- 光閃 上海蟹
- 2025年12月25日
- 読了時間: 36分

2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。
自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。
そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。
本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。
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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第十二回

"林冲、梁山泊で落ちぶれ身を寄せる/楊志、汴京で刀を売り歩く"
残雪がようやく晴れ、薄い雲がちぎれ始めた午後——
川べりには踏み固められた氷がまだ白く残る。その上に、二筋の「殺気」が向かい合って立った。
一方は、我らが豹子頭(ひょうしとう)、林冲。
もう一方は、見慣れぬ大漢(たいかん)である。林冲の目に飛び込んできたその男はひと目で只者ではないと分かる風体をしていた。
頭には范陽毡笠(はんよう・せんりつ/Fànyáng zhānlì)と呼ばれる厚手の帽子。てっぺんには、赤い房(ふさ)の飾りがひと束、風に揺れている。上半身には白緞子征衣(はくどんし・せいい)、つまり白い緞子の軍服。腰には細い縦縞の紐帯(じゅうたい)を締め、下は青と白の縞の脚絆(きゃはん)でズボンの裾をきっちりと押さえている。
獐皮(しょうひ)の靴下、毛のついた牛膀靴(ぎゅうぼうぐつ)。腰には一振りの刀、手には一本の朴刀(ぼくとう)。その体躯はおよそ七尺五、六。まさしく堂々たる大男だ。
何より特徴的なのは、顔に大きな青い痣(あざ)が走っているということ。そして頬のあたりには赤いひげがわずかにのぞく。
男は毡笠は後ろへ押しやって朴刀をぐっと突き出すと一喝した。
男:「おい、そこの賊!梁山泊はこっちか!」
ちょうどこのとき、林冲はいよいよ機嫌が悪かった。真面目に、誠実に、義を貫いて職務に全うしてきたこの身が、いまやどこにも身を寄せられぬ始末。
しかもここに来て、突然、見知らぬ男から極めて失礼な態度を取られた。確かに賊には違いない……だが、まるで犬を呼ぶような言い方をされる覚えはない。
私が少々断りを入れておけば、相手の男は決してここで無礼を働いたつもりはなく、ただもともとそのような無愛想な人間ゆえの態度ではあったが……人というのは多くの場合、誤解というものが争いに発展するものだ。
林沖:「誰に向かって、そのような口をきく!」
だが林沖、強い忍耐力でその怒気を沈めて、そのまま相手に朴刀を振り落としたいのを抑えて聞く。
林冲:「……お前は、楊家の者か。」
男:「なんだと?そうだとして、貴様に何の関係がある?」
林冲:「恨みはない。だが、生け捕りにせよとの命を受けている。ひとつ、手合わせを願おう。」
林冲の声には、挑発も憎悪もなかった。
ただ、避けられぬ事実を述べる静けさがあった。
次の瞬間——
林冲の目が鋭く見開かれ、虎のような髭が逆立つ。
彼は一歩踏み込み、朴刀を振り上げた。
重く、しかし無駄のない初太刀。
相手の男はこれを見て、咄嗟に飛び退く。
その動きは早いが、焦りはない。
同じく朴刀を構え、真正面から迎え撃つ。
残雪の川辺。凍った水面の上で、二本の影がぶつかり合う。
一往一来。
鋼と鋼がぶつかる乾いた音だけが、冬の空気を裂く。
林冲の太刀は、角度と間合いが正確だった。
力で押さず、呼吸を乱さず、相手の足運び、体重移動、癖を一つずつ拾っていく。
林冲:(……重い。)
腕に伝わる衝撃で、すぐに悟る。
林冲:(これは——人を斬って生き延びてきた重さだ。)
一方、男は男で、無言のまま攻め続ける。
技が洗練されている。
だがそれ以上に、とにかくその一撃一撃に迷いがない。
ここで倒す。ここで生き残る……
それだけを頼りに、刃を振るうといった具合。
そうして、かれこれ三十合——
どちらも一歩も引かず、勝敗は見えない。
林冲は焦らない。勝ちに行かず、崩しに行かず、ただ“壊れない間合い”を保ち続ける。
一方、男の息がわずかに荒くなる。
男:(ここまでの旅の疲れが出たか……)
ところが、体力で遅れをとり始めたかと思いきや、疲れが出るほどに男の動きのきれが増していく。戦場で培った「生き残る意志」の力だ。
これには林沖も心から感服する。そして、思う。
林沖:(純粋な技量であれば私の方が上かもしれんが……いかんな、本物の戦を知る者の動きは非常に手強い。“生け取り”という加減をこのまま続ければ、私の方が分が悪くなる……!)
