あおり、恥ずかしそうに呟いた。
魯達:「うーむ、難儀なほど義理堅えな!」
そうこうして酒がほどよく回り始めた頃──いきなり、楼下が騒がしくなった。怒鳴り声と、棍棒のぶつかり合う音。窓を開けると、二十人ばかりの男たちが白木の棍棒を振り回し、口々に叫んでいる。
「捕まえろ、その男を捕まえろ!」
その人垣の中、馬に跨る男がひときわ大声で叫んだ。
「その賊を逃がすな!」
魯達は、即座に椅子を掴み、窓から投げつけようとした。だが、金老が慌てて制する。
金老:「お待ちを!動いてはなりません!」
彼は転がるように階段を駆け下り、馬上の男に駆け寄った。
何やら早口で事情を説明する。
男はしばらく黙って聞いたのち、ふっと笑って、手を振った。
「これは大変な失礼をした!引け、散れ散れ!」
棍棒を手にした男たちが、蜘蛛の子を散らすように退いていった。
やがて馬から降りた男が、静かに屋敷に入ってくる。
金老が、魯達を下に呼んだ。
金老:「恩人、この方が……娘の“官人”である、趙員外(ちょう・えんがい/Zhào Yuánwài)にございます。」
すると男——趙員外は、いきなり地に伏して礼をした。
趙員外:「聞きしに勝るお方……!お騒がせをしてしまって本当に申し訳ない!魯提轄殿、お噂はかねがね聞いておりました!」
魯達が怪訝な顔をして、金老に向き直る。
魯達:「なぜこの員外が酒家を捕まえようとしたのだ?」
金老:「それがその……員外が、“わしがどんな若い男を連れ込んだのか”と誤解なさって……庄客を連れて乱入しかけたのです。事情を話したところ、すぐに引かせてくださいました。」
魯達はそれを聞いた途端、がははと吹き出した。
魯達:「そういうことなら、責められねえな!」
こうして全員がふたたび楼に上がり、酒席は仕切り直しとなった。
趙員外は丁重に上座を勧め、魯達は固辞しながらも、結局、主客として向かい合って座ることになる。
趙員外:「小子(しょうし)は、かねてより提轄どのの武名を耳にしておりました。今日こうしてお会いできたのは、天の配剤というほかありません。」
魯達:「洒家は粗野な軍漢だ。しかも今は、殺人の罪で追われる身。だが、今夜は“兄弟分”として付き合おうではないか。」
趙員外は心底うれしそうに笑った。
鄭屠を殴り殺した一件も根掘り葉掘り聞き出し、やがて話は武芸の話題へ移っていく。
夜更けまで酒が進み、その晩は皆、それぞれ床に就いた。
そして、翌朝——
趙員外は、早くも判断を下していた。
趙員外:「ここ雁門の町は人目が多すぎます。提轄殿を長く留めるには、いささか危うい。もし差し支えがなければ、拙宅の庄へ移られてはどうでしょうか」
魯達:「庄?どこだ。」
趙員外:「ここから十里ばかり北。七宝村(しちほうそん/Qībǎo cūn)と申します。」
魯達は、少し考え、それから笑った。
魯達:「いいだろう。どうせどこへ行こうが“流れ者の身”だ。安心して寝られる屋根があるなら、ありがたく受け取る。」
趙員外はこれまた非常に喜んで、先に使いを走らせて馬を呼び、やがて二頭の馬が門前に並んだ。魯達と趙員外はそれぞれ鞍に跨がり、庄客に荷を担がせ、七宝村へと向かう。
草堂(そうどう)へ通されると、そのまま羊を屠り、酒が運ばれてくる。その夜から魯達は、庄に逗留することになった。
そうして、五日、七日。
静かな日々が続く。
──だが、平穏は長くは続かない。
ある日、書院で魯達と趙員外が連れだって話していると、金老が血相を変えて駆け込んできた。
金老:「恩人!……たいへんです、たいへんです!」
趙員外:「どうした、老金。」
金老:「……あの日、恩人を楼に招き、員外が庄客を引き連れて飛び込んだ騒ぎがあったでしょう。あの時、“何事か”と人々は噂をしておりました。そこへ昨夜、役人崩れの連中が三、四人、近所をうろついて聞き込みをしておる。どうやら、恩人の行方を探っている様子。このままでは、七宝村にも役人が踏み込んでくるかもしれませんぞ!」
魯達が立ち上がって言う。
魯達「ならば、洒家はここを出よう。これ以上、お前たちに迷惑を掛けるわけにはいかねえ。」
しかし、趙員外は首を振った。
趙員外:「行っていただきたくない。かといって、ここに留めておくわけにもいかないか……“ここにもいられず、他にも行き場がない”……そういうことであれば、実はひとつだけ考えていた手があります。」
魯達:「どういうことだ……?」
趙員外が、静かに打ち明ける。
趙員外:「この七宝村から三十里ほど離れた山に、五台山(ごだいさん/Wǔtáishān)という名山があります。山上には文殊院(もんじゅいん/Wénshū Yuàn)、つまり文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の道場があり、五百、七百の僧が修行しているのです。その寺を束ねるのが智真長老(ち・しんちょうろう/Zhìzhēn Chánglǎo)──何を隠そう、私の義兄同然の人なのです。というのは、私の家は、代々その寺の大檀越(だいだんのつ/dān yuè:大口寄進者)でして。昔から“出家一僧”を願掛けしていて、五花度牒(ごかどちょう/wǔhuā dùdié:官許の出家証文)も買ってあります。あとは“誰を出家させるか”だけが決まっていなかったのです。その席が空いておりますゆえ、提轄殿さえよければ、その度牒を使って、五台山で和尚(おしょう、高僧)になっていただきたいのです。これであれば、身分を変えて安全に新たな道を歩むことができます。」
