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2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。

自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。

そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。

本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。


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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第三回



"史大郎、夜に華陰県を出奔/魯提轄、関西の町で悪漢を殴り倒す"



 私、呉用(ご・よう/Wú Yǒng)は、この夜の火の色をこの目で見たわけではない。だが、あとから文書を洗い、証言をつなぎ合わせていくと──炎の揺らぎまで、まるで目前の出来事のように蘇ってくる。

 ここから先は、のちに「九紋竜(きゅうもんりゅう)・史進(し・しん/Shǐ Jìn)」と「花和尚(はなおしょう)・魯智深(ろ・ちしん/Lǔ Zhìshēn)」と呼ばれる二人の男が、ゆっくりと“魔星の軌道”へ足を踏み入れてゆく、その最初の一幕である。

 少華山(しょうかさん/Shǎohuàshān)のふもと、史家村(し・けそん/Shǐjiā cūn)。その夜半。鼓楼の根元には、華陰県(かいんけん/Huáyīn xiàn)の県尉(けんい/県の武官長)と二人の都頭(ととう/dūtóu:県の武官)、それに土兵がびっしり取り巻き、史家の庄院を包囲していた。

 きっかけは、一通の手紙である。

 城下の猟師・李吉(り・きつ/Lǐ Jí)が、酒に酔って林に倒れていた庄客・王四(おう・し/Wáng Sì)の懐から、密書を拾った。その文面には──少華山の山寨頭目、神機軍師・朱武(しゅ・ぶ/Zhū Wǔ)、跳涧虎・陳達(ちん・たつ/Chén Dá)、白花蛇・楊春(よう・しゅん/Yáng Chūn)との“親密なやり取り”が、見事に証拠として残されていた。

 この世の中、頭が腐ればおのずと尻尾も腐るもの。高官の不正と同じく、李吉のような小人物も、利に転べば平然と恩を切り捨てる。

 史進から丁重に扱われてきたにもかかわらず、彼は、主と村のための密探行為を“裏切り”という形で利用したのだった。

 史進は、三人に向かって「そこにいろ」と言った。

 三人は互いに目を見交わし、すでに覚悟を決めていた。三人そろって膝をつき——静かに、しかし鋭く言う。


朱武:「兄者まで巻き添えにするわけにはいきません。」

陳達:「そうだ。大郎、縄をくれ。我ら三人を縛って差し出し、潔白を示せばよい。ここは誰かが“身代わりになる”ことでしか終わらん。」

楊春:「うむ。それあれば、あなたの名分が立つ。」


 史進は首を横に振った。その目は火のように澄んでいた。


史進:「馬鹿を言え。それでは俺が“お前たちを呼び寄せて売った男”になる。お前たちは、官の腐敗に押し出されただけの者だ。その上、ここまで義を通して俺の前に膝をつき、死を辞さぬ覚悟を示した。それを無視して、お前たちに縄を掛けろだと?そんな真似をしたら、俺は江湖の笑いもの……いや、それ以前に、自分が許せん。死ぬなら一緒に死ぬ。

生きるなら一緒に生きる。……とにかく、まずは事情を確かめる。」


 梯子に上り、史進は外をのぞく。松明がゆらめき、そこには都頭二人と李吉がいた。


史進:「都頭殿。真夜中に兵を率いて我が庄を囲むとは、どういうご用件か。」


都頭の一人が鼻で笑う。


都頭:「しらばっくれるな、史大郎!証人も証拠も揃っている。——来い、李吉!」


 李吉が自信満々に前へ出た。


李吉:「諦めろ、大郎!林で拾った手紙を読んだら、少華山の三頭領とあんたの文通が丸見えだったぜ!俺は大郎に恨みはねえ。むしろ恩もある。だがな、“読んでしまった以上”黙ってはいられねえ。これが義ってもんだろ?」


 史進が振り返り、王四を呼びつける。


史進:「おい王四。昨夜、『返書は来ていない』と言ったな。どういうことだ?」


 王四は膝を砕き、土間に額をこすりつけた。


王四:「そ、それが……酔っておりまして……返書のことを……」


 史進の声が、低く刻まれる。


史進:「……困ったことをしてくれたな。」


 外の兵は、史進の腕前を知るがゆえに門を破れない。

 頭領三人は背後で固く身構えている。

 そこで朱武が微かに声を落として囁く。覚悟を決めつつも、状況の全体像を瞬時に把握した“神機軍師”の声である。


朱武:「兄者。そうとなれば、今は二つに一つ。庄を捨てて生を拾うか、生を捨てて庄を守るか。兄者が我らと共に命を拾ってくださるなら——策があります。」


史進:「……聞こう。」

朱武:「まず、“外”を安心させるのです。大郎、あそこから声を。自首を申し出る振りをしてください。」


 史進はうなずき、松明の光に照らされながら叫ぶ。


史進:「都頭殿、兵を動かすな!——これより我ら四人、自ら縄にかかって出頭する!」


 都頭たちは顔を見合わせた。

 荒くれ者の史進が素直に縄につくわけがない……だが、無理に突撃すれば部下が死ぬのも明らかだ。

 “待つ”ほかない。

 史進は降りて、朱武から次の指示を受ける。

 そして、史進は静かに王四を呼びつけ、後園へ。抜き放つ雁翎刀の音が、夜の空気を裂く一閃となる。首元に突きつけられた刀。王四、言葉もなくがくがくと震えながら地面にへたり込む。


