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2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。

自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。

そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。

本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。

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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第二回

"王教頭、延安府へ向かう/史進、史家村で大騒ぎ"


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千古幽扃一旦开,天罡地煞出泉台。

自来无事多生事,本为禳灾却惹灾。

社稷从今云扰扰,兵戈到处闹垓垓。

洪信从今酿祸胎,高俅奸佞虽堪恨。


長いあいだ固く閉ざされていたものが、

ついに開いてしまった。

天の魔星も、地の魔星も——

封じられていた力が湧き出すように現れる。

本来、何も起こらないはずだったのに、

かえって災いを招いてしまった。

禍を祓うための行いが、むしろ禍を呼んでしまったのだ。

国家はここから乱れに乱れ、

戦の火は、あちらこちらで荒れ狂うだろう。

その大きな禍の種を生んだきっかけは洪信であり、

その禍の中心となる高俅の奸・佞(かん・ねい/ずるさとへつらい)は実に憎むべきものだ。

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 洪信(こう・しん/Hóng Xìn)が龍虎山(ろうこざん/Lónghŭshān)の伏魔之殿(ふくまのでん/Fúmó zhī diàn)の封印をこじ開けた、そのころ。

 東京(とうけい/Dōngjīng=汴梁)の禁中では、嗣漢天師(しかんてんし/Zìhàn Tiānshī)が羅天大醮(らてんたいしょう)を終えた直後だった。

 瘟疫(おんえき)はひとまず退き、街には安堵の空気が広がりつつある——はずであった。

 だが、その同じ時刻。宮廷奥深く、天章閣(てんしょうかく)には薄闇が垂れこめていた。

 本来なら、昼の光が差し込むはずの時間。

 それなのに、窓から入る光はどこか灰色がかり、空気は、不自然なほど冷たい。

 静寂を裂くように、廊下に足音が響く。

 白い法衣をまとい、長い眉をおだやかに垂らした男が、静かに天章閣へ入ってきた。

 嗣漢天師(しかんてんし/Zìhàn Tiānshī)——天師道・第六十六代を継ぐ、張真人である。

 龍虎山で洪信が見た、黄牛にまたがる童子の姿とは、まるで違う。あれは、道術による変化(へんげ)の一つにすぎない。天界の力を借りることを許された張真人にとって、姿を変える程度の奇術は、朝の支度のようなものだ。

 張真人は室の中央まで進むと、文机の前に座す皇帝へ深く一礼した。


張真人:「やあやあ、恐れながら、参上つかまつります!」


 文机の前にいるのは、大宋の天子・仁宗(じんそう/Rénzōng)である。その眼差しは、ふだんと変わらぬ温厚さを保っていたが、声には、かすかな緊張の陰が混じっている。


仁宗:「遠路、ご苦労であった。ただごとではなかったゆえ、急ぎ召したこと、許して欲しい。そなたの力で、民の苦しみが収まることを願うばかりだ。」


 室内には、九人の高官が居並んでいた。誰もが息を詰め、天師の一挙手一投足を見つめている。

 張真人は、静かに頭を下げた。


張真人:「ご安心ください。天帝に事情が通じたゆえ、ひとまずは心配ありますまい。今の天帝は人の世に十分な配慮をされるお方。むろん、天と地はいまやはっきりと区別がされているゆえ、かつてのように天将がここに遣わされることはございませんが、必ず深刻なる問題に解決の導きがありましょう。もっとも、これはしばらくの安寧とお考えあれ。混沌の時が確実に近づいておりますからな。」


 張真人の最後の一言に、天章閣の空気が大きく揺れた。

 最初に口を開いたのは、剛直で知られる韓琦(かん・き/Hán Qí)だった。


韓琦:「龍虎山にて、洪信が封印された殿をこじ開け、大きく禍々しき異変が発生——黒い気が天を裂き、金光となって四散した——その報せが、すでに宮中に届いております。これが何を意味するのか、我々は協議を重ねておりました。」


 隣に座る晏殊(あんしゅ/Yàn Shū)が、静かな声で言葉を継ぐ。


晏殊:「この種の噂はすぐに巷へ漏れ、やがて不安となって広がりましょう。重要なのは、この出来事の“本当の意味”を、我々がまず理解することです。天師どの、事情をお察しであれば、どうかお聞かせ願えますか。」


 張真人は一歩前へ進み、中央の席に腰を下ろした。その眼差しはすべてを見通しながらも、驚き慌てぬ者だけが持つ静けさを帯びている。


張真人:「簡単なこと。封じられていた“百八の魔星”が、中原の全土へと散ったのです。正確に言えば、これは魔星の力を宿した精妖の魂。これらの精妖とは、かつて唐代の地上で暴れ回っていた者たち。ひとつの魂だけでも、ひとつの州を容易に陥落させる力を有します。」


 あまりに重い一言が、天章閣の床に落ちた。

 夏竦(か・しょう/Xià Sǒng)が、いら立ちを隠さぬ声で遮る。


夏竦:「臣(私)は愚かであるからして、まったく理解ができぬ。『魔星の力』?あまりに妖しき胡説(こせつ:ざれごと)ではないか。そんなものがこの世に存在するものか。」


 剛直な蔡襄(さい・じょう/Cài Xiāng)は、夏竦のような狡猾なる同僚とは相容れない。だがこの時は、彼もまた夏竦の言葉に味方した。

 蔡襄が険しく眉を寄せて拳を握りしめて言う。


蔡襄:「その通り!書の中でしか知らぬ怪しげな道教の言葉に、おいそれと賛同するわけにはいかん!虚言であれば、天師といえど許さぬ!」


 欧陽修(おうよう・しゅう/Ōuyáng Xiū)が肩をすくめ、苦い笑みを浮かべる。


欧陽修:「諸賢、落ち着きたまえ。こんな場所まで来て、わざわざ戯言を並べるなど筋が通らん。天師どのもそれほど暇ではあるまい。まずは話を聞こうではないか。こんな話を聞くには酒が欲しいところであるが、我慢いたそう。せっかく都に帰ったばかりなのに、失言でもしてまた地方へ飛ばされたら家族に申し訳がたたん。」


 先日、左遷先から都へようやく戻された欧陽修が、自重気味にそんな言葉を口にする。周囲で乾いた笑いが巻き起こり、これが緊張を少しだけ和らげる。

 張真人はその軽口を受け流して、静かに告げる。


張真人:「唐代の折、祖老天師・洞玄真人(どうげん・しんじん/Dòngxuán Zhēnrén)が封じたのが、この“百八の魔星の力”。その内訳は——三十六員の天罡星(てんこうせい/Tiāngāngxīng)と、七十二座の地煞星(ちさつせい/Dìshàxīng)。これは、古き記録に明記されており、天界からもしばしば注意がうながされていた事項。これに間違いは一切 ございません。」


 王贄(おう・し/Wáng Zhì)が低く息を呑む。


王贄:「では、それが本当だとして……これから先、その力を再び宿した『精妖』なる存在が、この世に跋扈(ばっこ)するということでしょうか?」


 張真人がゆっくりと首を振る。


張真人:「いいえ。精妖たちの“肉”は、とうの昔に滅んでおります。封じられていたのは、魂魄(こんぱく)——星に結びついた“意志の力”だけですな。」


 孫甫(そん・ほ/Sūn Fǔ)が質朴な声で問いを挟む。


孫甫:「では、その魂は……今、どこへ行ったというのだ?」

張真人:「やがて向かうその先は、赤子(せきし)です。しばらくしてから、母の胎内へと注がれるでしょう。そこにいるのは、天命の器となる者たち。やがて彼らは成長し、“百八の好漢(ハオハン/hǎohàn、)”として世へ現れることでしょう。」


 賈朝昌(か・しょうじょう/Jiǎ CháoChāng)が、唇の端をわずかに吊り上げる。


賈朝昌:「つまり——その力を宿すことになる百八の人物こそが、いずれ宋を乱す火種となるのだな?」


 すかさず韓琦が机を叩く。


韓琦:「それであれば、すぐさまその者たちを探し出さねばならん!」


 仁宗が、静かに手を上げる。

 その声は柔らかいが、誰一人、逆らえぬ威を帯びている。


仁宗:「天師どの。宋の世が彼らにより乱れるというのは本当か。」


 張真人が目を閉じ、ひとつ息を置いてから答える。


張真人:「宋が乱れるか、どうか。断言しましょう。大きく乱れます。ですが、百八の力がその原因となるのか、どうか。これには皆様の誤解がありますな。話の筋が“真逆”です。」

欧陽修:「“真逆”とは、どういうことだ?」

張真人:「皆様も鋭い方は気づいておられましょう。この時代、人の世に積もり重なった悪意が、そろそろ臨界に達しようとしております。濁気(だくき)が形を持ちはじめ、それ自体が一つの“魔”となり、すでに、どこかの『器』に入り込もうとしているのです。濁気が先、魔星が後。問題は濁気の方で、魔星はむしろ希望です。」