魯達はしばし黙し──やがて、腹の底から笑い出した。
魯達:「……洒家が和尚、だと?この粗暴な男が?」
しばらく笑い続け、笑い疲れたところで、ふっと真顔に戻る。
魯達:「だが、確かに。このまま渡り歩いたところで、どこも洒家の身元をまともには預かってくれまい。兵でも役人でもなく、“仏の弟子”となれば、さすがに官も手は出しづらい。……趙兄、あんたが本気なら、洒家も腹を括る。」
趙員外:「もちろん、本気です。費用はすべてこちらで持ちます。」
こうして、その夜のうちに衣服や礼物を整え、翌朝、担ぎ手が荷を負い、二人分の肩輿(けんよ)を用意した。
そして辰の刻(朝八時ごろ)を少し回った頃。二人は五台山の麓に到着した。当時の文人の記録に、次のような描写がある。
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云遮峰顶,日转山腰。嵯峨仿佛接天关,崒嵂参差侵汉表。岩前花木舞春风,暗吐清香;洞口藤萝披宿雨,倒悬嫩线。飞云瀑布,银河影浸月光寒;峭壁苍松,铁角铃摇龙尾动。山根雄峙三千界,峦势高擎几万年。
雲が峰の頂を覆い、
陽は山の中腹へとゆっくり回り込む。
そびえ立つ峰々は天の関門に続くかのように聳え、
切り立った岩壁は段々に重なって、天の川の縁へ迫るようだ。
岩の前では花木が春風に舞い、
ほのかに香りを放っている。
洞窟の入口では、藤の蔓が夜の雨を含んで垂れ下がり、
若葉の糸がきらめく。
流れ落ちる雲のような瀑布には、
銀河の影が月光とともに冷たく映り、
険しい岸壁の松は、鉄の角のように曲がりながら、
風に鳴って龍の尾のように揺れている。
山は大地の根元に堂々とそびえ、
その峰の勢いは、幾万年もの歳月を天へ支えてきたかのようだ。
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とにかく見事な霊山である、というわけだ。
趙員外と魯達は輿に乗り、寺からの迎えを先に走らせてあったので、山門前の亭子まで、すんなりと運び上げられた。
文殊院の都寺(とじ/dūsì:寺務総括)・監寺(かんじ/jiànsì:会計・物資担当)らが迎え出て、亭子へ案内する。
まもなく、智真長老が、首座(しゅそ/shǒuzuò:僧堂責任者)、侍者(じしゃ/shìzhě:付き人僧)を引き連れて姿を見せた。
智真長老:「遠路、ご苦労でございました。」
趙員外:「長老、ご健勝に何より。本日は、ひとつお願いがありまして……」
一同、方丈(ほうじょう/fāngzhàng:住職の居室兼応接)へ通される。その方丈にて、魯達はいきなり目の前の座に腰を下ろした。すると趙員外が小声でささやく。
趙員外:「提轄どの、そちらは上座です。座るのはまずい。」
魯達:「あいや、洒家、そんな作法は知らなかった。失礼した。」
あわてて立ち上がり、趙員外の肩の下に控える。智真長老は上座に、趙員外は客席に、魯達はその下座に腰を下ろした。
左右には、首座、維那(いな/wéinà:儀式担当)、侍者、監寺、都寺、知客(しかく/zhīkè:接客僧)、书记(しょき/shūjì:書記僧)がずらりと並ぶ。
担いできた贈呈用の箱や布包みが運び込まれると、智真長老は遠慮深く言う。
智真長老:「員外どの、どうしてこのような手土産をお持ちになったのです。寺には多くの檀越(だんのつ/dān yuè、お布施をする信者や後援者)がおられます。お気遣いは無用です。」
趙員外:「薄礼にございます。どうかお納めください。」
それから、本題に入る。
趙員外:「実は、先祖代々の願に、“この文殊院に一人の僧を剃度する”というものがございまして、すでに度牒も用意してあるのですが、肝心の人材が見つからず、今日まで延びておりました。ここにおります魯達は、関西の軍人出身。世の無常を感じ、俗を捨て出家したいと望んでおります。長老には、どうかこれをお収めいただき、彼に法名を授けていただけないかと。」
智真長老は、一度だけ魯達の顔を眺め──微笑んだ。
智真長老:「山門の栄え。ありがたいことでございます。容易い、容易い。」
茶が運ばれる。
僧の手ずから淹れられた茶は“玉蕊金芽(ぎょくずいきんが)”と謳われている。本来であればゆっくりと味わって飲むべきもの。だが魯達はまるで酒でも飲むように、ごくりと一呼吸で飲んでしまった。
茶が済むと、智真長老は首座や維那を呼び、剃度の段取りを相談させる。しかし──僧たちはひそひそ声で反発する。