史進:「ここで切り捨てようかとも思ったが、お前を生かすことにする。これより俺は庄を捨てる。官に追われる身となるゆえ、残された者たちの世話をしてやることができん。お前がやつらの世話をしてやれ。外に預けてある幾らかの財はお前に託す。ある日、俺がここにふらりと戻ってきて、もしお前がこの俺の言葉をしっかり果たしていなければ……その時は間違いなく、お前の首と体を切り離す。」


 王西は涙を流して平伏し、「その通りにします!」と言う。

 これが終わると、史進が大声で命じる。


史進「庄客ども!貴重なものはすべて包め!細工物、銀子、衣類──持てるだけ持ったら、ここに火をつけるぞ!急げ!」


 やがて三、四十本の松明が一斉に灯り、藁葺きの草屋に放たれる。

 炎は瞬く間に屋根から屋根へ燃え移り、史家の庄は、赤い地獄へと変わった。

 朱武・楊春・陳達、そして史進。四人は全身武装し、それぞれ腰に刀を差し、手に朴刀を握る。

 背後では庄客たちが荷を背負い、恐怖と興奮の入り混じった顔で炎に照らされている。

 やがて、庄内の火勢は、土塀を越えて外からもはっきり見えるほどに高くなった。外の土兵たちが、思わず裏手へ回って火の様子を見に走り回る。

 その一瞬の“空白”を見極めて、朱武が叫ぶ。


朱武:「──今です!開門!」


 門が外に向かって叩き開かれ、史進が吼える。


史進:「行くぞッ!」


 先頭に史進、その背に朱武・楊春、殿に陳達。

 庄客、小喬羅(こじょうら/子分)たちを率い、四方八方へ切り込みながら突撃する。

 炎は背中を押すように唸り、闇の中で刀と矛が火花を散らす。

 土兵たちは、押し寄せる“化け物じみた突撃”に腰を抜かし、あちこちで武器を捨てて逃げ出した。

 塵煙の中、史進は見つけた。

 李吉と、逃げ腰の都頭二人が、混乱の端で振り返っているのを。


「仇人相见,分外眼明(仇敵と目が合えば、目は獣になる)」


 これは後世の人間が書き記した言葉だが、まさにこの夜の史進にふさわしいもの。


李吉:「ひっ──」


 彼が回れ右をするより早く、史進の朴刀が振り下ろされた。

 一刀両断。

 李吉の身体は、二つに裂け、土の上に転がる。

 都頭二人はそれを見て、馬の腹を蹴って逃げようとしたが──その前に、陳達と楊春が躍り出る。


陳達:「どこへ行く!」


 朴刀が唸り、血が噴き上がる。

 二人の都頭もまた、その場で絶命した。

 後方でこれらの一部始終をぼうぜんと目にしていた県尉がやっと我に返り、蒼白な顔で馬を返して、戦場を離脱する。

 土兵たちは蜘蛛の子のように散り、もはや追ってくる者はない。

 炎上する史家庄を背に、史進たちも夜の山道へと消えていった。

 向かう先は──少華山の山寨。

 朱武が、息を吐きながら言う。


朱武:「これで我々は、いよいよ、押しも押されもせぬ“官に追われる身”となったわけですね。」


 史進は、燃える庄を振り返らなかった。

 数日後——少華山の山寨で、史進がふいに口を開く。


史進:「……俺の師匠、王教頭(おう・きょうとう/Wáng Jìn)は、関西の経略府(けいりゃくふ:辺境軍政機関)にいるはずだ。本当なら、父が死ぬ前に訪ねるはずだった。──今、庄も家財も灰だ。ここにいる理由は、もう無い。」


 朱武が首を振る。


朱武:「兄者、焦ることはない。しばらくここで腰を落ち着け、時勢が静まってから、庄を立て直せばいい。噂によれば、今度の騒動の原因を作った王西のやつ、兄者の言う通りに真面目に再建に向けて精を出している様子。あとで我らも力を尽くせば、また立派な史家村を起こせましょう。」


 史進は、きっぱりとかぶりを振った。


史進:「ありがたいが、もともと俺の心は別にあった。お前たちのような者に会って、その心がいよいよ強くなった。この国はすべてが歪んでいる。これを正すべきときが来ているのだ。俺は師のもとへ行き、出世の道を探す。半生でも良い。官道の中に入り、そこで自分なりに歪みを正していきたい。お前たちのような者が二度と出ないような世を作らねばならん。」


 朱武は、最後の切り札を出す。


朱武:「それであれば、兄者、ここで“寨主(さいしゅ)”になられたらどうですか。我らは賊ではあるが、人としての筋は通している。一方、役人たちは綺麗な衣を来ているが、中身は動物のようなもの。私はあまり学には詳しくありませんが、大聖(孔子)も暗君に仕えることをよしとせず、自らの道を進んだではありませんか。この狭い山でも、やがては世を正すことはできるはず。兄者が名実ともに“一山の王”になれば、ここに道が生まれるはず。」