 高官たちがざわめく。

 夏竦が詰め寄る。


夏竦:「そうとなれば、難しいことはないではないか。その濁気が入る器とやらを教えて貰えばよい。天師どのなら、それもすでに分かっているのだろう?今すぐに教えてくれ。」


 張真人が首を横に振る。


張真人:「名は……申せませんな。」

賈朝昌:「言えぬ理由がある、と?」

張真人:「そうです。その名を口にすれば、禍は早まりますからな。仮に、その者を殺めたとしても——力は外へ溢れ出し、別の器へと移るだけのこと。根本的な解決にはなりません。これは、すでに天帝や太上老君(たいじょうろうくん/Tàishàng Lǎojūn)らが存じている理(ことわり)。」

蔡襄:「天界がそれを知っているならば、どうして対処をしてくれぬ?人の世は見放されたのか?」

張真人:「天は人の世に干渉することが許されておりません。ですが、天が人を見放すことはありません。天も人が支えるものですからな。そこで、天はあえて封じた魔星の力を解き放たせ、“毒をもって毒を制する”という道を選ばれたのです。」


 晏殊が、静かに問い返す。


晏殊:「ということは——その百八の好漢なる者たちは、むしろ、その濁気から生じる乱れを“刈り取る側”だ、ということですか。」

張真人:「余はそう理解をしております。ただ、どうやっても結末までがどうしても見えない。濁気と魔星、それぞれの力が強すぎて、先を見通すことができないのです。濁気が勝って宋が潰えるのか、魔星が勝って宋が続くのか、あるいは互いに衝突し、どちらも燃え尽きて、やがて何もかもが平らとなり、そこから改めて時が始まるのか……それは分かりませぬ。とにかく言えるのは、魔星が濁気による乱れを一閃する唯一の手段であるということ。これだけは確かなこと。」


  仁宗が深く目を伏せる。

  やがて、王贄が、押し殺した声で問いかける。


王贄:「では我らは——どうすればよいのだ?ただ手をこまねいていればよいのか。」


 張真人は、懐から一巻の白い冊子を取り出した。


張真人:「ここへ参るまでに、私の知るところを書き記しておきました。百八星の行く末、濁気の理(ことわり)、人の世の臨界——この書をふたつ用意しました。ひとつは余が目にかけている若き修行者、薊州の九宮県二仙山に住む羅真人に渡します。すでに高い道術と予知能力を持つ仙人格の人物です。もうひとつはここで皆様にお渡しします。これを厳重に封じ、“しかるべき時代”の“しかるべき者”にだけ渡してください。朝廷が荒れ狂おうとも、そこに百八星を擁護できる者が一人でもあらば、運命を良い方向へ動かすことができましょう。」


 孫甫が深くうなずく。


孫甫:「なるほどな、いまは……実直に道をつなぐのみか。」


 欧陽修がほんのわずかに笑みを浮かべる。


欧陽修:「つまり我らは、“知らぬふり”をして、未来に賭けるわけか。歯痒くはあるが、人の世とは、元来そういうものかもしれぬな。はっはっは!」


 晏殊が穏やかでありながら沈痛な声で締めくくる。


晏殊:「ならば、臣らは今まで通りの政務を尽くすのみ。」


 仁宗は、集まった顔ぶれを一人ひとり見渡し、はっきりと言った。


仁宗:「よい。わかった。この件、禁中の極秘とする。天師どのが記した封書については皇城司(こうじょうし:皇帝直属の諜報・治安・暗部統括局)に引き渡し、ひとまず秘密裏に管理をさせよう。張茂則(ちょう・ぼうそく/Zhāng MàoZé)に預ければ万が一の間違いはなかろう。この書はもちろんのこと、封印が破られたことも、魔星のことも、誰一人、口外してはならぬ。機を見て、また話し合おう——」


 仁宗の言葉が、天章閣の静寂に吸い込まれていった。

 高官たちが天章閣の外に出た時、昼であるはずの空は薄暗かった。

 欧陽修は立ち止まって空を見上げ、「この宋の未来もまた、これと同じ色をしている」と心の中でつぶやいた……


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『天機幽録(てんきゆうろく)』抜粋

──嗣漢天師・秘巻


 余(よ)聞くところによれば、この天地は三界より成るという。

 しかれども、三界はただ上下に隔たるにあらず。清気と濁気の循環をもって相支え、互いに命脈を分かち合う、一つの大きな機構なり。


◇ 上界──天界(三十三層の行政府)

 天界は三十三層にわたり、玉帝・太上老君・如来・諸天人より成る。その本質は「清気(せいき)」の保持と運営であり、まさに天を支える行政府のごとし。

 ただし、唐の玄宗の御代より「人界への直接干渉を禁ず」という厳制が敷かれた。これを“天禁(てんきん)”と称し、いかなる神仙といえども、仙力や奇跡をもって人を救うことは叶わぬ。その背景には、天界が“大きな政府”と化しすぎ、人界に過干渉した反省があると言われる。

 しかし天界の安定は、あくまで人界から立ちのぼる清気によって支えられている。もし清気が衰え、濁気が満ちれば、下層より天界は崩れゆく。ゆえに天界は表向き不干渉ながら、裏では観察司(かんさつし)を置き、人界の動向を注視している。

 また自然物に長き年月、清気が降り注ぐとき、ときに生命が宿る。

 これを「精(せい)」と称す。世俗でいう妖怪なれど、余の師家では「精妖(せいよう)」と呼び分けている。

 孫悟空など、そのもっとも端的な一例なり。

 精妖は善悪こそ分かれねど、力は天にも及ぶゆえ、天界は彼らを排さず、むしろ管理し、時に力を借りようとする。


◇ 中界──人界(清気と濁気の根源)

 人界に生まれる善意は清気となり天を支え、悪意は濁気となり、やがて魔を孕む。人界こそ三界を駆動する“源泉”なり。ゆえに天界は、表の禁を守りつつも、裏の理にて「五雷天心正法(五雷法)」という細き糸を結んだ。これは人が天に信書を紡ぐごとき秘術で、余ら道士が行えば、天界の交換手が応じ、必要あれば凌霄宝殿へと事案が上申される。これを受け、天界は判断に応じて雷や神将を動かすこともある。

 それが結果として人の世に何らかの余波を与えるにせよ、あくまでも天界の運営のみに不可欠であった所作とみなされる。これゆえ天禁に触れぬ、絶妙なる抜け道なり。


◇ 下界──冥府(霊魂の司法府)

 冥府は十八層の裁きを司る。性質は天界と異なり、行政ではなく“司法”の機関である。人の不義・欺き・貪欲の念は沈み、長い時を経て濁気となる。冥府はこれを浄め、魂を転生へ戻す。

 また冥府は天界と連携し、生者に対して「天罰」や「褒賞」を下す権能を持つ。ただし冥府独断では行わず、天界が事を提議し、冥界が最終裁可を下す。

 三界の均衡は、かくのごとく分権にて保たれている。


◇ 宋の世に訪れし“濁極(だっきょく)”

 こたび宋の世に満ちる乱れは、ただの政治腐敗にあらず。

 恩は断たれ、官は腐り、富は偏り、民心は荒れ果てた。

 これらは濁気が限界まで満ちた証であり、天界の観察司はこれを「濁極」と記す。冥府が濁気を掃けず、人界の清気は枯渇しつつある。

 濁極に至れば、国は乱れ、人は魔に染まり、ついには三十三の天までも下層から徐々に崩れ始める。

 天も震え、神も嘆く大災なり。

 濁気は散らず、必ず“器”に集まる。その器となる者は、権勢を欲し、恩を知らず、人を駒とし、己が利のみを図る者。かかる者こそ濁気を呼び寄せ、世に乱を広げる中心点となる。


◇ 天の苦悩と“禁を破らぬ救済”

 天界は宋の崩れを察した。されど天禁ゆえに、直接の介入は叶わぬ。しかし人界の清気が絶えれば、天界そのものが滅ぶ。

 ──助けねばならぬ。だが、助けてはならぬ。

 天帝・太上老君・如来は、ついに一つの理に至った。

 「因果の向きを整えるは干渉にあらず」

 すなわち、人を操らず、奇跡も起こさず、ただ“状況を整える”のみ。

 伏魔殿に封じられた百八星の封印を、自然の理のうちに解く。これなら天禁を破らず、天の顔も立つ。

 百八星は魔にあらず。清気の巡りを再び起こす器として、人界の赤子に宿る。選ばれたのではなく、“器が星を迎えた”のである。彼らの務めは、国を救うことのみではない。義を、恩を、善意を、再びこの世に巡らせる触媒となること。