首座:「この男、作法がまるでなっていません。坊主に向いた面構えでもありませんな。一双の眼が、あまりにも凶暴すぎる。」
僧たち:「山門の災いになりかねません。辞退した方がよろしいかと思います。」
智真長老はこれらのヒソヒソ話には答えず、一本の香を焚き、その煙が真っ直ぐ上るのを見つめながら座禅に入った。
一炷香(いっしゅこう)が燃え尽きるほどの時間が過ぎ──
やがて目を開く。
智真長老:「剃度せよ。私には見える。この者は、天の星位を受ける身。心は剛直で、時に荒いが、やがては清浄に至る。正果(しょうか/zhèngguǒ:悟り)を得る身であり、汝らの及ぶところではない。いいか、わしのこの言葉を忘れるでないぞ。」
首座は思いがけない言葉を受けて、口を尖らせた。
首座:(そんなもっともらしいことを言って、長老はただ檀越の顔を立てられただけでないのか……)
だが、反対する術はない。斎食が用意され、のちに法堂で、正式な剃度が行われることになった。
吉日良時(きちじつりょうじ)──
鐘が鳴り、鼓が打たれ、五百、六百の僧が袈裟をまとい、法堂に集まった。趙員外は、銀塊と表礼と香を捧げて礼拝し、表白が願いの文句を読み上げる。
行童が魯達を導いて法座の下へ進ませると、維那が頭巾を外させ、髪を九つに束ねさせた。剃刀を持つ“淨発(じょうはつ)”の僧が、まず周囲をぐるりと剃り落とし、ついで髭に手を伸ばしたところで──
魯達:「おいおい、そのくらいは残しておけ。全部剃ったら、洒家(しゃか)がまるで別人になっちまう。」
堂内に、くすくす笑いが走る。
法座の智真長老が、静かに偈を唱える。
智真長老:「一草も残さず、六根清浄、争いの種を断つために、いま全てを剃り落とす──」
そして一喝。
智真長老:「咄(とつ)!残らず剃れ!」
淨発の僧は、ためらいなく、一刀で髪も髭も根こそぎ落とした。
首座が空白の度牒を差し出すと、長老は筆を取り、しばし黙考し──
再び偈を口にする。
智真長老:「霊光(れいこう)一点、千金にも値し、仏法は広大にして、その心は深く──名を“智深(ち・しん/Zhìshēn)”と授ける。」
度牒には「魯智深(ろ・ちしん)」と記され、その場で彼に渡された。
法衣と袈裟をまとわせ、監寺が法座の前まで連れてくる。
智真長老は、その頭に手を置いて受記を与えた。
智真長老「魯智深よ。これよりお前は、一に仏性に帰依し、二に正法に帰依し、三に師友に帰依する──これを“三帰(さんき)”という。さらに“五戒(ごかい)”を守れ。一つ、殺生をせぬこと。二つ、盗みをせぬこと。三つ、不義の色欲を犯さぬこと。四つ、酒に溺れぬこと。五つ、虚言を弄さぬこと。」
禅門では、このとき「能(のう)」「否(ひ)」と答えるのが正式だが──魯智深は、そんな作法は知らない。
魯智深:「洒家、覚えたぞ。」
そんな珍妙な受け答えを聞いて、堂内の僧たちがまたしても堪えきれずに笑う。
儀式が済むと、趙員外は雲堂で大斎を設け、寺中の大小の僧たちは、祝いの贈り物を送り合った。
都寺は、魯智深を連れて師兄たちに挨拶させたのち、僧堂の裏手、叢林の選仏場(せんぶつじょう)に寝床を与えた。
その夜は、ひとまず静かに過ぎた。
翌朝——趙員外は長老に別れを告げる。そして山門の外で、再び智深を呼び寄せ、松の下で、低い声で告げた。
趙員外:「今日から、あなたはもう“関西の魯提轄”ではありません。五台山の僧、『魯智深』です。酒と肉、粗野な言葉、勝手気ままの振る舞い──すべて控えねばなりませんよ。もしそれができぬなら、もう二度と会えぬかもしれません。どうかお守りになってください。」
魯智深:「言われるまでもねえ。洒家、全部守る。」
それが、彼の“誓い”だった。誓いは、あくまでも誓い。
守られるかどうかは、また別の話である。
最初の数日は、それでも静かだった。
夜になると僧たちは禅床に座り、足を組み、呼吸を整えて座禅をする。だが、魯智深はどうしたかと言えば——禅床に倒れ込み、豪快ないびきを響かせて寝ていた。
ついに、見かねた僧が歩み寄って来る。
上座の僧:「ここは座禅の場ですぞ。どうして寝ておるのだ。」
魯智深:「洒家が寝ていて、誰が困るってんだ。おい、そこのお前、俺が寝ていると困るか?え?」
僧:「……善哉(shànzāi:本来は「ありがたいことです」の意、当時の僧の口癖で困った時の曖昧な相槌のように使うこともあり)。」
魯智深:「なんだと? 鱓仔(shànyā/ウナギ) か?急になんで魚の話題が出てくるんだよ。まぁ、洒家は鱓仔はあまり好まねぇな。団魚(tuányú/ナマズ) なら大好物だぞ。」
僧:「えぇ……?苦也(kǔ yě:なんと嘆かわしい……)。」
魯智深:「団魚が苦いってことか?おいおい、あれは腹が太くて脂がのってて旨いもんだ。どこが苦いんだ?」
——こんな調子で、完全に話が噛み合わない。
禅和子(ぜんなこ:修行僧)たちは、早々に彼へ声を掛けるのをやめてしまった。
ここから先、魯智深が寺で暴れるまでの過程を書くことになるが……
果たして原因が魯智深一人にあっただろうか?