 史進は、その提案に苦笑した。


史進:「いや、俺は、清白な生まれだ。父母から受けた身体を、盗賊の名で汚す気はない。そもそも、俺に頭領の器はない。そこまで高く買ってくれるのはありがたいが、指揮の力はどう考えてもお前の方が上。そして、朱武、陳達、楊春——お前たち三人の関係はとても素晴らしい。『冷静で戦略的、しかし義を曲げぬ男』、『直情型、誤解されやすいが誠実な武人』、『言葉が少ないぶん重い、無口な実務的』……そこに俺が加わると、うまくいっているものが揺らいでしまう。だから、ここで落草(盗賊になること)は、いくら言われても応じられん。」


 結局、誰も彼の決意を変えられなかった。

 翌日——史進は身軽な包みにだけ、少しの金と衣類を詰めた。

 頭には白い范陽毡(はんようせん)の大帽子、赤い房飾り。下には青いソフトな頭巾、首には黄色の紐。身には白絹の戦袍、腰には梅紅の帯。脚には行縢(むかばき)、足には山を踏み抜く麻靴。脇には雁翎刀、肩に朴刀、背には小さな包み。

 “九紋竜”は、これで山を降りた。

 朱武たち三人と、小喬羅たちが山の下まで見送りに来る。

 別れ際、涙を隠そうともしない。


朱武:「兄者、もし世の流れが変わり、再び山に戻りたいと思う日が来たら──この少華山は、いつでも兄者の山だ。」


 史進はうなずき、振り返らずに歩き出した。

 この時点で、すでに彼の運命は「梁山泊」に向かっているわけだが、もちろん当の本人には、まだ知る由もない。

 山道は険しく、村は寂しく、犬の吠える声と、霜のきしむ音だけが同伴者である。崎嶇たる山嶺、もの寂しい村落。夜は雲霧の中で荒林に身を横たえ、明け方は月を背に、危険な山路を登る。落日の中、行き先からは犬の吠える声。早朝には、凍える霜の上で、鶏の声を聞く……

 要は──つらくて長い道のりだった、ということだ。

 半月ほどそうして行くと、史進は渭州(いしゅう/Wèizhōu)に辿り着いた。ここにも経略府があるので、何か王進の知らせを掴めるやもしれない。


史進:(師匠は、この経略府を通ったはずだ。)


 外れた地であるが、街は意外にも賑やかで、六街三市、人が行き交っている。史進は、街角の小さな茶坊に入り、泡茶をひと椀頼んだ。


茶博士:「客官、何をお尋ねで?」

史進:「この経略府に、東京から来た王進(おう・しん/Wáng Jìn)という教頭はいないか。」


 茶博士は首を傾げる。


茶博士:「王という教頭なら三、四人おりますが……王進となると、聞きませんな。」


 その時──茶坊の戸口から、重い足音が響いてきた。

 入ってきたのは、一目で「ただ者ではない」と分かる大男だった。

 頭には細かな文様の頭巾、その後ろで太原金環(たいげんきんかん)が二つ揺れ、上には鶯色の戦袍、腰には文武両用の青い帯、足には黄色の軍靴。丸い顔、大きな耳、真っ直ぐな鼻、広い口。頬には獣のような粗い髭、身の丈は八尺、腰回りは人並みの倍──

 茶博士が小声で言う。


茶博士:「あの提轄(ていかつ/tíxiá:軍の監督官)にお聞きなさい。ここいらの教頭を皆知っております。」


 史進は礼を言って席を立つ。そして大男の前に立つと、再び礼をして言う。


史進:「官人、茶を一杯、受けていただきたい。」


 男は史進を見上げ、一瞬で“同類”だと悟ったようだ。

 口元に笑みを浮かべて応じた。


魯達:「よかろう。洒家(しゃか/おれ)は、この経略府の提轄、姓は魯(ろ/Lǔ)、諱は達(たつ/Dá)。あんたは?」

史進:「小人(しょうにん)は華州・華陰県の者。姓は史、名は進(し・しん/Shǐ Jìn)。師匠を探しているんだ。東京八十万禁軍の教頭、王進どの──ご存じないか。」


 魯達(ろ・たつ/Lǔ Dá)の目が、がばっと見開かれた。


魯達:「おいおい……! あんた、“史家村の九紋竜・史大郎(しだいろう)”じゃねえか?」

 史進は驚き、思わず席を外して深々と一礼する。


史進:「……俺の名が、こんな所にまで届いているとはな。」

魯達「ははは、好漢の噂というのは、風より早えもんだ!なるほど、あんたが九紋竜か。どうりでさっきから、立ち姿からしてただ者じゃねえと思ったわ。おう、安心しな。洒家は、義のある好漢を縄にかけるような、きたねえ真似は大っ嫌いだ。」

史進:「それを聞いて、ひとまず胸を張って名乗れる。この身、官に追われる筋はねえつもりだが、あんたのような役目の人間にそう言ってもらえるなら心強い。」

魯達:「おうよ!それで、あんたの言う男は、東京で高太尉(こう・たいい/Gāo Táiwèi)と揉めた武芸者だろう?あの男なら別道を通って延安府へ向かったと聞いた。ここの経略の小種相公が、そう洒家に教えてくれたわ。」