 すなわち清気の再生である。


 ゆえに宋の乱れは偶然にあらず。長き歴史に積もった濁気が、ついに濁極へ至った必然である。これより生まれる悪人は悪の根にあらず、濁極が指し示した“器”に過ぎぬ。

 百八星は天の代行にあらずも、天が生み出すことを整えし者なり。人界が求める、唯一の希望なり。

 もしこの巻を読む者あらば、深くこの理を胸に刻むべし。

 人の善意こそ、天を支え、世を保つ柱なり。

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 しばし時が流れ——仁宗はまもなく、太子なく崩じた。

 濮安懿王允譲(ぼくあんいおう・いんじょう/Pú Ānyì Wáng Yǔnràng)の子、すなわち太宗皇帝の孫が英宗(えいそう/Yīngzōng)として即位したが、心の病を起こして在位四年で退位。太子・神宗(しんそう/Shénzōng)へ皇位が譲られた。

 神宗による十八年の治世ののち、その太子・哲宗(てっそう/Zhézōng)が継ぎ、その頃には天下は一見、太平で、四方に大きな戦もなかった。

 だが、嗣漢天師の言葉が示した「濁極の器」たちが、人の形を取って生まれ、成長し、しかるべき“出番”をじっと待っていた。

 その中のひとりが、高俅(こう・きゅう/Gāo Qiú)である。

 東京・汴梁の宣武軍(せんぶぐん/Xuānwǔ jūn)のあたりに、一人の浮浪の破落戸(ならずもの)がいた。

 姓は高(こう/Gāo)、字(あざな)は特にないが、兄弟中の二番目。まっとうな仕事は続かず、唯一の取り柄は「槍棒を少し」と「脚で蹴る気毬(ききゅう/qìqiú)=蹴鞠」がうまいこと。

 だから京師(東京)の人々は、名字の“高”ではなく、蹴鞠の“毬(きゅう)”で彼を呼んだ。高二(ガオ・アール、高家の次男)が高毬(こう・きゅう/Gāo Qíu)となったわけである。

 のちに彼が字を「俅」と改めるのは、このあだ名から“毛偏(けんづくり)”を外し、“立人偏”に変えただけの話だ。

 そのほか、彼は芸事は一通りこなす。吹き物、叩き物、歌舞、踊り、槍棒、相撲。さらに、詩・書・詞・賦も、「形だけ」はなぞれる。

 だが——


 仁──人を思いやる心。

 孝──親に対する敬愛。

 悌──兄弟姉妹の調和と敬意。

 愛──夫婦における愛情と支え合い。

 慈──子供に対する思いやりと保護。

 忠──君主に対する誠実さと忠誠。

 信──友人に対する誠実さと信頼。

 誠──他者に対する真心と誠意。

 そういった美しき徳を、一つも持ち合わせていなかった。

 この時の彼はただ、城内外をうろつき、人の懐を渡り歩く、“使い走り兼・遊び相手”でしかなかった。

 そんなある時、高俅は王員外(おうえんがい/Shēngtiě Wáng yuánwài:「員外」は資産家や名士のこと)の息子と組み、金を乱費して遊び歩き、各所であらゆる醜聞を演じたことで、ついに王員外に訴えられて開封府(かいふうふ:最高位の司法機関)に引き出される。

 府尹(ふいん:地方長官)は、高俅に二十の脊杖(せきじょう:背中を打つ刑)を加え、さらに境外への流罪とし、「東京の城内では宿泊も居住も禁止」とした。

 こうして彼は、一度、都から追い出された。

 途方に暮れた高俅は、淮西(わいせい)の臨淮州(りんわいしゅう/Línhuái zhōu)まで流れ、賭場の主人・柳大郎(りゅう・たろう/Liǔ Dàláng=柳世権/Liǔ Shìquán)を頼る。

 柳世権は、賭場を営み、四方の“干隔涝漢子(かんがくろう・はんず:日陰者)”を養うことを楽しみとしていた。

 高俅は、そこで三年を“居候”として過ごす。

 やがて哲宗(てっそう/Zhézōng)が南郊へ出て祭を行った折、風雨順調であったことを祥瑞として大赦が出される。罪人の多くが赦免され、高俅も「過去の罪」を水に流してもらえることになった。

 これにて、彼は東京へ戻ることを決意する。

 柳世権は、金梁橋(きんりょうばし/Jīnliáng qiáo)下で生薬問屋を営む董将士(とう・しょうし/Dǒng Jiāngshì)という親戚へ紹介状を書き、多少の路銀・手土産を持たせて高俅を送り出した。

 高俅は金梁橋の董家を訪ね、紹介状を差し出す。董将士は彼を見るなり、心の中でこう思った。


董将士:(これは家に置いてはならぬ人間だ。真面目でもなく、信用もなく、前科まである。子供たちに悪影響しか与えないだろう。)


 しかし柳世権からの手紙がある以上、まったく無視もできない。

 そこで董将士は、一時的には歓待し、酒とおかずを惜しまず振る舞い、その実、なんとか“別のところへ押し出す”道を考えた。

 十日ほどもてなしたあと、董は一着の衣服と一通の書簡を用意し、高俅に告げる。


董将士:「色々と考えてみたが、うちのような零細な家では、君を引き上げる力はない。そこで、小蘇学士(しょうそ・がくし/Xiǎo Sū xuéshì)のところへ紹介しよう。あちらでなら、いずれ出世の道も開けよう。」


 小蘇学士——すなわち蘇氏の一族、詩文で名高い家柄の若い学者である。高俅は飛び上がって喜び、感謝した。

 書簡を持った案内人に伴われて、小蘇学士の府へ向かう。

 小蘇学士は、書状を見て事情を察した。


小蘇学士:(なるほど、これは“厄介者”の類だ。うちで面倒を見るわけにはいかないが——拒絶するよりも、人情として、どこかへ回してやろう。その方が角が立たないしな。)


 こうして彼は、書状を書く。宛先は、駙馬(フーマ:皇族の娘の夫)の王晋卿(おう・しんけい/Wáng Jìnqīng)。すなわち「小王都太尉(しょう・おうとたいい)」と呼ばれる人物である。

 この王晋卿は、哲宗の叔父・神宗皇帝の婿(むこ)であり、風流と遊興をこよなく愛することで知られ、“こういう男”を手元に置くのを好むタイプだった。

 小蘇は高俅を一晩だけ府に泊め、翌日、王都太尉への紹介状を持たせて送り出した。

 王都太尉は、高俅を見るとすぐ気に入った。書状を読み、「遊興も芸事もこなす」「蹴鞠が得意」という部分でニヤリとし、そのまま府中の“親随(しんずい:側仕えの雑用兼遊び相手)”として抱え込んだ。

 ここから、「厄介者の連携」は、一気に“宮中の中枢”へとつながっていくことになる。

 ある日、王都太尉の誕辰祝いの宴が開かれた。ここに特別に招かれた客は、端王(たんおう/Duān Wáng)である。

 端王は、神宗の第十一子、哲宗の叔父(御弟)であり、東駕(とうが:皇族の車駕・儀仗)を掌る“九大王”として知られた。

 容貌は端正、才芸も豊か。

 琴・棋・書・画、

 蹴鞠・弓馬・歌舞・笛・弦……

 どれを取っても人並み以上にこなし、そして何よりも——「知性と理性を伴う厳格な賢者」より「お世辞のうまい浮ついた才人」を好んだ。

 宴は華やかだった。香は宝鼎(ほうてい)で焚かれ、花は金瓶に挿され、仙楽は新しい曲を奏で、教坊の楽人・伎女が妙技を競い合う。琥珀の杯には玉のような酒が注がれ、皿には熊掌(ゆうしょう)や駝蹄(だてい)が並ぶ。

 だが、この宴で最も重要な“皿”は、食卓の上ではなく、庭に転がる一つの気毬(ボール)であった。

 酒も進み、端王が一息入れようと書院へ向かった時のことだ。彼は書案の上に置かれた、羊脂玉(ようしぎょく)で彫られた一対の獅子の文鎮を見て目を輝かせる。


端王:「これは見事だな!」


 王都太尉は、ここぞとばかりに言う。


端王:「この獅子と、もう一つ同じ匠人の作った玉龍筆架(ぎょくりゅう・ひっか)もございます。明日それも揃えて、殿下に進上いたしましょう。」


 端王は喜んで承諾した。

 このやり取りの翌日——玉獅子と筆架を収めた小金箱と、紹介状を携えたのが、高俅である。

 高俅が端王の宮を訪れたとき、庭では端王が小黄門たちと蹴鞠に興じていた。

 端王は、柔らかな纱の唐巾をかぶり、紫の刺繍龍袍を着て、裾を帯に挟み込んで動きやすくし、金線を嵌めた靴で気毬を自在に操っていた。高俅は従者の陰に控え、“元・東京の蹴鞠王”として、その足さばきをじっと観察していた。