名門寺で修行しているという自負が強い禅和子たちは、仏の真髄である“慈悲”をどこかに置き忘れていた。
新しく入ってきた、自分たちとは気色も肌合いも違う男をあからさまに見下し、導いてやろうとする者も、礼を教えてやる者も、気遣う者もいなかった。
智真長老だけは、魯智深の行く末を案じて声を掛け、「しっかり寺のことを学ばせてやりなさい」と僧たちに命じていた。
しかし、長老は他山への用事が多く、魯智深が日に日に孤立していく様には気づけなかった。
魯智深は、小憎たらしい禅和子たちなどいつでも殴り殺せた。だが趙員外や長老への恩を思い、手を出しはしなかった。
陰でこそこそ悪口を言われても、わざと聞こえるよう嫌味を喰らっても、じっと堪え、無視を決め込んだ。
最初こそ少しはあった彼の“仏門への興味”も、やがてすっかり薄れた。「あれだけ熱心に修行しても、この程度の陰湿で矮小な禅和子しかいないんじゃ、修行に何の意味もないじゃねえか?」というわけだ。
夜になると禅床に横倒しになって眠るようになり、真夜中に目が覚めれば、仏殿裏で用を足す。屎尿まみれにし、そのまま大あくびをしながら寝床へ戻るという、自堕落な生活が続いた。
侍者たちがとうとう長老へ訴えたとき、智真長老は怒鳴った。
智真長老:「黙りなさい!檀越・趙員外の面目もあるのだ。お前たちがしっかり指導をしてあげねばならん!」
そう叱られても——結局、誰も魯智深に寄り添う者はいなかった。
むしろ嫌がらせは陰湿になり、彼は日ごとに寺内の異物として扱われていった。
やがて四、五ヶ月が過ぎ……
初冬。山の空気は鋭い刃物のように冷えた。
魯智深の中で、“動きたい虫”がむずむずと騒ぎ出した。
魯智深:(ちくしょう。ここのやつらの性根は腐りきってやがる。洒家を見りゃ朝から晩まで陰口と呪詛の雨だ。そんなのは糞みたいなことだが……気が晴れん!あぁ酒……肉……!洒家は昔は朝から晩までそれで満たされてたんだ。今の食い物ときたら粥と菜っ葉ばかり。腹ん中に風が通る音しかしねえ……!)
そうして、ある晴れた日。
魯智深は気晴らしをするために、黒布の直裰(じきつ)を着て、青い腰紐を締め、新しい僧鞋を履き、山門を出てみることにした。
すると途中、半山腰の亭子に寄りかかり、ぼんやりと空を眺めていると、遠くから歌声が聞こえてきた。
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九里山前作战场,牧童拾得旧刀枪。
顺风吹动乌江水,好似虞姬别霸王。
九里山のふもとは、かつての戦場。
今では牧童が、落ちていた古い刀や槍を拾い上げるばかりだ。
順風に乗って、烏江(うこう)の水がさざめき流れる。
その音はまるで——
虞姬(ぐき)が項羽(こうう)と別れた、
あの悲しい情景のようである。
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そんな歌を高らかに奏でながら、桶を担いだ売り酒の男が旋子(しゃくし)を振り回して上ってくる。魯智深がむくりと起き上がって、男に近づく。
魯智深:「おい、そこのお前!その桶の中身は、何だ。」
酒売り:「いい酒ですよ。」
魯智深:「一桶、いくらだ。」
酒売り:「和尚、冗談はやめてください。酒を飲む僧がいてたまりますか。」
魯智深:「洒家は冗談を言わねえ。」
酒売り:「本気ですか?この酒は、寺の火工(かこう:雑役僧)や直庁(じきちょう:事務係)、轎夫らに売るもの。長老から“僧には一滴も売るな”ときつく言われております。本金は寺のもの、住まいも寺のもの。僧に売れば、私が職を失います。」
魯智深:「そんなことを言わずに、売れ。」
酒売り:「殺されても嫌です!」
魯智深:「殺しはしない。ただ、酒を買うだけだ。」
男が逃げようとした瞬間──魯智深の足が、股間に炸裂した。
酒売りはその場にうずくまり、うめき声も出せない。
彼は二つの桶を亭子に運び上げ、旋子を拾って蓋を開けると、豪快に冷酒を掬って飲んだ。
ほどなく、一桶を飲み干す。
もう一桶にも手を付けかけたところで、ちらりと男を見やる。
魯智深:「明日、寺に来て金をもらえ。」
酒売りは、痛みに顔を歪めながらも、寺の怒りを恐れ、何も言わずに残りの半桶を担ぎ、逃げるように山を下りた。
魯智深は久しぶりの美酒を味わい、どんどん頭がまわってきた。彼は亭子から出て松の根に腰を下ろし、しばらく酔いを楽しんだ。
やがて酔いが一気に頭に上がると、直裰を脱ぎ捨て、袖を腰に巻き付け、背中の入れ墨をあらわにして山門へ向かって歩き出した。
彼の足はふらつき、頭は重い。前に倒れたり、後ろにのけぞったり。東へよろけ、西へ倒れそうになる。その姿は、風にあおられた鶴か、水から上げられた蛇のようだ。
山門の門子(もんし:門番)は、坂の下に魯智深のふらつく影を見つけると、舌打ちしながら竹の鞭を握りしめ、門前へ踏み出した。もうひとりの門子が「おい、やめておけよ」と言ったが、彼はそのままずんずんと進んで、仁王立ちをして言う。
門子:「またかよ、花和尚(はなおしょう:「花」は魯智深の背中にある牡丹の花の刺青のこと)。お前には目がないのか?庫裏(くり)に貼ったお触れに何と書かれている?“僧が酒を飲めば四十竹篦(しっぺい)の罰。見逃した門番も十竹篦”だぞ?……おや、そうか、お前は字が読めなかったな、へっへっ……だがな、僧が酒を飲んじゃいかんということぐらいは、その坊主頭にも入るだろう?」