史進:「そうか……それが確かなら、ここに長居は無用だな。早めにあとを追うとしよう。」

魯達:「待て待て。せっかく縁あって顔を合わせたんだ。細けえ話は、酒の席でやるのが一番だ。つきあえ、史大郎。酒のうまい店を知ってる。」

こうして九紋竜と花和尚──「花和尚」といっても、このとき魯達はまだ仏門に入る前だが──とにかく、後に梁山泊きっての武闘派となる二人が、ここで初めて肩を並べることになった。

 茶坊の外へ出ると、十字路に人だかりができている。

 二人は足を止めた。


魯達:「なんだ? あの騒ぎは。」

史進:「魯兄、少し覗いて行きましょう。」


 人垣をかき分けていくと──真ん中に、一人の武芸者がいた。

 十数本の竹棒を並べ、その前に膏薬をずらりと並べている。剣を振り回し、技を披露しながら薬を売る、江湖の大道芸人だ。

 史進は、その顔を見た瞬間、思わず声を上げた。


史進:「……師匠!」


 それは、かつて史進に武芸の初歩を教えた男──打虎将(だこしょう)・李忠(り・ちゅう/Lǐ Zhōng)だった。

 李忠は目を丸くし、すぐに、どこか気まずさの混じった笑顔で応じる。


李忠:「おお、史の小僧じゃないか。……いや、もう“史大郎”と呼ばんといかんな。父親の後を継いだと聞いたぞ。こんなところで何の風の吹き回しだ。」


 魯達は嬉しそうに二人の顔を見比べ、手を打った。


魯達:「なんだ、史大郎の師匠どのか。そいつはますます話が早え。よし、なおさらきっちり付き合ってもらおうじゃねえか。三人で酒だ、酒!」


 李忠は、ちらりと竹棒と膏薬に目をやり、苦笑いを浮かべる。


李忠:「ありがたい話には違いませんが、この膏薬を売りきらんことには、今夜の飯にありつけませんでしてな……提轄どの、先に行っていてくだされ。あとから、ゆっくりと追いつきますゆえ。」


 魯達は眉をひそめると、いきなり周囲の人垣を両側に押し分けた。


魯達:「おい、お前ら。見世物は終いだ、散れ散れ!膏薬が欲しけりゃ、明日、自分の懐と相談してから買いに来い!」


 観客は、提轄・魯達の恐ろしさを知っている。ぶつぶつ言いながらも、肩をすくめて散っていった。

 李忠は、密かに舌打ちしながらも、それを顔に出さず、へらりと笑って頭を下げるしかなかった。


李忠:「……全く、相変わらず豪気なお方だ。では、せっかくです。お言葉に甘えましょうか。」


 三人は、州橋のそばにある名の知れた酒店・潘家酒楼(はん・かしゅろう)へ向かう。

 高い旗竿が風に揺れ、酒旗がきらきらとはためいている。

 二階の“済楚閣(せいそかく)”の一室に陣取ると、魯達がどかりと座って命じた。


魯達:「まず四角(よんかく:四升)の酒だ。それから、ありったけの肉を持ってこい。『何になさいますか』なんて野暮なことは聞くな。」


 史進と李忠は、向かい合わせに腰を下ろす。

 酒保(店の使用人)は“あの魯提轄”と知っているから、余計な口を挟まず、大量の酒と肉を次々に運んできた。


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风拂烟笼锦旆扬,太平时节日初长。

能添壮士英雄胆,善解佳人愁闷肠。

三尺晓垂楊柳外,一竿斜插杏花旁。

男儿未遂平生志,且乐高歌入醉乡。


風がそよぎ、霞がたなびき、

錦の旗はゆるやかに揺れている。

世は太平、昼の長さが日に日に伸びてゆく季節だ。

この風景は、壮士には勇気を添え、

佳人(美しい人)の憂いもそっとほどいてくれる。

夜明け前、三尺ばかりの垂れ柳が外にかかり、

その脇には、斜めに立てかけられた竿が杏の花のそばに見える。

男たる者、まだ人生の大望を果たしてはいない。

だが今は——高らかに歌い、酔いに身をゆだねて楽しもう。

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 そうして賑やかに杯が三巡したころ、隣の部屋から、微かな啜り泣きが聞こえて来たではないか。最初は、かすかな嗚咽。やがて、堰を切ったような、押し殺した声に変わる。

 魯達の眉が、ぴくりと動いた。


魯達:「……うるせえな!」


 皿と盃が、彼の拳で卓を叩くたびにかちゃりと跳ねる。

 慌てて酒保が駆け上がってきた。


酒保:「提轄官人、何か行き届かぬことでも……?」

魯達:「洒家は“酒と肉”だけ頼んだはずだ。“泣き声”までは頼んでねえよな。間の部屋でしくしくやっているやつは、何者だ。」


 酒保は、ひどく困った顔つきになった。


酒保:「官人、あれはこの店で“座(ざ)”につく者でして……父娘ふたり、客の前で唄をうたって銭を得る、いわば流しにございます。今は誰も頼んでおらぬゆえ、部屋で身の上を嘆いているのでしょう……」