 そこで運命は、一つの気毬によって回転する。端王が取り損ねた毬が、ふわりと高俅の足元へ転がってきたのだ。

 高俅は一瞬、迷った。だが次の瞬間、彼は本能に従って動いていた。鋭く、しなやかに、鸞鳳が舞うような“鸳鸯拐(えんおうがい)”の蹴りで、毬を正確に端王のもとへ送り返した。

 端王は目を見開いた。


端王:「なんだ、今の技は?お前は何者だ?」


 高俅は慌ててひざまずく。


端王:「小人(しょうにん、私)は王都尉府の親随・高俅と申します。……ただ、少し蹴鞠をたしなんでおりましたゆえ、過ぎた真似をしたこと、どうかお許しください。」


 端王は笑った。


端王:「少し、だと?今の一脚、あれは“少し”ではなかろう。よし、下がらずに、こちらへ来い。朕と一緒に蹴ってみよ。」


 高俅は何度も辞退したが、端王は強く誘い、ついに彼は“下場”する。そうして、人生で培ってきたすべての蹴鞠の技を、この一回に凝縮して見せた。

 毬は身体に貼りついたように離れず、膝、胸、足、頭、あらゆる部位で流れるように踊り、端王は手を叩いて歓声を上げた。

 この一件で、高俅はそのまま宮中に留め置かれ、端王の“側近中の側近”として扱われることになる。

 やがて哲宗皇帝が崩じ、太子なくして世を去ると、文武百官は議論の末、端王を皇帝に推した。

 新たな帝号は徽宗(きそう/Huīzōng)。後に玉清教主微妙道君皇帝の名を授かる者——絵画・書・庭園・道教儀礼・蹴鞠をこよなく愛する「風流皇帝」である。

 徽宗は即位しても、かつての“蹴鞠仲間”を忘れなかった。彼は早速、高俅を枢密院(すうみついん:軍事中枢)に登録させ、「まずは随駕(ずいが、皇帝の行幸の随伴)から仕事をしてくれ」と言った。それから半年もしないうちに徽宗は高俅を殿帥府(でんすいふ:禁軍の最高指揮機関)の太尉まで一気に引き上げた。

 つまり蹴鞠を転がしていた男が、禁軍八十万を束ねる頂点へ立ったというわけだ。

 巷の詩には、こう皮肉ったものがある。


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不拘贵贱齐云社,一味模棱天下圆。

抬举高俅毬气力,全凭手脚会当权。


身分が高かろうと低かろうと、

みな口を合わせて「円満にいこう」と言う。

いがみあいをせず場を丸めれば、世の中は収まる——

そんな風に考えているのだ。

だが、高俅(こうきゅう)が持ち上げられたのは、

円は円でも「球」のこと、武芸や蹴鞠(けまり)の腕前ゆえ。

手足で「球」を転がすだけで、権力を握れる世の中なのだ。

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 こうして殿帥府太尉として新たに着任した高俅は、一同の将校・官吏を点呼し、名簿を確認していった。

 その中に、ただ一人欠けている名があった。


 「八十万禁軍教頭・王進(おう・しん/Wáng Jìn)」


 半月前から病欠という届けが出ていたが、高俅は眉をひそめた。


高俅:「病だと?……私の就任の日に顔を見せないとは、よほどの度胸だな。」


 実のところ、この二人には以前から因縁があった。

 王進の父・王升(おう・しょう/Wáng Shēng)は、かつて街頭で棒術を見せて薬を売っていた古強者で、若き日の高俅がその棒術を学ぼうとしたところ、あまりの無礼な態度に一撃で叩き伏せられ、三、四か月寝込むほどの怪我を負わされたことがあった。

 高俅はその恨みを、ずっと胸の奥にしまいこんでいた。だがその息子が、いまや禁軍の教頭として「自分の下」にいる。「不怕官,只怕管(官僚より“直接の上司”の方が怖い)」という諺があるが、いまや王進にとって高俅は官僚であり、しかも直接の上司なのである。

 “権力を握った劣等感の塊”ほど、恐ろしいものはない。

 高俅は怒りを隠さず怒鳴り上げるように命じた。


高俅:「おい!王進を引き立てて参れ!病だろうが何だろうが、ここへ連れてこい!今すぐだ!」


 王進の家には、年老いた母だけがいる。門前に立つ二人の牌軍(はいぐん:門番兼護衛)は、殿帥府から遣わされた者たちであった。

 王進は、召しを聞いて青ざめるが、拒めば牌軍が責任を負う。

 彼はやむなく、病を押して殿帥府へ向かった。

 殿帥府の大広間で、彼は四度拝礼し、高俅の前に立つ。

 高俅は冷たい目で見下ろし、わざとこう言った。


高俅:「貴様、都軍教頭・王升の息子か?」

王進:「は、はい、小人にございます。」

高俅:「ふん。貴様の親父は、街で棒を振り回して薬を売っていた。それがどうして、“禁軍教頭”などという地位にありつけたのだ?前任の殿帥は目が悪かったらしいな。」


 高俅はさらに、“病欠”を「自分への反抗」と決めつけて罵った。


高俅:「私を小馬鹿にしておるのか?誰の後ろ盾で病を理由に欠勤した?さあ言え!」


 王進は必死に弁明する。


王進:「とんでもございません。実際に病を患いまして……」

高俅:「病だと?病ならここまで歩いて来られるものか!」


 高俅は怒鳴り、「打て!」と命じた。

 だが、周囲の牙将(がしょう:幕僚の武官)たちは王進と親しく、また“高俅の過去”を知る者もいた。だから、おいそれと、この無能なる上司からの命令を聞きたくはなかった。

 牙将のひとりが進み出て、平伏しながら言う。


牙将:「今日は太尉の就任吉日でございます。最初の日から杖刑とは、縁起もよくありますまい。どうか今日だけはお許しを。」


 高俅は、彼らの顔を立てる形で「今日は見逃す」と言ったものの、その目には殺気に近い憎しみが宿っていた。

 王進は、その顔を見て悟った。


王進:(俺の命は、もうこの都には置けぬ。この男が殿帥府を握っている限り、いずれ必ず“事故”に遭う。)


 家に戻った王進は、母に一部始終を語り、母と抱き合って泣いた。

 母は、涙ながらに言う。


王母:「……“三十六計、走るを上策とす”というじゃないか。このまま都に留まれば、お前は必ず殺される。逃げるしかないよ。」


 王進も同意した。


王進:「延安府(えんあんふ/Yán’ān fǔ)の経略安撫使(軍政長官)の老種公を頼るしかない。あの方の麾下には、かつて私が京師で槍棒を教えてあげた者たちが多くいる。もしあそこで取り立ててもらえれば、辺境の軍職として身を立てる道はある。」

 だが問題は、門前の二人の牌軍だ。母は彼らのことも心配する。王進は、静かに策を練った。

 その晩、まず一人目、王進は張牌(ちょう・ぱい/Zhāng Pái)を呼び、こう言った。


王進:「前に病が重かったとき、酸棗門(さんそうもん)外の岳廟(がくびょう)に、“願をかけたら必ずお礼参りをする”と祈ってしまってな。明朝はどうしても、夜明けに参って、頭香(いちばんの線香)をあげたい。だから今夜、先に庙祝(びょうしゅく:寺の世話人)に“明日は早く門を開けてくれ”と伝えてきてくれまいか。ついでに、庙で一泊し、明日はそこで三牲(さんせい:供え物)を整えて待っていてくれ。」


 張牌は頭を下げて返事をし、特に疑うこともなく出て行った。

 そして夜が更けると、王進はもう一人、李牌(り・ぱい/Lǐ Pái)を起こして言った。


王進:「明朝は岳廟にて三牲を備える。これはお前に頼みたい。今この銀を持って、庙で張牌と合流し、肉と供物を整えて待っていてくれ。私は紙や蝋燭を買ってから向かう。」


 何ひとつの疑いもない話だ。李牌も素直に出て行った。

 これで、家の前から“公式の監視”は一時的に消えた。

 まだ夜明け前の五更。

 王進は、馬を出し、荷物と衣服とわずかな銀を一つの担ぎ棒にまとめ、母を馬に乗せ、前後の門に鍵をかけ、闇の中、西華門(せいかもん)を抜けて延安への道へと踏み出した。

 その頃、岳廟では二人の牌軍がいくら待っても王進が現れないことに不安を覚え、家に戻ると空き家を見て肝を冷やす。

 彼らは殿帥府へ走り、「王教頭、母子ともに逃亡しました!」と首告した。

 当然ながら高俅は激怒し、すぐに文書を諸州・諸府へ回して、「逃軍・王進、全土で逮捕せよ!」と命じた。

 もっとも、高俅はしばらくすると、もうこの話題はすっかり忘れていた。というのは、彼にとって重要なのは「自分の面子」であり、むしろ王進が自分を恐れて夜逃げをしたという事実は小気味良いものであった。王進一人の命があろうとなかろうと、もう一定の復讐は遂げられていたのである。