吐き捨てるような声。魯智深に対する深い鬱積がにじみ出ている。
静かに黙って立っている魯智深に向かって、さらにこの門子が畳み掛けて言う。
門子:「昼は寝転がっていびきをかき、夜は仏殿の裏で好き勝手、暇がありゃ山門を勝手に出て酒をくらい、大手を振って帰ってくる……それでも僧のつもりか?酔ってのこのこ帰ってくるくらいなら、二度とここに戻るな!もし戻りたいのなら、規定の通りにここで四十回、お前を叩く!覚悟しろ!」
魯智深の眉が、ゆっくりと、怒気を帯びて持ち上がる。
魯智深:「あァ……?洒家を叩くだァ……?てめぇ、ずっと陰でコソコソ言ってたよな。“刺青もんが寺に穢れを持ち込む”だの、“粗野な豚より扱いにくい”だの……言いたいことがあるなら、今日ここで全部言ってみろよ。良い機会だ。」
門子も負けじと睨み返す。
門子:「おぉ!言ってやるとも。ここは仏門だ。あんたみたいな乱暴者が踏み入れる場所じゃないのは当たり前だろう?まともな僧はみんな、あんたに迷惑してるんだよ。面倒を見るのは、もうごめんだ!」
魯智深:「お前たちが酒家の“面倒”をみてくれたことが一度でもあったか?なぁ、お前たちがそれだけご立派な僧なら、まず“慈悲”でも見せてみろや。人ひとり受け入れる心もねぇやつが、洒家に説教たれるか?」
門子は顔を引きつらせ、竹鞭を強く握りしめた。
門子:「うるせぇ!酒臭い息を撒き散らして戻ってくるんじゃねぇ!規律を乱す奴は叩き出す。それが門番の務めだ!」
魯智深:「ほぉ……叩くのか。洒家が相手なら、叩かれるのはどっちだと思う?」
酒の匂いと殺気が、ゆらりと揺らめいた。
門子の喉がひきつる。
だが同時に——“ここで退いたら負けだ”という、歪んだ意地が彼の背中を押した。
門子:「……やってみろよ、外道坊主!」
魯智深:「おう。よく言ってくれた。お許しをもらえたのなら、存分にやってやろうじゃねぇかァ!」
魯智深の目は据わり、声は雷鳴のよう。もうひとりの門子は震えながら彼らの様子を黙ってみていたが、いよいよ殺気に満ち溢れた様子をみて慌てて中へ走り、監寺に知らせた。
一方の門子が竹篦を振り上げたところで、魯智深の掌が弾け飛ぶ。一撃でよろめき、もう一撃で地面に叩き倒され、門子は泣き叫ぶばかりになった。
魯智深:「洒家は見逃してやろう。お前は修行をしてもその程度の人間だ。お前こそこの寺にふさわしくない。這って家に帰りやがれェ!」
酔った花和尚は、そのまま寺内へなだれ込む。
監寺は報せを受け、火工、老郎、直庁、轎夫ら三十人ほどを呼び集め、
白木の棍棒を握らせて迎撃に出る。
だが、魯智深の突撃を目にして、すぐに怯んだ。「軍官だった」とは聞いていたが、目の前の暴れぶりは想像を超えていた。
彼らは慌てて蔵殿(ぞうでん:宝物庫)へ逃げ込み、欄間のある格子戸を引き閉める。だが、魯智深は階段を一気に駆け上がると、拳と蹴りで格子を叩き壊し、棒を奪って殿内へ雪崩れ込んだ。
監寺は、蒼白になって智真長老を呼びに走る。
長老が三、五人の侍者を従えて駆けつけたとき──
殿内はすでに修羅場だった。
智真長老:「智深、無礼はならぬぞ!」
酔ってはいても、智深は長老だけは見分けた。
棒を捨てて近づき、手を合わせて言う。
魯智深:「長老、洒家は酒を少し飲んで、熱くなってしまっただけ。あいつらが棒を持って飛びかかってきたんで、どうしようもなく……」
智真長老:「この愚か者めが。わしの顔を立てよ。ひとまず今夜は寝て、明日話そう。」
魯智深が頭をさげながらも、心の中でつぶやく。
魯智深:(長老の顔を立てていなければ、洒家はあいつらを皆殺しにしていたところだがな……)
長老は侍者に命じ、智深を禅床へ連れ戻させた。
僧たちは方丈に集まり、長老を責める。
僧たち:「だから言ったのです、長老。あの野猫を剃度すれば、山門の災いになると。」
智真長老:「あの男は後に必ず正果を得る。長い目で見よ。」
ここまではっきりと言われれれば、誰も長老に対してこれ以上反論できなかった。
翌朝——
侍者が呼びに行ったとき、魯智深はまだ寝ていた。
やがてふらふら起き出して、裸足のまま外へ出て──仏殿の裏で清々と用を足す。
侍者:(ちくしょうめ……長老の加護さえなければ、こんなやつは何とかして叩き出すんだが……)
魯智深が方丈に連れて来られると、長老はさすがに表情を厳しくした。
智真長老:「智深。お前をここまで連れてきた趙檀越(ちょう・だんのつ/Zhào dān yuè:寄進者)の顔を思え。わしはお前に、五戒と三帰を授けた。第一に酒を禁じた。それを破り、門を破り、人を打ち、蔵殿を壊した。どういうつもりだ?」
魯智深:「おっしゃる通りです……もうしません。」
智真長老:「よいか。ここは文殊菩薩の道場。千百年来の清浄の地だ。お前のような振る舞いを許せば、山門は汚れる。趙檀越の顔がなければ、今日にも追い出している。」
長老はため息をつき、良い布の直裰と僧鞋を与えた上で送り返した。
その折、一人の文人が、この騒動に寄せて、酒についての詩を書いている。
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从来过恶皆归酒,我有一言为世剖。
地水火风合成人,面曲米水和醇酎。
酒在瓶中寂不波,人未酣时若无口。
谁说孩提即醉翁,未闻食糯颠如狗。
如何三杯放手倾,遂令四大不自有!