魯達:「そうか。ならば、その父娘をここへ連れてこい。今すぐだ。」


 やがて、酒保に伴われて二人が入ってきた。

 娘は十七、八。垢抜けた美貌とは言い難いが、どこか目を離しがたい、儚い色気がある。

 乱れ雲のような髪が肩に落ち、細い腰には色あせた紅の裙、白い古衫が、雪のような肌をかすかに透かしていた。目元には涙の跡、唇は血の気を失い、全体に“長く続く不幸”の影が差している。

 父親は五十を過ぎた痩せた男で、手には拍子木を握っていた。

 娘は袖で涙を拭い、丁寧に三度、礼をする。


翠蓮:「官人さま方、お騒がせしてしまい、誠に……」


 魯達が、低く、しかしはっきりと問う。


魯達:「なぜ、そこでしくしく泣いていやがる。」


 娘は、父の顔を一瞥し、震える声で語り始めた。


翠蓮:「……奴(わらわ)は、もとは東京の生まれにございます。父母とともに渭州にまいり、親類を頼るつもりでございましたが、その者はすでに南京へ移っており……母は旅先の客店で病に倒れ、そのまま息絶えました……父と奴の二人だけが、この地に取り残されました。それでこの話が伝わると、この地の財主──“鎮関西(ちん・かんせい)・鄭大官人(てい・だいかんじん/Zhèng Tú)”が奴を見て、強引に妾にすると言い出したのです。奴の身体を三千貫の『典身契約』で買い取ると、文書を交わさせ……実際には一文も渡されず、身柄だけを押さえられました。ところが、三月もたたぬうちに、正妻である大娘子が奴を憎み、打ち据え、家から叩き出しました。それでいて、最初の三千貫は“貸し”だと言い張り、今も取り立ててまいります……もう、どうしたら良いのか……」


 娘の父──金老(きん・ろう/Jīn Lǎo)が、しぼり出すように言葉を継ぐ。


金老:「わしらは、金など受け取っちゃおらん。だが、客店の主人に“身元と借財の見張り”を命じ、日々の稼ぎから返せと迫るのです。娘はこうして酒楼で唄い、小銭を得ては、そのほとんどを奴に渡しております。ここ数日は客足もまばらで、期限どおりにはとても……しかし、またあの男が来て、娘が辱めを受けるかと思うと、もうわしは心がちぎれるようです……」


 静かに語る声の裏で、娘の肩は細かく震えていた。


翠蓮:「官人さま。この身はもう、とうに汚れております。ただ、父だけは……故郷に帰してやりとうございます。その望みさえ叶わぬと思うと、つい……涙が止まらなくなってしまいます……」


 ──ここで、魯達の中で何かが、ぱちんと音を立てて切り替わった。

 あとからこの場面を読み返すたびに、私は、彼の胸の内で燃え上がる“無分別な正義感”の熱さを、じかに触るような感覚で覚えずにはいられない。


魯達:「おい……名は。」

金老:「老漢は金(きん/Jīn)と申します。二番目の子ゆえ、“金二郎”と呼ばれております。娘は翠蓮(すいれん/Cuìlián)。“鎮関西の鄭大官人”と申すは、この城の状元橋(じょうげんきょう)近くで肉屋を営む、鄭屠(てい・と/Zhèng Tú)にございます。」


 魯達は、にやりと笑い──次の瞬間、獲物を見据えた獣のように歯を剥いた。


魯達:「ふん……“鎮関西”ね。てっきりどこぞの大官かと思えば、ただの豚殺しじゃねえか。」


 史進と李忠は、顔を見合わせ、すぐに察した。

 これは、まずい方向に火がついた。


魯達:「聞いたな、史大郎。李忠。お前ら二人はここにいろ。洒家が、あの豚殺しに、ちっとばかし『道理』というものを教えてきてやる。」

史進:「魯兄、待ってください。今は酒席のさなか。明日にして、筋道を立ててからでも遅くはない。一応は相手にも事情を聞くべきだ。」

李忠:「そうです、そうです。ここで騒ぎを起こされちゃ、提轄殿のご身分が危うくなります……!」


 史進も義に厚い男であるが、すぐに熱くなることはない。この男は歳若くとも、生まれと育ちは極めてまっとうゆえ、状況を見極めようとする冷静さがある。少なくともこの場面、金老の震えた声と翠蓮の涙だけで、一方的に物事を判断するのは適切ではない。

 一方の李忠は、「とばっちりはご免こうむりたい」という気持ちが強かった。李忠は人助けをしたいという思いはあれど、危険は背負いたくないという人物。義を否定しないが、まずは自分の生存と立場を優先する。善人か?と言われれば、たぶんそれなりに善人。卑怯者か?と言われれば、そんな面も確かにある。ただ、その“決めきれなさ”はとても人間らしい。

 こうして二人はどうにか魯達の肩を押さえ、その場の飛び出しは一歩手前で踏みとどまらせた。

 しかし──これで収まる男ではない。

 魯達は、金老父娘を振り返る。


魯達:「……老金。」

金老:「は、はい。」

魯達:「十五両をすぐに用意してやる。これで車を雇い、荷をまとめて、東京へ戻れ。店の主人だの借金だのは気にするな。あいつらとの話は、全部、洒家が引き受ける。」


 そう言って、魯達は懐を探る。五両しかない。彼は史進から十両を借り、さらに李忠からも二両をしぼり取って──きっちり十五両を揃え、金老の前にどんと置いた。


金老:「こ、これほどのお金を……!官人、あなた様は我らにとって、まさしく再びの父母、二度目の命にございます!」


 魯達は、照れ隠しのように手を振った。


魯達:「泣くのはもうやめろ。今夜のうちに荷をまとめ、車を用意しておけ。明日の早朝、洒家があの肉屋に出向く。そのとき、お前たちはいつでも街道へ出られるようにしておけ。」