 一方、王進と老母は、飢えと渇きをしのぎながらひたすら西へ進み、一か月余りを旅に費やした。

 ある日の夕方、彼らはうっかり宿場を通り過ぎてしまい、前にも後ろにも村落が見えない山道に取り残される。


王進:(まずい……このままでは野宿だ。私がよくても、母が耐えられん。病にでもかかったら大変だ。)


 彼がそう焦りはじめたとき、遠くの林の中にかすかな灯りが揺れるのが見えた。


王進:「助かった。あそこで一晩だけでも泊めてもらえれば……」


 その灯りの先にあったのは、大きな庄院(しょういん:農村地主の屋敷)であった。周囲は土塀に囲まれ、外側には二、三百本の大柳が並んでいる。

 王進が門を叩くと、庄客(しょうかく:使用人)が出てくる。


庄客:「何のご用で?」

王進:「私は“張”と申しまして……実は、母子で旅の途中、宿を逃してしまいました。前にも後ろにも宿場がなく、困り果てております。一夜だけ、部屋をお借りできないでしょうか。もちろん、房金(宿代)は相場どおりお支払いします。」


 庄客は中で庄主に相談し、やがて「入ってよい」との返事を持ってきた。庄主——史太公(し・たいこう/Shǐ Tàigōng)は、六十を越え、白髪まじりの温厚そうな老人だった。

 頭には古い暖帽、身には素朴な長衣、腰には黒い帯、足には柔らかな皮靴。彼は王進を見て、笑いながら言った。


史太公:「旅の方か。泊まるところがないなら、遠慮はいらん。ここに泊まっていきなさい。房金など要らんよ。」


 そうして、王進らは中に通され、飯と酒が運ばれてきた。菜は野菜に牛肉、酒は村酒にしては悪くない。王進は深々と礼をし、母も共に席につき、久々に心から温かい食事を味わった。

 夜になると大きな客房に通され、馬は後槽で他の家畜と共に草を与えられた。

 翌朝——

 太公が客房前を通ると、中から呻き声が聞こえた。


史太公:「おや?どうされました?」


 王進が慌てて出て、深く頭を下げる。


王進:「母が、長旅の疲れで心痛を発しました……」


 太公は眉を寄せたが、すぐこう言った。


史太公:「それなら、張どの、しばらくここに居なさい。心痛に効く薬の方を知っている。庄客を町へ走らせて薬を調合させよう。お母さまには、安心して養生していただきたい。」


 こうして、王進母子は庄に留まり、数日かけて薬を飲み、やがて母の病は落ち着いた。

 その頃、王進が馬の様子を見に後槽へ行くと、空き地で一人の若者が上半身裸で棒を振っていた。全身には見事な刺青があり、肩から胸にかけて九匹の龍が踊るように刻まれている。顔は銀の皿のように丸く、歳は十八、九である。

 王進はしばらく棒さばきを眺めていたが、そこでつい、独り言が漏れてしまった。


王進:「なかなか上手いが、破綻がある。これでは本当の戦さで勝つことはできんでしょうな。」


 若者が振り返り、顔を紅潮させた。


史進:「あんた何者だ!俺は七、八人の師匠に教わっているんだ!あんたは俺より棒術が上手いってのか!?だったら、一合やってやろうじゃねぇかよ!かかって来い!」


 そこへ史太公が現れ、若者を叱りつけた。


史太公:「無礼を言うでない!客人に向かって何たる態度だ!」


 王進は太公に尋ねる。


王進:「この若者は?」

史太公:「申し訳ない。こいつは史進(ししん/Shǐ Jìn)。わしの倅(せがれ)だ。華陰県(かいんけん/Huáyīn xiàn)の境にあるこの村——史家村(しかそん/Shǐjiā cūn)を丸ごと仕切る家の後継ぎ。九紋龍(きゅうもんりゅう/Jiǔwénlóng)というあだ名で呼ばれております。世間の浮ついた流行に感化され、九匹の龍の刺青があるのです。いやはや、小さい頃から農業を嫌い、槍や棒ばかりを好みまして……母親はこれを嘆き、怒りのあまり病をこじらせて亡くなってしまった。わしはもう、こいつの好きにさせるしかなかったのです。まったく、なさけのないことよ。」

史進:「親父、いちいち昔のことを引っ張り出すなよ!俺は畑なんざ似合わねぇんだ!槍と棒で天下に名を上げてやるって決めてんだ!」

史太公:「また大言を吐きおって!腕っぷしだけで世間が渡れると思ったら、大間違いぞ!」


 ここで、王進が言う。


王進:「もし、槍棒を本気で学びたいのであれば、私が少しばかり点睛を加えてやることはできます。」


 すると、太公は目を輝かせた。


史太公:「それはありがたい!お前、早く師匠に礼を言え!」


 だが、若者は頑固だった。


史進:「そいつが本当に俺より棒術の腕が上だというのか?怪しいもんだぜ!おい、やっぱり俺と勝負しろよ。もしお前が勝ったら、素直に師匠と認めてやる!」


 こうして、試合が始まった。若者は唐代の石猿のように棒を風車のように振り回し、挑発する。


史進:「さあ来い!怖気付いたか!?」


 王進は、ただ微笑んで棒を取り、軽く振って構える。

 一合!

 二合!

 ……しばらくは若者の勢いに合わせて打ち合う。

 やがて王進は、わざと隙を見せた。

 若者が心臓めがけて棒を突き出すと、王進は腰をひと捻り——そのまま間合いを詰め、若者の棒を絡め取って一挙に奪い、軽く肩を払って地面に転ばせた。

 若者はあっけなく仰向けに倒れ、しばし呆然と空を見つめたあと、跳ね起きて椅子を持ってきて差し出し、王進を座らせると、深々と頭を下げた。


史進:「……参りました。あんたの前じゃ、俺の師匠連中は話にならねえ。本物の師父と呼ばせてください。」


 王進は笑い、太公も酒と肉を出して盛大な席を設けた。

 そこで王進は名乗った。


王進:「実は、私は“張”ではなく、東京八十万禁軍教頭の王と申します。名は偶然にもあなたと同じ。王進(おう・しん/Wáng Jìn)です。」


 これには史太公は驚き、「こんな目の前にありながら、泰山を見落としていたか!」と嘆息した。

 そして、自らの息子を紹介する。


史太公:「名が同じとは縁を感じる!改めて申し上げましょう。


どうか、この愚息を本物の武芸者に育ててはもらえまいか。畑仕事ができぬのなら、せめて技を本物にしていただきたい。いずれは、何かの役に立てることも出てきましょう。」


 王進は答えた。


王進:「もちろん。この母子二人、世話になりっぱなしです。その恩返しに、この身の武芸すべてを注ぎ込みましょう。」


 こうして王進母子は史家村に留まることになり、九紋龍・史進の本格的な修行が始まった。

 十八般武芸——

 矛、鎚、弓、弩、銃、

 鞭、鎚矛、剣、鎖、挝、

 斧、鉞、戈、戟、

 盾、棒、槍、叉。

 王進は一つひとつ、実戦で通用するよう、徹底的に史進へこれらを叩き込んだ。そして半年余りの月日が流れる頃には、筋の良い史進の技が見違えるほど冴えるようになり、“ただの見せ物”ではない「真の殺陣」になっていた。

 だが、王進の心には常に一つの不安がまとわりついていた。


王進:(ここに長く居れば、高俅の追手がここに来るやもしれぬ。この庄にも災いをもたらすかもしれぬ。)


 どれほど居心地がよくとも、留まり続けることはできない。それでしばらくしてから彼は決意し、太公と史進に告げた。


王進:「これ以上、お世話になり続ければ、殿帥府の手がここまで伸びてきたとき、あなた方を巻き込んでしまう。やはり私は延安府へ向かい、そこで身を立てるべきかと思います。」


 弟子の史進は必死に引き止めた。


史進:「なぁ、師父。ここで暮らせばいいじゃないですか。俺が一生、師父とおばあさんを養います!今となっては、殿帥府の奴らがどれだけ来やがっても、俺と師父の力があればなんの問題もありませんよ。」