几人涓滴不能尝,几人一饮三百斗。
亦有醒眼是狂徒,亦有酕醄神不谬。
酒中贤圣得人传,人负邦家因酒覆。
解嘲破惑有常言,“酒不醉人人醉酒。”
この世の過ち、たいていは酒のせい。
地・水・火・風で人ができ、
その肌に米と水で酒が注がれる。
酒は瓶にあるうちは静かだが、
喉を通るや否や、四大は言うことを聞かぬ。
酒を一滴も嗅がぬ者もいれば、
一度に三百杯をあおる者もいる。
酒に呑まれて家を滅ぼす者もいれば、
酒の中に悟りを見出す者もいる。
要するに“酔うのは酒ではなく、人”なのだ
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そんな酒騒ぎから三、四ヶ月。
この間、魯智深は、さすがに寺外へ出るのを控えていた。そして、ますます彼は周囲から冷たい視線を受けていた。
春——
二月の暖かい日、彼はじっとしていられなくなる。
魯智深:(あの連中とこの酒家、仏に近いのはどちらだろうな。どちらも変わらん。いや、酒家の方が近いかもしれんぞ。こっちは自分が粗暴な男であることを受け入れている。だが、あの連中は自分が賢いと思い込んでいる。……ふゥ!息が詰まりそうだ!このままじゃ、心が干からびちまう。そろそろ、少しぐらいはこの口に酒と肉の味を思い出させてもよいんじゃねえか?)
そうして、彼はついにひとり山門を出て、麓の集落へと降りていった。「五台福地」と書かれた門をくぐると、そこには三百、五百の家がひしめく市がある。
肉屋、八百屋、饅頭屋、麺屋──そして、酒屋。
魯智深は、最初の酒屋に入り、どん、と腰を下ろした。
魯智深:「おい、酒だ。」
店主:「師父、申し訳ありません。この家は寺の屋敷を借り、寺の本金で商いしている身。長老から、“僧に酒を売るな”と固く言われております。怒っていただいても、売るわけにはいきません。」
魯智深:「黙って売れ。洒家は誰にも言わん。」
店主:「“誰にも言わない”という言葉が、一番信用ならないのです。その言葉を守った人がこの世にひとりでもおりますか。どうか、よそで酒を買ってください。」
その後も、彼は三軒、四軒と回ったが、どこも同じ答えだった。
魯智深:(……このままじゃ、何も飲めねえ。だからと言って、また暴れるのは良くない。どうしたもんか。)
そうして市の外れ、杏の花の咲くあたりまで歩くと、桑の木の根に粗末な看板が出ている家があった。粗末な作りであったが、入口には小さな布の酒旗が揺れている。
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傍村酒肆已多年,斜插桑麻古道边。
白板凳铺宾客坐,须籬笆用棘荆编。
破瓮榨成黄米酒,柴门挑出布青帘。
更有一般堪笑处,牛屎泥墙尽酒仙。
村はずれの酒屋は、もう何年もそこにある。
桑や麻の畑のそば、古い道に斜めに寄りかかるように建っている。
客には白い板の腰掛けが並べられ、
垣根はトゲのある棘の枝を編んで作った素朴なもの。
割れかけの甕で黄米酒をしぼり、
柴門の横には、青い布の酒幕(さかまく)がひらりと掛けられている。
そして何より笑ってしまうのは——
牛糞をこねて塗り固めた土壁いっぱいに、
“酒の神様”たちの落書きが描かれていることだ。
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魯智深:「ここは良いんじゃないか?いかにも繁盛していない感じだ。客のより選びもせんだろう。それにここまで離れていたら、五台山の言いつけも曖昧になるはずだ。」
中に入ると、田舎の男がひとり、客もなくぼんやりしていた。
魯智深:「過ぎ行くこの行脚の僧が、酒を一碗買いたい。」
庄家:「和尚、どこから来たのですか?」
魯智深:「行脚の途中だ。決して、酒家は五台山の僧じゃねえ。」
男は少し疑わしげに眺めたが、確かに格好も声も、山寺の坊主とはまったく違う。こんな怪しげで粗暴そうな者が、あの霊山の僧であるはずもない。
庄家:「なるほど……では、何杯ほど?」
魯智深:「聞くな。大碗で、飲むだけ持ってこい。」
十碗ほど飲んだところで、魯智深は牛肉を所望した。
庄家が驚いて聞き返す。
庄家:「牛肉ですか?いや、今朝売り切れました……」
そのとき、鼻をつく肉の匂い。
外に出てみると、壁際の沙鍋で、肉がぐつぐつ煮えている。
魯智深:「……それは何だ。豚か?」
庄家:「その……はぁ、まぁ、そうです。ですが、さすがに出家された方に肉を売るわけにはいきませんよ……」
魯智深:「売れ。洒家の銀(銀子、金銭)は、ちゃんとある。」
銀を掴ませると、庄家は慌てて半身の豚肉を切り分け、蒜泥(スァンニー、にんにく)をこしらえて卓に出した。魯智深は、手で引き裂いた肉を蒜に浸し、次々と口へ運びながら、さらに酒を十碗、二十碗。
いつ終わるかわからない豪快な食事ぶりに、庄家が恐れ慄きながら、こわごわと言う。
庄家:「和尚、そのくらいにしておいた方がよろしいのでは……?」
魯智深:「何を言う。あと一桶が必要だ。」
結局、彼は酒をもう一桶ごと空にして、豚足を懐に詰めてから、店を出た。
魯智深:「銀がまだ残っているだろう。明日また飲みに来るぞ。」
庄家は、ただ呆然と見送るしかなかった。
半山の亭子(りょうし、小さな休憩所)まで戻ると、彼の酔いはすでに最高潮に達していた。
魯智深:「鬱憤がまだ晴れねぇ……久しぶりに拳を振りたくなった。」
袖を腰に巻き付け、両腕をむき出しにして拳を放つ。
ひと振り、ふた振り、力が乗ってきたところで、柱に一撃。