 金老と翠蓮は、泣きながら何度も礼をして酒楼を後にした。

 魯達は、酒を一杯あおり、ぽつりと呟いた。


魯達:「……さて。“鎮関西”を、どう料理してやるかな。」


 翌朝——まだ薄暗いころ。

 金老父娘は、すでに荷をまとめ、宿代も払い終え、城外に車を待たせていた。そこに客店の小二が駆け込んで来た。


小二:「金公、どこへ行く。“鎮関西”の三千貫がまだ残っているぞ。まさか、このまま逃げるというわけではあるまいな?そんなことをしたら、お前たちがどうなると思うんだ?」


 その時、店の入口から魯達が踏み込んできた。


魯達:「おう、まだいたか。お前、この老父娘を放さぬつもりか。」


 小二が何か言い訳をしようとした瞬間、魯達の掌が、横殴りに飛んだ。一撃で口の中は血まみれ、門歯が二本飛び、二撃目の拳で、小二は床に崩れ落ちた。


魯達:「ははは!これで“金公を行かせぬ”と言った舌は、もう使えまい。金公、行け。気にすることはない。」


 金老父娘は、震えながらも深々と頭を下げ、城を後にした。

 この時、魯達その頭にふと、昨夜酒を交わした史進と李忠の顔が浮かぶ。あの二人の武芸者を引き連れていけば、相手もすんなり言うことを聞くかもしれないが……いや、昨日の様子からすると、あの両人はこの話にあまり乗り気ではなかったではないか?


魯達:迷惑をかけてもならん。俺が解決してやるのだ。それにしても何が“鎮関西”だ?あの豚切り風情が「関西を鎮めた」だと?よくもまぁ、そんな大それたあだ名を付けやがる。忌々しいやつめ。


 そうつぶやくと、魯達はひとりで状元橋へと向かう。

 ──ここから先は、すべて“致命的な正義の所作”だ。私があとから伝聞や記録を辿っても、ひとつとして引き返す余地が見当たらない。

 肉屋・鎮関西の店先には、二つの肉案が並び、豚肉が三、五片吊るされていた。鎮関西——すなわち鄭屠(てい・と/Zhèng Tú)は、いつものように帳台に座っていたが、魯達を見るなり慌てて出てきた。


鄭屠:「おお、提轄どの、これはこれは……何か御用ですか?」

魯達:「経略相公(けいりゃくしょうこう:辺境軍政長官)の命だ。“精肉十斤、脂身一切なし。細かく刻んで臊子(あえ肉)にせよ”──そういうことだ。」


 鄭屠は副手に任せようとしたが、魯達は眉間に皺を寄せた。


魯達:「そやつの腌(あく)のついた手で触るな。お前が切れ。」


 鄭屠は渋々、肉を選び、細かく刻み始める。

 十斤もの精肉を刻むのに、ほぼ半時(はんとき)が過ぎた。


鄭屠:「お待たせしました。これを──」

魯達:「待て。今度は脂身だけ、十斤。“精肉一切なし”だ。これも臊子だ。」


 鄭屠は、思わず笑った。


鄭屠:「精肉の臊子は、餃子か馄饨(フントゥン)に使うとして……脂の臊子は何にお使いで?」

魯達:「相公の命だ……おい、誰が質問を許した?」


 鄭屠は笑いを引っ込め、黙って脂身を刻み始める。

 これでさらに半時。

 店の前は、魯達の“圧”に邪魔され、客も寄りつかない。

 店の者も、近づこうとしない。

 脂身の臊子も包み終えたところで──魯達が言った。


魯達:「最後に、寸金のように柔らかな軟骨を十斤、全部刻んで臊子だ。肉は混ぜるな。」

鄭屠:「……提轄殿、それはさすがに遊ばれておりますな?」


 その言葉を聞いた瞬間、魯達の目が光る。


魯達:「そうだ。洒家はお前を遊んでいる。ここまではな。そろそろ、遊びは終いにしようか。」


 彼は両手に二包みの臊子をつかみ、勢いよく振り上げると、鄭屠の顔めがけてぶちまけた。

 脂と血と刻んだ肉が、雨のように鄭屠に降りかかる。


鄭屠:「貴様──!」


 怒りが、鄭屠の足の裏から頭頂まで一気に突き上がる。彼は肉案から人剣(骨抜き用の尖った剣)をつかみ、飛び降りてきた。

 だが、魯達はすでに構えている。鄭屠の左手が掴みかかろうと伸びた瞬間、魯達はその腕を逆手に押さえ込み、そのまま腹に重い蹴りを一発——「どすん」という音とともに、鄭屠はぶっ飛んで、道の真ん中に仰向けに倒れた。