楊志の動きが、さらに鋭くなる。
刃が速く、重く、容赦なくなる。
氷の上に火花が散る。
勝負が、まさに決するかという、その刹那——
山の上から、張りのある声が降ってきた。
王倫:「林教頭!そこまででよろしい!あなたの十分に実力はわかった!そして、相対する、その者!青面獣(せいめんじゅう/Qīngmiàn Shòu)の楊志(よう・し/Yáng Zhì)で間違いないな!」
林冲と楊志がその声を聞いて、ふっとお互いに輪の外へ飛び退いた。
二人が見上げると、山の尾根から白い衣をまとった書生風の男が数人の部下を連れて降りてくるところだった。
白衣秀士(はくい・しゅうし)、王倫(おう・りん/Wáng Lún)。その後ろには杜遷(と・せん/Dù Qiān)、宋万(そう・ばん/Sòng Wàn)。さらに、山寨の小頭目(しょうとうもく:小隊長)や小嘍囉(しょうろうら:雑兵)たちがぞろぞろと続いてくる。
王倫は感心したように二人を眺めながら言った。
王倫:「これ以上の戦いではどちらかが倒れてしまいかねなかった。それでは困るのだ。それにしても、見事な朴刀さばきだ。両者の腕前、深く感じ入った……さて、改めて聞くが、そちらは——」
大男が朴刀をすっと立て直し、落ち着いた声で答えた。
楊志:「俺は三代続く武門の家筋。五侯楊令公(ごこう・ようれいこう)——あの楊家将(ようかしょう)の楊令公(Yáng Línggōng)の孫に当たる。姓は楊(よう/Yáng)、名は志(し/Zhì)。関西(かんせい)に流れ流れて様をやつしている身だ。」
説明が必要だろう。
まずは知っての通り、楊令公(本名・楊業)とは忠烈にして悲運、一族の武勇と犠牲で宋代を支えた伝説的名将。私たちの宋の初期に活躍した軍人で、遼(契丹)との戦いで赫赫たる(かくかくたる)戦功を挙げるも、監軍の無能と政敵の策謀により孤立し、ついに捕虜となって絶食殉国したという人物だ。
楊令公の志は、息子や孫たち——いわゆる「楊家将」に受け継がれ、今も国境防衛に忠節を捧げている者が多い。この大男、楊志はそうした楊家将のひとりなのである。
彼は武挙(ぶきょ)に及第した後、殿司制使(でんし・せいし/diàn sī zhìshǐ/禁軍直属の近衛武官)にまで出世した。普通ならばここで功勲をあげながら不動の地位を築いていくところであるが——時代が時代。我らが生まれたのは宋からぬぐいきれない腐敗臭が漂う、第八代の道君皇帝(どうくんこうてい/Dàojūn Huángdì)、つまり徽宗の治世であった。
徽宗(趙佶)は、書画、特に「痩金体」と呼ばれる書や花鳥画に加え、詩文・茶道などの芸術全般に卓越した才能を持つ文化人である。この男が一介の官僚であったとしたら、後世に高く評価されたに違いない。ところが、これが皇帝であったことが悲劇である。奢侈と道教への傾倒に溺れ、政治には何の関与もしなかった。
こうして、政治の実権を握ることになったのが、高俅、蔡京といった奸臣たちである。民衆搾取と対外政策の失敗が続き、世は頭から尻尾まで腐敗し、濁気を極めることになった……
さて、そんな徽宗が夢中になっていたのが、万歳山(ばんざいざん)の造営。軍事拠点を作るというわけではない。皇帝という身分を忘れ去ったこの文化人は、ここで奇岩・名石を集めて庭を飾るという贅沢な遊びにふけっていたのだ。
民が災害や戦乱によって苦しみ、明日を生きることも難しいという窮地に瀕している者もいるのに、この皇帝は「自宅の庭を飾ること」に大金と貴重な人材を費やしていた。この状況を民がどのように思ったか。もはや、その激しい怒りや失望ついて、詳しく書く必要もないだろう。
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花石纲原没纪纲,奸邪到底困忠良。
早知廊庙当权重,不若山林聚义长。
花石綱の仕事は、もともと規律も秩序もないひどいありさまで、
その結果、奸臣たちは最後まで忠義の士を苦しめることになった。
もし最初から、
宮廷ではこうした者たちが実権を握るとわかっていたなら——