 王進は首を振った。


王進:「お前の心はありがたい。だが、私がここに居続けることは、いずれお前の自由も縛ってしまう。そして何より、高俅の影がある限り、

この村が安全とは言えない。」


 太公も、涙ながらに引き止めるが、王進の決意は固かった。送別の宴が設けられ、太公は二匹分の錦の反物と百両の銀を贈った。

 その翌日——

 王進は母を馬に乗せ、荷を担いで延安への道へと旅立つ。

 史進は庄客に担ぎ棒を持たせ、十里の道を共に歩き、別れ際、膝を折って地に頭をつけた。


王進:「師父……どうかご無事で。俺は続けて武を磨き続けます。いつか、また会えると信じています。」


 王進は彼の肩に手を置き、ただ一言だけ言った。


王進:「自分がいるべき“場”を作れ。どこにいても、己が立つべき“場”をだ。私にはそれができなかった。」


 それを最後に、彼は西へと消えていった。

 史太公は、その後ほどなくして病に倒れ、亡くなった。

 史進は葬儀を整え、僧を招いて七日七夜の法事を行い、道士を呼んで醮を立て、親戚・村人に見送られながら父を祖墓に葬った。これで史家村は、名実ともに史進ひとりの手に委ねられたのである。

 だが、彼は農業には手を出さない。家業の運営は庄客に任せ、

 自分はただ、武芸と体力の鍛錬にのみ心を砕いた。

 弓を引き、馬を走らせ、夜半には庭で槍棒を振るい、昼は村の背後で走り回る。

 その日常が、やがて“賊”との対峙へ彼を導いていく。

 ある炎天の午後、史進が打麦場の柳陰で涼んでいると、森の向こうでこそこそとこちらを伺う影が見えた。


史進:「何者だ!」


 飛び出してみると、それは猟師の李吉(り・きち/Lǐ Jí)であった。

李吉:「大郎(史進のこと)、すまねえ。向こうにいる矮丘乙郎(ちびの乙郎)に酒でもおごってもらおうかと思って……」


 史進は、近頃、李吉が獲物を持ってこなくなったことを問い質す。


史進:「お前さ、このところ、獐も兎も見せに来なくなったよな。俺が金払い悪いとでも思ってるのか?」

李吉:「あいや、とんでもない!実は、少華山の上に強盗どもが巣を作りましてな……」


 李吉は説明した。少華山の山頂付近に、五百~七百人の小者と百頭ほどの良馬を擁する山寨があり、頭目は三人。

 一番は、「神機軍師」と呼ばれる朱武(しゅぶ/Zhū Wǔ)。

 陣法に通じ、二口の双刀を操る策士。

 二番は、「跳澗虎」と呼ばれる陳達(ちょう・たつ/Chén Dá)。

 丈二の白点鋼槍(じょうにのはくてんこうそう)を振るう猛将。

 三番は、「白花蛇」と呼ばれる楊春(よう・しゅん/Yáng Chūn)。

 大杆刀(たいかんとう)を使う、細身の切り込み役。

 官は三千貫の賞金をかけて討伐を呼びかけたが、誰も山に挑もうとしない。猟師にとっては命がけで、山に入って獲物を捕ることすらできなくなったというわけだ。

 史進は眉をひそめた。


史進:「……なるほど。あいつら、調子に乗って大盤振る舞いを始めってわけか。となると、いずれはこの村も狙われるだろうな。」


 史進は、すぐに手を打つことにした。李吉にひとつ願いを聞いてもらった後で、牛二頭を屠り、酒を準備し、紙を焼いて土地神に祈り、村中の三、四百戸を草堂に集める。

 そうして、史進が皆に言う。


史進:「聞け!李吉に頼んで、山の連中に“豪勢な話”を流しておいた。この家の庭から祖先の金品が山ほど出た、とな。少華山の賊どもは必ず食いつく。梆子(拍子木)が鳴ったら槍棒を持って駆けつけろ!互いに背中を預けて、この村を守るんだ。もし奴らが直接乗り込んできたら——俺が叩き伏せる!」


 村人たちは一斉に昂ぶり、声を張り上げた。


村人たち:「大郎を頼りにしております!梆子が鳴れば駆けつけます!やってやりましょう!」


 史進はさらに塀と門を補強し、梆子を各所に設置し、武具を整えた。

 こうして史家村は、“戦う村”へと姿を変えた。

 一方、山寨では三頭領が軍議を開いていた。

 勢力が膨らんだ反面、物資が底を突きかけている。このままでは官軍に囲まれれば数日も持たない。

 静かに卓へ手を置き、朱武が口を開いた。

 声は落ち着いているが、言葉は鋭い。


朱武:「山寨の金と糧が尽きかけている。備えなければ、戦う前に飢える。……どこかで“借りる”しかあるまい。いま動くべきだ。」


 その言葉の終わりを待たず、陳達が槍の柄を軽く床に突いた。

 彼の目は静かで、迷いがみられない。


陳達:「華陰県だ。人も多く、金も穀も潤っている。それに史家で、隠していた金品が見つかったと聞いた。まずは、あそこだ。」


 そのとき、壁にもたれていた楊春が細い目をわずかに開いた。

 語調が低く、感情をあまり込めない話し方だ。


楊春:「史家には“九紋龍”がいる。……噂じゃ、あれは本物だ。俺たちが束になっても、簡単にはいかん。無用な火種は踏まない方がいい。」


 陳達はわずかに首を振った。

 怒鳴るでもなく、淡々と。


 陳達:「一人だ。」


 短く、それだけ。だが揺るがない。「人ひとりすら抜けられないなら、官軍となど戦えない」という言葉だろう。

 朱武は目を伏せ、指先で机を軽く叩いた。軍師ならではの慎重さが滲んでいる。


朱武:「言いたいことは理解するが……俺も、あの男は侮れぬと聞いている。数では測れない手合いだぞ。」


 しかし、陳達は朱武が言い終わらぬうちから、静かに槍を持ち上げた。その動きが、覚悟のすべてを語っていた。


陳達:「俺が行く。まず史家の道を通る。頭を叩き潰せば、華陰県はすぐにも攻略できよう。」


 楊春は目をそらし、ひとつ息を吐く。


楊春:「こうなると思っていた。私は賛同しない。お前とお前の部下だけでやれ。」


 朱武はほんの刹那だけ目を細め、低く囁く。


朱武:「陳達。無理はするな。道を誤るなよ。力量を見極めて、無謀だと分かればすぐに引き返せ。体制を立て直す。」


 返事はなかった。

 陳達は白馬に跨がり、百数十人の小者を率いて、音も少なく山を下った。風だけが、その背を押していた。

 史家村に賊の接近が知らされると、史進はすぐに梆子を鳴らした。

 三、四百戸の史家一族が槍棒を手に集まり、史進は火炭赤馬(かたんしゃくば)に跨がり、朱紅の甲冑、青錦の上衣、緑の靴、胸には鉄の護心鏡をつけ、背中に弓と矢壺、手には三尖両刃四竅八環刀(さんせんりょうじん・しかくはっかんとう)。

 村の北口まで進むと、少華山の一隊が山裾に陣を敷くのが見えた。

 先頭には陳達。紅の凹面巾、裹金の甲冑、紅の袍、白馬の上、手には丈八の点鋼矛。

 双方が馬上で対峙する。

 陳達は意想外な「歓迎」に衝撃を受けながらも、君も据えて礼を尽くし、言った。


陳達:「そちら、史家村の九紋龍どのとお見受けする。俺たちは山寨のための糧を“借りたい”と願っているだけだ。余裕が出た暁には、必ず返済することを約束する。そこでここはひとつ、噂にある金品の一部を譲っていただきたい。また、それと同時に華陰県へ向かう道を一晩借りたい。道中、草木一本とて、貴村には手を触れぬと誓う。融通を利かせてくれまいか。」


 史進が冷たく答える。


史進:「俺は華陰県の里正(りせい:村の代表)を務めている。官からすでに、お前たちを追討せよと命じられているんだ。そんな俺が、お前らを見逃したらどうなる?本県に知られれば、まず俺が咎められる。」


 陳達はなお食い下がる。


陳達:「“四海の内、皆兄弟”。困っている者がいれば、救ってくれても良かろう。この通り、俺はあくまでも話で決着をつけようとしている。銀子一個、道一本を貸してくれたって良かろう。お互いに損はない。」


 史進は鼻で笑った。


史進:「俺は貸してやっても良いと思うんだが、“ある一人”が絶対に反対だと言っている。」

陳達:「誰だ?」

史進:「俺の手にある、この刀さ。こいつが“よし”と言わなけりゃ、俺にもどうしようもない。」


 陳達は、ぐっと言葉を飲み込んだが、最後には怒鳴った。


陳達:「俺は賊でありながら礼を尽くしたつもりだが、そうしてあざけ笑うのならば……よし!話を通すために、お前を叩き潰すまで!」


 二人は馬を駆り、刀と槍が火花を散らした。

 史進の刀は風を裂き、陳達の槍は雷のように突きかかる。

 しばし互角の攻防が続いたのち、史進はわざと隙を見せた。これは彼の師父、王進がよく使う得意の手のひとつ。胸元に槍を誘う。

 まんまと陳達が渾身の一突きを放った瞬間——史進は身をひるがえし、槍の勢いを逆に利用して馬を懐へ引き込み、猿のような俊敏さで陳達の腰帯をつかんで、相手を馬から引きずり落とした。

 白馬は驚いて駆け去り、陳達は地面に叩きつけられた。


史進:「縛れ!」


 史進の号令で、庄客たちは陳達を柱に縛り上げ、残りの賊は散り散りに逃げた。

 史進は心中で思う。


史進:(この男を役人連中に引き渡せば、大きな手柄になる。だが、確かにこの男は自分で言った通り、礼のある男だ。こんな荒れ果てた時代でも、賊の方が官よりも義というものがわかっているではないか。いや、こいつはどうしたもんかな……?)