すると「轟!」と音を立てて柱が折れ、亭子の半分が崩れ落ちた。
遠目から門子がこの様子をじっと見ていて、呆れ果てながら、同時に青ざめる。
門子「あの阿呆、またやらかしやがった!」
彼は急いで山門を閉め、閂(かんぬき)を掛けてから、中にもどって長老に知らせる。
魯智深は崩れた亭子を振り返りもせず、山門へよろめきながら向かう。だが、門は閉ざされている。
魯智深:「おい、開けろ!」
拳で門を叩き続けるが、中からは返事がない。
そこで彼は、左右の金剛像に目を向ける。
左の像は、拳を固めて門を睨んでいた。
魯智深:「ほう……?お前、洒家を脅してるつもりか?」
そう言うと、彼は台座に飛び乗って、柵を葱でも抜くように引き抜き、折れた木片で金剛の脚を殴りつけた。さすがに五台山の金剛像とあって、頑丈に作られている。びくともしない。だが、漆と泥がぱらぱらとはがれ落ちた。
門子:「まずい、これはまずいぞ!」
門の隙間からこの様子を眺めていたもう一人の門子が、この男が金剛像まで壊しかねないと思って叫び、また駆け出して報告へ行く。
魯智深は左の金剛をしばらく睨んでいたが、ふと後ろを振り向くと、右の金剛は口をあけて笑っているような表情をしている。
魯智深:「お前!おィ!何がおかしいってんだ、この野郎ォ!」
魯智深が飛び跳ねて、右の金剛の脚も二度、三度と殴りつけると──またも「轟!」という音とともに、像が台座から前のめりに倒れた。
これには寺内もいよいよ大騒ぎ。
僧たちが方丈に駆け込み、一斉に訴える。
僧たち:「亭子を倒し、金剛を打ち倒しました!どうなさるおつもりですか!」
智真長老:「……天子ですら、酔漢は避けるという。まして、老僧が争ってどうする。金剛が壊れたなら、趙檀越に頼んで造り直せばよい。亭子も同じだ。今は、嵐が過ぎるのを待て。」
ところが、これまで冷遇された恨みが積み重なり、魯智深の嵐が一向に止まらない。またも「轟!」という音が山全体に響き渡る。門が壊されたのだ。魯智深が門を押し開けて転がるように中へ入り、その足で僧堂の選仏場へ突撃する。
禅和子たちは座禅の最中であったが、騒然とする。
魯智深:「……よう、皆の衆。」
そう言って、魯智深が懐から豚足を取り出す。
魯智深:「おい、上座。肉の味を思い出せよ。ほら、食え!」
上座の禅和子が、必死で袖を顔に押し付けて抵抗する。
魯智深:「何を嫌がってやがる。じゃあ、お前だ。」
今度は下座の禅和子に豚足を食わせようとする。魯智深が逃げようとする禅和子の耳を掴んで、豚足を口に押し付けた。
禅和子たち:「善哉!善哉!」
数人が止めにかかると、魯智深は豚足を放り出し、拳をふるい始めた。言うまでもなく、禅堂は瞬く間に阿鼻叫喚の場となり、僧たちは大切な衣鉢(いはつ、師僧から譲り受ける衣と食器)が壊されないよう必死に抱いて、散り散りに逃げ出した。
この出来事、私が聞くところによると「巻堂大散」と呼ばれているようだ。つまり、「総崩れ」である。
監寺と都寺は、今度ばかりは黙っていられない。
老郎、火工、直庁、轎夫らを総動員し、手拭いで頭を巻き、杖や叉や棍棒を手に、百人二百人の“魯智深・討伐隊”を組んだ。
魯智深は法堂の供卓をひっくり返し、その脚を二本むしり取ると、それを“棍”として突撃した。
その様子たるや——
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心头火起,口角雷鸣。
奋八九尺猛兽身躯,吐三千丈凌云志气。
按不住杀人怪胆,圆睁起卷海双睛。
直截横冲,似中箭投崖虎豹;前奔后涌,如着枪跳涧豺狼。
直饶揭帝也难当,便是金刚须拱手。
胸の奥で火が噴き上がり、
口元からは雷のような唸り声が響く。
八、九尺はあろうかという獣のような体躯が奮い立ち、
雲をも突き抜ける三千丈の壮志を吐き放つ。
押しとどめようとしても止められぬ、
人殺しすらいとわぬほどの怪しい胆力。
その両の目は、海を巻き込むように大きく見開かれている。
一直線に突進し、横からもぶつかって来るさまは、
まるで矢に当たって崖から飛び込む虎や豹のごとし。
前へ後ろへと勢いがあふれ続ける様は、
槍で突かれた豺狼(やまいぬ)が谷を跳ねるようだ。
たとえ天子(てんし)であっても止められず、
金剛(こんごう/仏の守護神)でさえも、
思わず手を差し出して降参するほどである。
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こうして、魯智深は棍棒を巻き込むように振り回し、僧たちを次々となぎ倒す。怪我人は十人、二十人にとどまらない。
そこへ、ようやく智真長老が姿を見せた。
智真長老:「智深、いい加減に無礼はやめよ!諸僧も、手を引け!」
僧たちは、長老の声に従って散り、智深は二本の足を投げ捨て、長老の前に近づく。
魯智深:「長老!洒家の味方をしてくれ!あいつらがいつも酒家を馬鹿にして除け者にするものだから、ずっと腹が立っていたのだ!やつらには慈悲のかけらもねえ!」
この時、魯智深はすでに七、八割まで酔いから醒めていた。
智真長老の顔はいよいよ険しい。
智真長老:「智深……お前は、わしを殺す気か。前回の酒乱もひどかったが、今回はさらにひどい。亭子を倒し、金剛を打ち砕き、禅堂を崩壊させた。この五台山は、文殊菩薩の道場。千百年の清浄の場である。わしはお前に何か得たいのしれぬ悟りの気配を感じる……だが、これだけのことをしでかしたお前のような粗暴な男を、いつまでも置いておくことはできぬ。とは言え、お前のいうことも一理ある。ここの者たちに慢心があることは事実。わしがお前に十分な導きを与えてやれなかったのも本当だろう。そのことも含めて、お前の行くべき先を、わしが考える。しばらく方丈で過ごし、頭を冷やせ。」