山林に身を寄せ、志を同じくする仲間と義を結んでいたほうが、
よほど良かったのではないか。
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とにかく、この愚かなる皇帝——徽宗は勅命をくだした。太湖(たいこ/Tàihú)から運び出した花石綱(かせきこう/Huāshígāng/皇帝の庭に供される巨岩・名石の輸送隊)を十人の制使で護衛し、都へ運べというものである。それらの珍しい岩や石を使って、宮廷の庭を豪華に仕上げたいという考えだ。楊志はその花石綱の事業の責任者、十人のうちの一人として任じられ、黄河までやってきた。
だが、楊志という男はここぞというときに、いつも運が悪い。(実はその現象、実は楊家将の一族が戦争により人の命を奪い過ぎているゆえ、神仏と冥府が彼の運を一時的に減退させていたことが後で分かるのだが……このときの楊志がそれを知る手立てはない。)
黄河の真ん中で突風が吹き荒れ、彼の船はひっくり返り、花石綱はことごとく沈んだ。
花石綱の積荷を失った以上、都に戻れば斬首(ざんしゅ)となる。それならば逃げた方がましだ……と思いきや、梁山泊という賊の勢力がこれらを回収したという噂が流れてきた。
梁山泊は話の分かる連中がいるとも聞く。それならば斬首になる前に交渉しても損はあるまい。というわけで、東京へ戻って枢密院(すうみついん/Shūmìyuàn/軍事を司る最高機関)へ出頭する前に、この梁山泊にやって来た。
——というのが、楊志の身の上であったというわけだ。楊志のこの行動はすでに朱貴の情報網によって知られていたので、事前に王倫も準備していたのだ。
楊志:「すべてが知られているというのなら、話は早い。お前らが回収したという岩や石を返して欲しい。部下たちも梁山泊の郊外で待機をしているゆえ、そこまで運んでもらえれば助かる。もちろん、ただでとは言わん。俺の資産をすべて開け渡す。どうだ。」
王倫は笑った。
王倫:「楊制使(よう・せいし)、俺が数年前に東京へ科挙見物に行ったときから、あなたの名前は何度も耳にしていた。まさかこんな山中で会えるとはな。せっかくのご縁だ。例の岩などはまとめてそっくりお返しする。もともとあんなものを持っていたところで、俺たちには価値がない。資産も不要。それより……山上の寨に上がって水酒(みずざけ)でも三杯付き合ってくれないか。一度、ゆっくり話してみたいと思っていたのだ。」
楊志は礼をせず、ただ憮然と少し肩をゆらしただけだった。
楊志:「あれらを返してくれるならありがたい。それだけで結構。酒も振る舞わなくて良い。」
王倫:「いやいや、俺たちがどうして楊制使を空手で帰すことがあろうか。他意はない。ほんの『顔合わせ』だ。梁山泊の古い主としてのささやかな礼儀と思ってくれ。」
王倫はしたたかな男である。楊志に恩を売っておけば、朝廷における梁山泊の立ち位置が少しでも有利な方面に働くと思ったのだ。それどころか、今回の貢献によって「招安(しょうあん/Zhāo ān:罪の帳消しと王朝軍への帰属)」すら受けられるのではないかとも考えていた……
とにかく楊志は王倫の誘いを受けることにした。
一行はそのまま山道を登り、梁山泊の寨(とりで)へ到着した。
聚義堂(しゅうぎどう)——
ここは義兄弟が集まる大広間である。
左側には四つの交椅(こうい/肘掛け椅子)。上座から順に、王倫、杜遷、宋万、そして朱貴。右側には二つの交椅。上座に楊志、下座に林冲。それぞれが腰を下ろし、雪解け水の冷気を含んだ空気の中に、微妙な緊張と期待が漂った。
王倫:「羊をしめろ、酒を温めろ!客人をもてなすぞ!」
王倫の声で山寨中が動きはじめる。
肉が刻まれ、鍋が煮え立つ。粗末ではあるが精一杯の料理が並ぶ。
酒が数巡を過ぎたあたりで、王倫は胸の中でさらに別の算盤を弾き始めていた。
王倫:(林冲を残したままでは、俺の器量の小ささが丸見えだ。だが楊志を引き入れ、二人を互いに牽制させれば山の均衡は保たれるというもの。何とか楊志にここに残ってもらえないか聞いてみよう。)」
そこで、楊志に向き直る。