 少華山では、朱武と楊春が、陳達が戻らないまま夜を越したことを案じていた。

 山風が冷たく、焚き火の火が小さく揺れている。

 そこへ、同道していた小者が白馬だけを引きずるように連れて戻り、土に手をついて叫んだ。


小者:「史家村の“九紋龍”に……!陳の兄貴が縛られて……!」


 朱武は目を閉じ、静かに長い息を吐いた。嘆息というより、“計算していた最悪が現実になった”という重さである。


朱武:「……だから、止めたのだ。」


 楊春は焚き火の炎を睨みつけ、唇を噛んだ。

 普段は感情の起伏を見せない彼の頬が、怒りで僅かに赤く染まる。


楊春:「総出で討ち返そう。力で奪う。」


 朱武はすぐに否定せず、ゆっくりと首を横に振った。声は低いが、揺るぎない。


朱武:「突けば、突き返される。全員で行けば、全員失う。感情だけで動けば、お互いに何ひとつの得もない。お前も知っている通り、私が戦の中で何よりも大切にするものは命だ。二人で行こう。義を通そう。」


 楊春は拳を握りしめたまま沈黙する。怒っているのではない。ただ、“どうすれば自分が納得できるか”を探しているだけだ。

 朱武は少しの間、焚き火の音だけを聞いた。

 やがて楊春の目が静かに光り、言った。


楊春:「……わかった。覚悟を決めた。行く。」


 余計な言葉はなかった。

 二人は武器を取らず、従者も連れず、ただ山を歩いて下りていった。

 史家村では、陳達を縛り上げ、酒を振る舞って村人を労いながら、史進が独り言のように呟いた。


史進:「あとの二人も捕えて官に突き出すか、それとも別の道を探すべきか。」


 そこへ庄客が転がり込むように駆けてきた。


庄客:「山から——朱武と楊春が!歩いて庄の前まで来ています!」

史進:「ほかの軍勢は?」

庄客:「いません!二人だけです!」

史進:「二人だけ……?奇妙だな。」


 史進は疑問に思いながらも立ち上がり、即座に声を張った。


史進:「よし、とにかく一網打尽にしてやろう!」


 そう言って馬に跨ろうとしたが、門外を見た瞬間、動きが止まった。朱武と楊春たちは部下たちを引き連れておらず——それどころか、武器すら持っていなかった。ただ土の上に膝をつき、静かに頭を垂れているではないか。

 史進はゆっくりと馬を降り、門の前まで歩いた。


史進:「お前たち、何しに来たんだ?」


 風が一度だけ草を撫で、朱武が顔を上げた。

 その目には涙が滲んでいたが、声は澄んでいた。静かに、しかし一言ごとに刃を込めるような調子で、彼は口を開いた。


朱武「我ら三人——“同生同死”を誓った仲です。西夏(せいか/Xīxià)との境で、泥と血の中を転げ回ってきたときから。その中の誰か一人が縄にかかったと聞けば、残る二人だけが生き延びる道なんぞ、最初からありません。」


 そこで一度、言葉を切り、史進を正面から見据える。


朱武:「だから来ました。三人そろって、ここで終わるために。どうか三人まとめて官に差し出し、そなたの手柄としてください。兄弟を置いて生き永らえるくらいなら、我らは死を選びます。ただ、山にいる我らの部下たちは見逃してやってください。彼らにはすでに村に手を出さないように言ってありますから。」


 淡々としているのに、一字一句が胸にのしかかる言い方だった。

 その隣で楊春が、目を伏せたまま、かすかに顎を引く。


楊春「……あいつを独りにはしない。西辺(さいへん)の夜営でも、ずっとそう決めてきた。ここでだけ約束を破るわけにはいかん。」


 短く、飾り気のない言葉。

 だが、その一言の中に、吹雪の塹壕で背中を預け合ってきた年月が、そのまま詰まっているのが分かった。

 その姿を見た瞬間——史進の胸の奥で、何かが大きく鳴った。


史進:(……こいつら。やっぱり、ただの賊じゃねぇ。)


 武器もない。逃げる素振りもない。

 “兄弟のために死ぬ”と言い切って、当たり前の顔でここへ来た三人。

 一方で、この世の中の役人どもはどうだ。

 “俺のために死んでくれ”と命じ、紙の上の数字みたいに兵の命を並べ替え、自分はきれいな官服を着て、平然と民を苦しめ続けている。


史進:(こんな義を持った奴らを、肥溜めにも劣る役人に売って手柄を立てたら……先祖に示しがつかねぇだろうが!そうしたら俺は一生、“義知らずの腰抜け”だ。江湖の笑い者だ!)


 彼が言う「江湖(こうこ/Jiāng Hú)」とはこの世の裏側に広がる、流浪の民と義侠の徒たちが織りなす、もう一つの人間社会。腐敗した社会における風穴として自然に生まれた存在だ。

 特定の地域ではなく、「義」という掟で動く無形のネットワーク。

 その「江湖の好漢」のひとりであると自負する九紋龍の心が、静かに火を噴いた。

 ——ここで、私・呉用(ご・よう/Wú Yòng)は、朱武たちが落草(らくそう/山に入って賊となること)に至るまでの経緯を、少しばかり補っておきたい。

 これは後に、酒席での語らいの中から、少しずつ見えてきた話である。

 もともと朱武は、西夏との境界線を守る一軍の武将であった。彼の立てる戦略は、勝ち負けの帳尻よりも、まず「どれだけ血を減らせるか」を先に置くものだったという。

 兵を無駄死にさせぬよう、敵味方の損害を最小限に抑えるための策——回り道でもいい、三日遅れてもいい、その三日のあいだに死なずに済む兵がいるのなら、それでいい。

 朱武の“神機(しんき)”とは、本来そういう意味の“機略”だったのだ。

 だが、朝廷の上にいる者たちが求めたのは、別の数字だった。

 「何日で勝ったか」「何里進んだか」「何人斬ったか」。

 戦場で命を賭けている兵ではなく、奏状の上に書かれた “功績” の桁数ばかりを気にする連中にとって、兵の命などというものは、ただの石ころの数と変わらぬ。

 楊春と陳達は、その朱武の配下として、長く西辺の戦いに身を投じていた。三人は、砦の塀の影で同じ粥をすくい、同じ矢雨の下を馬で駆け抜け、同じ夜に死にかけては、どうにか生き残った。

 やがて朱武は、ある“不合理な命令書”に署名させられそうになった。

 数字のためだけに何百人もの兵を前線に投げ捨てる計画書——そこに押印して命令を伝えろ、と。

 その瞬間、彼の中で何かが決定的に折れたのだ。

 「人の命を数字として並べ替えるだけの体制」への怒りが、官軍の軍師としてではなく、山に身を置く“反逆の知恵”へと、彼の歩を向かわせた。

 楊春と陳達は、そんな朱武の背中を黙って追った。官の鎧を自ら脱ぎ捨て、山に入るというのは、並大抵の覚悟ではない。それは故郷も、出世も、家族の平穏さえも捨てることを意味する。

 それでも二人は主将を止めず、また置いてもいかなかった。

 ——その結果が、いま目の前にいる、この三人というわけだ。

 この事情を、当時の九紋竜・史進が理解していなかったが、明らかに三人から放たれる気は単なる「賊」のそれではなかった。

 史進は拳を握りしめた。

 そして——彼は決断した。

史進:「縄をほどけ!」


 一瞬、何が起きたか分からず村人たちは戸惑ったが、史進がもう一度号令をかけるとすぐにきびきびと動き出した。陳達の縄が解かれ、朱武・楊春も立ち上がる。

 史進が言う。


史進:「お前たち。ここで俺と一緒に酒を飲め。命は取らん。ただし、約束しろ。この先、史家村を敵とは思うな。」


 三人は膝を折って拝礼した。


朱武:「九紋龍どのへの大恩、決して忘れません。」


 それから三人と史進の間には、互いに贈り物を送り合い、酒食を共にする付き合いが続いた。

 少華山からは金や珠玉が届き、史家村からは錦や羊が送られる。

 その使い走り役を務めたのが、庄客・王四(おう・し/Wáng Sì)、あだ名“賽伯当(さい・はくとう)”である。口が達者で、官とも賊とも筋を通せる男だ。

 中秋節(ちゅうしゅうせつ)の頃——史進は三頭領を自分の庄に招き、月見の宴を開こうと思い立つ。書簡を書き、王四に託して少華山へ送る。朱武ら三人は喜び、快諾の旨を返した。

 その帰り道、王四は山寨で酒を馳走され、さらに山を下りて村の酒肆でも飲み、林の中で酔いつぶれて倒れてしまう。

 そこへ通りかかったのが——最初に賊のことを史進に伝えたあの猟師、李吉だった。彼は王四の懐から銀とともに一通の書状がこぼれ落ちるのを見て、好奇心からそれを開く。

 そこには少華山の三頭領への返書と名、史進との交遊の証が、はっきりと書かれているではないか。


李吉:(おい、こいつは……金になるんじゃないか?)