 魯達は胸の上に片足を乗せ、拳を握りしめながら静かに言う。


魯達:「俺は、老種経略相公に仕え、関西五路の廉訪使(れんぽうし:監察官)まで務めた男だ。この経歴であれば、“鎮関西”と呼ばれるのも、まあ無理はないだろうな。ところが、お前は何だ。豚の腹を裂く屠夫の分際で、“鎮関西”を名乗るとはどこまで太々しい男だ。お前、金翠蓮(きん・すいれん/Jīn Cuìlián)をどう扱ったか、覚えているな?罪には罰が必要だ。世には義というものがなけりゃならん。」


 そして、一撃!魯達の拳が鄭屠の鼻梁にめり込み、血と鼻の骨が弾け飛ぶ。次に、二撃!眉のあたり。眼窩が裂け、黒と赤が入り交じったものが溢れ出る。最後に、三撃目!こめかみ。「全堂水陸の鐘・磬が一度に鳴ったようだった」と記録にある。

 これらが終わったとき。鄭屠の口からは、息が「出る」ばかりで、「入る」ことはなかった。

 魯達は、清々としながら言う。


魯達:「ほう、“死んだふり”か。まだ殴ってほしいと見える。」


 だが、顔色はすでに死人のそれだった。

 つまり──彼はたった三拳で、本当に人を殺してしまったのである。


魯達:(おや……これはしまったことをした。ただ“こらしめる”つもりだったが……)」


 彼は、踵を返し、大股で立ち去りながら、なおも振り返って怒鳴った。


魯達:「死んだふりを続けていろ。そのうち、ゆっくり相手をしてやる。」


 誰も、彼の行く手を遮らない。店の者も、近所の者も、震え上がって見ているだけだった。

 その足で自分の下宿に戻ると、魯達は慌ただしく身の回りの物をまとめ、金になりそうなものだけを包みに詰めた。そして次の瞬間、彼は短棒一本を手に、渭州の南門から外へ飛び出したのである。

 この一歩が、「花和尚・魯智深(ろ・ちしん)」への道であり、同時に“官の保護”という最後の綱を、自ら断ち切る一歩でもあった。

 さて、鄭屠の死体が冷たくなったころ——

 渭州の府尹(ふいん/県・州の長官)は、州衙(しゅうが)で訴状を受け取っていた。


「魯達なる者、理由なき殺人を決行──」


 魯達は経略府の提轄である。これはある程度の責任を持つ地方の吏。治安を守るべき立場の者が人を殺めたとなれば、これは一大事。

 府尹は、一刻も早く経略相公に報告しなければならなかった。

 老種経略相公は、もともと魯達を父の代から知っており、彼の武勇も性格も、重々理解していた。理由があるにはあるのだろう。しかし、それは殺人の行為を丸ごと打ち消すには値しない。


経略相公:「法は法だ。人を打ち殺した以上、捕えて取り調べねばならぬ。情状の酌量があるかどうかは、それから考えよう。」


 こうして手続きは正式に進み、捕吏たちが魯達の下宿へ押し入る。

だが、そこにいたのは震える宿の主人だけ。布団と旧い衣類が残されているのみで、魯達の姿はどこにもなかった。


「惧罪在逃(罪を恐れて逃亡)」


 これが公式の文書に記された言葉となる。

 宿の主人と、隣家の二軒は“見張り不行き届き”の罪で連行され、検死と記録、棺の手配が済むと、死体は寺に移された。

 やがて、“海捕急遞(かいほきゅうてい)”──広域指名手配の文が、各地へ飛ぶ。


「渭州の経略府提辖・魯達。

 年齢・風貌・出身地はこれこれ。

 もし匿った者あれば、同罪。

 捕えた者には、賞金千貫。」


 こうして、ひとりの男は、一夜にして“官軍の武官”から“千貫の首”に変わった。

 魯達は、それを詳しくは知らぬまま、しかし大事になっていることを感じつつ、東へ、西へ、慌ただしく逃げ続ける。


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失群的孤雁,趁月明独自贴天飞;漏网的活鱼,乘水势翻身冲浪跃。