王倫:「すでにご存知かもしれませんが、こちらの兄弟は、東京八十万禁軍(きんぐん/Jìn jūn)の教頭、林冲どの。あの高太尉(こう・たいい/Gāo Tàiwèi:軍権を握る太尉)が善人を忌み嫌い、わざと事をでっち上げて滄州へ刺配(しはい:流刑)にした。そこでもまた刺客に襲われ、最近ここへ逃れてきたところだ。」
楊志は相変わらず憮然とした表情で、とくに何も返事をしない。林沖も話さぬ方ではあるが、この男はさらに寡黙である。
構わず、王倫が続ける。
王倫:「さて、楊制使。あなたは東京へ戻って本来の職を取り戻そうとしているが──この王倫の目から見れば、それはあまり得策ではない。俺も一度は科挙の道を捨て、こうして山に入った。あまりに朝廷が腐っているからだ。そちらの杜遷、宋万、朱貴も、歪んだ世ゆえに追い詰められて、ここに来たという手合い。あなたも、仮に罪が許されても、おそらくこれ以後、まともな評価をされないであろう。何よりあの高俅——あの者が軍権を握っている今、一度大失敗をしたお前を再び用いようとはすまい。となれば……ここで馬を休め、金銀は大秤(おおざお)で量り、酒肉は大碗で食い、ともに好漢として生きる。それも一つの道ではないか?制使殿の胸中やいかに?」
楊志は、静かに杯を置いた。
楊志:「頭領方のご厚意、骨身にしみている……しかし、俺には家柄の名誉というものがある。花石綱の任をしくじったまま、ひとりでここに落ち着いてしまえば、俺は家名に泥を塗りつけることになるだろう。だから一度はどうしても東京へ戻り、けじめをつけねばならん。」
王倫は、肩をすくめて手をひらひらと振った。
王倫:(どうせ高俅のことだ。楊家の末裔だからこそ危険視をして、これを機会に追放を企むだろう……俺も高俅と同じような手合いだからよく分かる。こいつは行き場をなくして、いずれまた山に戻ってくることになる。)
こう考えて、王倫はあっさりと手を引く。
王倫:「承知した。無理に引き留めることはすまい。もちろん、約束通り、花石綱の積荷はそっくり返そう。今夜はここに泊まって英気を養い、明け方に山を下りるがいい。」
楊志は表には出さなかったが、胸の底で大きく息をついた。
その夜は遅くまで杯を重ね、ようやく身体の緊張がほぐれていった。
翌朝——
ふたたび羊が屠られ、送別の酒が並ぶ。
小嘍羅たちが昨日の荷を担ぎ、全員で山を下り、川辺まで見送った。
王倫:「ここから先は、小嘍羅が大路まで送っていく。道中、くれぐれも気を付けられよ。」
楊志は一礼して礼を述べ、小嘍羅とともに小舟で対岸へ渡った。
大路に出ると部下たちと合流し、梁山泊での経緯を簡潔に伝えたうえで積荷を担がせる。山へ戻る小嘍羅を見送ると、数十人の部下と共に、ひたすら東京を目指して歩き出した。
数日後——
彼らはついに東京の城門をくぐる。まずは客店に部屋を取り、荷を運び込むと、ようやく腰刀と朴刀を解いて一息ついた。
それから数日のあいだ、楊志は枢密院(すうみついん:軍政機関)に顔を出し、旧知を頼っては贈り物を配り歩く。花石綱の失敗を、何とか埋め合わせようと、できる限りの手を尽くしたのだ。
梁山泊から運び返した積荷は、すでに殿帥府(でんすいふ:禁軍指揮所)へ送られていた。
高俅は、運び込まれた荷をただ眺めながら、胸の内で冷ややかに笑う。
高俅:(楊家将の楊志か……。楊家の連中は、どいつもこいつも「忠義」だの「祖先の名誉」だのとうるさい。名門ゆえに、かえって扱いづらい種だ。それに、あの男——前から生真面目すぎて面白くない。俺に頭を下げもせず、賄賂も回さず、ただ黙々と任務をこなすばかり。国に忠である者は、いずれ俺のような権臣を敵と見る。放っておけば、林冲の二の舞で、俺に牙を剥く日が来るやもしれん……ならば、今が切り捨て時か。)
そう考えると、高俅は側近の従者をそっと呼び寄せ、声を潜めて命じた。
高俅:「これらの荷だがな……適当な近くの山か森にでも運び出して、そのまま捨ててこい。」
従者:「えっ、官家(徽宗)への献上品では? 本当に、よろしいので……」
言い終わらぬうちに、高俅の表情が鬼のように歪む。