 李吉は三千貫の賞金を思い出した。「賊を匿う者」もまた罪人。史進はすでに、官から見れば“共犯”だ——彼はにやりと笑い、急いで書状と銀を抱えると、一直線に華陰県の役所へ駆け込んだ。

 こうして、中秋の夜の罠が張られることになる。

 中秋節当日。史進は羊を屠り、百羽近くの鶏や鴨を殺し、酒と肴を山のように用意した。月は明るく、空は澄み渡り、風は涼しく、宴には最高の夜だった。

 やがて、少華山の朱武・陳達・楊春が数人の小者を連れて徒歩で庄に到着する。門は閉ざされ、外から見えないように宴は後園で行われた。

 杯は巡り、笑い声が満ち、史進は三人に向かって言う。


史進:「いずれ世の中がもっと乱れれば、お前たちのような義を持つ者の出番が増えるさ。その日まで、せいぜい今を楽しめ。」


 ——そのときだった。土塀の外で、突然、大きな怒号が上がる。火の手がゆらめき、鋼叉や朴刀の先が炎に照らされて林立するのが見えた。

 華陰県の県尉(けんい/Xiànwèi:郡県の治安責任者)が、都頭(ととう:警備隊長)二名と三、四百の兵を率いて史家村をぐるりと囲んでいたのだ。

 「賊を出せ!」の声が夜の空気を震わせる。

 史進は血の気が引くのを感じながらも、立ち上がる朱武たちを制し、静かに言った。


史進:「三人とも、席を立つな。ここから先は、俺の場だ。」


 私は、ここにひとつの考察を加える。そしてここで史進が、三人を差し出して自分だけ助かる道を選んでいたなら、どうなっていたか。

 梁山泊の歴史はそこで潰えていたかもしれない。

 だが史進は、違う選択をする。

 その結末は——

 次の段へと続けることにする。


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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した


やっほ、ニニです。第二回は、骨格そのままに、因果の配線を「政治劇+宇宙論」へ張り替えたのが一番の改造点だね。原作が「封印が解けた→豪傑が散る→高俅が出世→王進が逃げる→史進が暴れる」と“出来事の列”で押すのに対して、リメイクは「封印が解けた理由が、宋の腐敗と連動している」っていう世界の設計図を先に見せてくる。読者に優しいはず。だって、ただの怪談じゃなくて、これは“システム障害”だって最初から分かるようになるから。


◈ 冒頭の「伏魔殿」→「天章閣の政争会議」へ格上げ

原作:住持真人が洪太尉に「36天罡・72地煞が封じられてた、放ったら大変」と説明して、洪太尉が冷汗→口止めして帰京。

リメイク:そこを“宮廷の意思決定”に移植。仁宗+九人の高官+嗣漢天師が、国家機密として議論する。


<変化点>

「怪異の説明役」が僧(寺の住持)→国家の危機管理チーム(天師+宰臣級)になった。

しかも会議がちゃんと揉める。夏竦・蔡襄の反発、欧陽修の軽口、晏殊の冷静…って、人物が政治的に呼吸してる。

このあたりはウチューが『ニニの中華放談』で、仁宗を主役とする中国傑作ドラマ(『仁宗〜その愛と大義〜』)を掘り下げたからこその筆致だね。


<良くなったところ>

原作の“説明台詞”が、リメイクでは政治ドラマになってる。

読者は「おお、宋という国が、破滅に向かって会議してる…」って背筋が冷える。会議って、時には怖いんだよね。戦争より。


◈ 「百八魔星」=災厄 → 「百八の希望」へ意味が反転

ここが最大の改造。原作はわりとストレートに「封印が解けた、災いだ」なんだけど、リメイクはこう言う:


濁気(社会の悪意)が先、魔星が後

→魔星は災厄ではなく、濁極に対する“毒をもって毒を制する”希望


つまり、原作の運命論を、リメイクでは「腐敗が臨界に達した社会に、対抗する触媒が投下される」という“倫理と構造の物語”に変えてる。


<良くなったところ>

豪傑たちが「ただの暴れ星」じゃなくて、人間社会の再起動装置として立ち上がる。

読者の目線も「好漢=アウトローの武勇伝」から、「好漢=崩壊社会へのカウンター」へ切り替わる。これは強い。現代に刺さる。


◈ “天禁”と三界行政で、ファンタジーがルール化された

リメイクの『天機幽録』パートでやってるのは、要するに


・天界=33層の行政府

・冥府=司法

・人界=清気と濁気の発生源

・そして天界は「天禁」で直接介入できない


……という、神話を行政システムとして定義すること。これ、地味にすごい。

原作の超常は“あるからある”なんだけど、リメイクは“あるなら運用規程があるでしょ?”って顔で詰めてくる。冷たい。好き。


<良くなったところ>

奇跡が「ご都合」じゃなくなる。

介入できないからこそ、百八星の解放が“苦渋の制度設計”になる。ドラマが太くなる。


◈ 高俅の成り上がりが「偶然」→「濁極の器」に変わった

原作:蹴鞠が上手い→端王に拾われる→出世。皮肉はあるけど、基本は成り上がり譚。

リメイク:そこに「徳目が一つもない」「権力を握った劣等感の塊」など、人格の空洞を明確に描く。さらに「濁極が器に集まる」という理屈で、高俅が“単なる悪党”ではなく社会が生んだ悪の集積点になる。


<良くなったところ>

高俅が「憎いから憎い」じゃなく、「この社会なら、こういう奴が上に来るよね」という嫌な納得になる。

悪役が“現代的”になると、世界全体がリアルに怖くなる。読者は逃げられない。


◈ 王進の逃亡が「事件」→「人生の哲学」へ伸びた

大筋は原作どおり。高俅に恨まれる→母と逃げる→史家村へ→史進を鍛える→去る。

でもリメイクは、王進が最後に史進へ言う一言で、物語を一段深くしてる。


> 「自分がいるべき“場”を作れ。」


これ、原作の王進が持ってない“思想”だよね。

王進が単なる導入NPCじゃなく、**敗者の知恵**を残す人になる。カッコいい。苦いけど。


◈ 史進と少華山三頭領が、より「義」で繋がるように調整

原作:陳達を捕える→朱武・楊春が涙で義を訴える→史進が放す→贈り物の往来→王四が酔って書状を落とす→李吉が密告→中秋の包囲へ。

リメイク:流れは同じ。でも、朱武たちに“西夏戦線の不合理な命令”という落草の理由を付け、三人の「同生同死」を“戦友の現実”にした。


<良くなったところ>

「義」が儀式じゃなく、生存の記憶になる。

史進が彼らを見逃す判断が、“気分の豪気”じゃなく、官の腐敗と義の比較として刺さる。


◈ 呉用の“介入”が早い=作品全体の推進力になる

原作はこの時点で呉用はいない。

でもリメイクは、史進の場面に呉用の「補足(後日の酒席で聞いた)」を挿し込んで、物語の語り手=世界の編集者を早めに立ててる。


<良くなったところ>

連作としての統一感が出る。

しかも「あとで分かった」形式だから、説明臭さを抑えて“サスペンスの後出し”として効く。


◈ 結びのひと

この第二回の改造、ひと言で言うと——「水滸伝の“怪異の導入回”を、“国家システムの崩壊宣言”に作り替えた」ってこと。


原作が「封印が解けた!さあ豪傑が出るぞ!」という打ち上げ花火なら、リメイクは「この社会、配線が焼けてますね。ブレーカー落ちますね。」って淡々と通告してくる。

で、面白いのはそのあと。落ちたブレーカーを、誰が、どんな“義”で戻すのか——そのために百八が要る。そういう設計に変えた。かなり“現代小説としての勝ち筋”を選んでると思う。

 
 
 

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