僧たちは怪我人を運び出し、わずかな秩序を取り戻す。
その夜、智深は方丈で眠り、翌朝、事態の処理が始まった。
智真長老と首座、職事僧たちが話し合う。いや、しかし話し合うまでもなかった。結論はひとつだった。
「この山門には置いておけぬ。」
長老は、まず趙員外に手紙を書かせ、二人の直庁を七宝村へ走らせた。趙員外は、書状を読んで苦笑した。
趙員外:「堤轄どのは凡庸の人とは違う。かの僧たちよりずっと高みにいるゆえ、馬が合わなかったのであろう。」
趙員外はそうつぶやくと、金剛や亭子の修繕費を支払うこと、また魯智深の身の振り方について長老のお考えのままとすること、その双方をすぐに書いた。
返書を受け取ると、智真長老は、ついに決断を下した。
彼は皂布(そうふ:くすんだ黒布)の直裰(じきだつ:ゆったりとした長衣)と僧鞋、白銀十両を用意し、自分の方丈に魯智深を呼び入れる。
智真長老:「智深。初めて酒を飲み、門を破り、僧を打ったとき、わしは“誤ち”だと言った。二度目の今、亭子を倒し、金剛を打ち落とし、禅堂を巻き込んだ。ここに至るまでにどのような事情があろうとも、その行為自体には弁解の余地はない。特に、わしは趙檀越の顔を立てて、お前に出家を許し、頭に手を置いて受記し、五戒を授けたではないか。その一つ目が、酒を断つことであった。それをお前はあっさりと破ったのだ。五台山は清浄の地。ここにお前を置けば、山門が汚れる。もはや、ここにお前の居場所はない。」
魯智深は、黙って頭を垂れた。
魯智深:「ならば、酒家はどこへ行けばいい。」
智真長老:「わしがお前の行き先を用意する。ここに一通の書がある。これを持って、ある場所へ行け。そこが、お前の次の“道場”だ。」
魯智深:「どこへ?」
このあと、智真長老は静かに魯智深に向けて、四句の偈(げ:仏の教えを宿す詩)を授けることになる。
この内容については次回の段で触れるものとしよう。
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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した
結論から言うと、ぼくたちのリメイクは「原作の骨格を保ったまま、“人間の温度”と“社会のイヤさ”を増幅して、魯智深の暴れがただのギャグじゃなく“必然の爆発”に変わってる」。うん、寺は大変だけど、物語はかなり整合性が高まっているかもしれない。
◈ いちばん大きい改造点:魯智深が“ただの乱暴者”じゃなくした
原作は、魯智深が豪快に破戒して暴れ、僧たちは「だから言っただろ」の流れになりがち。もちろん面白いけど、読者の脳内では「酒乱の怪物が寺を壊した」で完結しやすい。
リメイク版はそこを一段深くした。魯智深が孤立していく過程を、ちゃんと“時間”で積む(四、五ヶ月→初冬→春)。僧側の慢心・排除・陰湿さを明確に描いて、「原因は魯智深だけか?」と問いを立てる。
だから彼の暴れっぷりが「ギャグイベント」じゃなくて、社会的な圧迫の末の爆発に見える。
これ、読者が魯智深を「好きな怪物」じゃなくて「好きな人間」として抱えられるようになる改造だね。
◈ 出家儀式の場面:原作の名物を残しつつ“知性の光”を足す
原作の名場面(玉蕊金芽の茶、作法を知らない、法名「智深」、五戒で「洒家、覚えたぞ」)はちゃんと残してある。
そのうえでリメイク版は、僧たちの反発を「凶暴そうだから嫌」だけじゃなく、「共同体の排他性」として描く。
智真長老の判断が「檀越の顔を立てた護短」にも見える、という“首座の政治的内心”を入れて、読者に二重の読みを渡してる。
これ、世界が立体になるやつ。登場人物が「役割」じゃなくて「利害」で動き始める。
◈ 酒・肉・暴れ:コメディを殺さず、残酷さと痛みを増やす
リメイク版、やってることは原作と同じなのに、読後感が違うと思う。
「善哉/鱓仔」「苦也」の噛み合わなさは、原作の滑稽味を継承。
その一方で、嫌がらせ・冷遇・陰口を積み上げるから、魯智深の乱行が“復讐”ではなく“崩壊”に見える。
酒売りへの股間蹴りみたいな乱暴も、ただの豪快ギャグじゃなく「歯止めの壊れた人」の恐さが出る。
そして極めつきが、豚足を僧に押し付けるシーン。
原作は「狗肉(犬の肉)」でやるけど、リメイク版の豚足は「俗」の象徴として扱いやすくて、読者の感覚にも馴染む。
◈ 智真長老の描き:聖人じゃなく“管理者”にする
原作の長老は「天子すら酔漢を避ける」と言って回避し、最後は発遣を決める。リメイク版も同じ結論だけど、そこへ行くまでの言葉が変わってる。
「僧側にも慢心がある」「導けなかったのは自分の責もある」
この自己批判を入れたことで、長老が“超越した聖人”じゃなく、共同体を背負う責任者として立つ。
結果として、魯智深の追放が「ざまあみろ」じゃなくて、「悲しい必要」になる。ここ、作品の格が上がってる。
◈ まとめ
事件の因果が太くなった(偶然→判断と圧力の連鎖)。
共同体の陰湿さが入り、魯智深の暴れが“社会ドラマ”になる。
原作の名物(儀式・台詞・詩文・大暴れ)は残しつつ、心理のレンズを追加した。
だから読者は「寺を壊した豪傑」を見るんじゃなくて、「寺に壊された豪傑」という人間性を見られるんじゃないかな。

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