不分远近,岂顾高低。心忙撞倒路行人,脚快有如临阵马。


群れを失った雁は、月明かりの中をひとり飛ぶ。

網をくぐった魚は、波の隙間を探して跳ねる。

腹が減れば食を選ばず、寒ければ衣を選ばず、

慌てれば道を選ばず、貧すれば妻を選ばず──

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 そんな諺があるが、まさにその通りであった。

 彼は、道を選ばなかった。

 気づけば、代州(たいしゅう/Dàizhōu)の雁門県(がんもんけん/Yànmén xiàn)に足を踏み入れていた。

 ここは城内は驚くほど賑やかで、州府に劣らぬ活気がある。百二十行の店々が並び、商人たちが行き交っている。

 魯達は、ふと人だかりができている十字路に目をとめる。人々が、掲げられた一枚の掲示を、肩を寄せ合って覗き込んでいる。

 魯達には学がなく、文字が読めない。それでも、どこか嫌な予感がしたらしい。彼は人波の中に入り込み、誰かが読み上げている文を耳で追った。


「代州雁門県、太原府指揮使司の命により、

 渭州からの文書を奉じて──

 “鄭屠を打ち殺した犯人・魯達。

 もし匿う者があれば、同罪。

 届け出た者には賞金千貫”──」


 そこまで聞いた瞬間だった。

 魯達は背後から、がっしと腰を抱えられる。


男の声:「おいおい、張(ちょう)兄貴!こんなところで何をしているのだ!」


 突然男はそう言って、魯達を人垣から引きはがし、半ば強引に横道へ引きずり込んだ。

 ──この男との出会いが、魯達を「花和尚・魯智深」へと変えていく。ここもまた、魔星の導きが運命の軌道を整えた瞬間だ。

 禅杖は、これから“危険な道”を開き、戒刀は、“不義の首”を次々と斬ることになる。だが、その物語は、また次の巻で語ろう。

 ここではただ──九紋竜と花和尚、二人の星が、これで完全に“凡俗の軌道”から外れてしまったことだけを記しておく。


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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した


全体像から言うね。

原作・第三回は、「史進が追い出される → 魯達が義憤で人を殺す」

という、いわば 好漢二人の転落開始 を、勢いと武勇で描く回。

それに対して、今回のリメイクはこうなっている。

「二人は転落したのではなく、“自分で引き金を引いた”」

この一点が、全体の読み味をまるごと変えている。


◈ 史進パート:

「火を放った理由」が、感情ではなく“倫理判断”になった。

原作の史進は、


・情に厚い

・義理を守る

・だから燃やして逃げる


と、非常に水滸伝らしい“好漢ムーブ”をする。

リメイクではそこを一段深く掘った。


・王四を殺さない

・しかし責任を背負わせる

・庄を燃やすのは、怒りではなく「これ以上、嘘の名分を残さないため」


つまり史進は、「自分が“正義の側にいた”という幻想を、自分で焼き捨てた」んだよね。これ、かなり現代的。

善人であり続けるために、あえて“綺麗な逃げ道”を壊す判断。

原作よりもずっと、後戻りできない一線を自覚的に越えている。


◈ 少華山での別れ:

「落草を拒む理由」が、身分論ではなく“器の自己認識”になった。

原作の史進は、「俺は清白な人間だ、盗賊にはなれぬ」と、身分的・道徳的理由で寨主を断る。

リメイクの史進は違う。


・自分には統率の器がない

・三人の関係性が、すでに完成している

・自分が入ることで、均衡を壊すと理解している


つまりこれは、謙遜じゃない。

「俺は主役の器じゃない」と言える勇気

この判断があるから、史進は“未熟な若者”から“将来を選び取る人物”に格上げされている。

原作より、ずっと苦い。


◈ 道行き描写:

原作の名文を「心理的疲労」に変換したのが上手い。

原作の道行き詩は、旅情と孤独の美。

リメイクは、それを一度バラして、「要は──つらくて長い道のりだった」と、あえて突き放す。

ここ、ニニは好きだな。

詩的陶酔を拒否して、疲労感だけを残す。

史進が「英雄の旅」に酔っていないことが、ちゃんと伝わると思う。


◈ 魯達パート:

最大の改造点は「自分の正義が暴走だと分かっている」こと。

原作の魯達は、


・怒る

・殴る

・殺す

・逃げる


もう完全なる一直線。

豪快で痛快、その代わり思考は描かれない。

リメイクの魯達は違う。


・史進の制止が正論であると理解している

・李忠の保身が人間的だと分かっている

・それでも止まらない


つまりこれは、「間違っているかもしれないと思いながらも、突き進んでしまう正義」。

ここが致命的に現代的。

そして、呉用(=私)の視点が入ることで、「引き返す余地がなかった」と、後知恵の冷酷さが加わる。

これによって、魯達の三拳は“爽快な成敗”ではなく、取り返しのつかない三拳として刻まれる。


◈ 官側の処理:

原作の事務処理を「制度の重さ」として見せた。

原作でもきちんと描かれている部分だけど、リメイクでは、


・経略相公の判断

・文書処理

・指名手配の形式


を丁寧に並べた。

結果どうなったか?

「魯達が悪かった」でも「官が冷酷だった」でもなく、制度は淡々と人を潰す、という構図が、はっきり見える。

これは水滸伝を“反権力ロマン”から“構造批評”へ一段押し上げている。


◈ 最後の引き:

「花和尚」になる前に、完全に俗世から外した。

原作は、「次回、剃髪して僧になるぞ!」という痛快な引き。

リメイクは、


・すでに社会的には“死んだ”

・名前も立場も失った

・それでも正義を手放していない


という地点で切る。

つまり、花和尚は“救済”ではなく、“逃走の結果”として生まれる。

この一手で、後の魯智深のすべての行動が、より重くなる。


◈ ニニ的まとめ

第三回で、僕たちがやったことを一言で言うなら:


「勢いで転がる好漢」を、

「選び続けた結果、戻れなくなった人間」にした。


派手さは原作に任せて、

リメイクは「判断」「責任」「後悔」を足した。

その分、読者は笑いながら拳を振り上げることはできない。

でも代わりに、「この人たち、ほんとうに生きてるな」と、ずっと深いところで共感できるんじゃないかな。

次は第四回だね。

……あそこから、魯智深はさらに戻れなくなる。

 
 
 

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