薄く笑いながら、しかし声は氷のように冷たい。
高俅:「いま、俺がなんと言ったか。“捨てろ”と命じたら、黙って捨てるのだ。余計な口を利くな。」
従者たちは青ざめて頭を下げ、荷を運び出していった。
その翌日——
楊志のもとへ、殿帥府からの知らせが届いた。「書類が整ったので、すぐに府まで参上せよ」とある。
楊志は衣を改め、急ぎ殿帥府へ向かった。
高俅の前に進み出ると、胸の奥で固く息を呑む。
楊志:(苦労はあったが、花石綱は無事に戻した。罪は罪として、最悪でも減俸や左遷で済むはずだ……楊家の名を背負っている以上、まだやり直せる。)
かすかな楽観が、心のどこかに残っていた。
だが、高俅はその顔を見るなり、いきなり怒声を浴びせた。
高俅:「花石綱を押送した制使十人のうち、九人はとっくに京に戻り、無事に献上を済ませておる!ただ一人、お前だけが失敗し、船をひっくり返し、花石綱を水の藻屑にしたのだ!その大罪を、どう始末するつもりだ!」
平素あまり顔色を動かさない楊志も、その言葉にはさすがに血の気が引いた。
今はただ伏し拝して、必死に弁明するしかない。
楊志:「どうか聞いてくれ。黄河の荒波に遭って船が転覆したのは、すでにお伝えした通り。だが、その後で梁山泊から積荷を取り返し、こうして都まで運び戻した。この一命を賭して職責を果たしたと見て、何卒、制使としての任を残して欲しい。」
だが、高俅の瞳には、憐憫の色すら浮かばない。
高俅:「ふん……罪を素直に認めようとしないのはどういうわけだ。花石綱を失い、長く行方をくらました挙げ句、のこのここうして戻って来おったと思ったら、積荷は都に運んだなどと嘘をつく。お前が大した度胸の持ち主だということは認めよう。だが、そんなわかりきった嘘をついて何の意味がある?」
楊志:「いや……しかし、積荷は確かに……」
高俅:「黙れ!この青あざ顔め!罪を認めぬ男をどうして再び任用できようか!これまでの功績に免じて極刑だけは許すが、武官としての資格を剥奪する!都から去れ!」
そう吐き捨てると、高俅は筆をとって、文書の末尾に一字だけ、ぞんざいに書きなぐった。
「——不許。」
そして、その文書を楊志の目の前に突き返す。
高俅:「以上だ。下がれ。」
楊志は、殿帥府の門前まで、半ば追い立てられるように外へ放り出された。客店へ戻ると、衣の埃も払わぬまま、暗い部屋の片隅に腰を下ろす。
先ほどまでは訳がわからなかったが……楊志はやっと一息ついて、自分が高俅の罠にはめられて追放されたことを悟った。
楊志:(これで俺は完全に家名を汚すことになったのか……事実を誰かに訴えるか?いや……林教頭と同じこと。開封府に訴え出たところで、叩き潰されるのがオチだ。それに俺は家名こそあるが、大した後ろ盾や銭があるわけでもない。勝ち目がない……くそ、王倫の言った通りだったかもしれん……)
しばし、何も考えられず、ただ天井の煤けた板を見つめる。
胸の奥から、じわじわと苦いものが込み上げてきた。
楊志:(だが——俺は“楊家将”の血を引く身じゃないか。父母が授けてくれた清白な姓を、山賊の旗で汚したくはない。一身の武芸をもって辺境の前線に立ち、一槍一刀で功を立て、家を興し、祖先の名に恥じぬ道を選びたい……それが……もう叶わないというのか……)
脳裏に、雁門関の烈風、祖先たちが馬を駆ってゆく姿が一瞬よぎる。
だが現実の楊志は、小さな客店の一室で、膝の上に置いた両手をただ見つめるばかりだ。
楊志:(おのれ、高俅……お前の毒は、どこまで深いのだ……)
そうしているうちにも、一日、また一日と宿賃はかさみ、懐の金はみるみる減っていく。
腰のあたりでは、家宝の金花嵌龍宝刀の重みだけが、妙に生々しく存在を主張していた。
あくる日——
とうとう楊志は、ふとその刀を見つめて思った。
楊志:(これは祖先から受け継いだ宝刀。戦場でも、流亡の旅でも、常に腰から離さなかった一振りだ。俺の命が尽きるまで、当然手放すつもりはなかったが──こうなっては仕方ない。これを売り、二千貫ほどを作って、他所へ移るしかない。うまくいけば、現地で登用される機会もあるはずだ。)
そう決心すると、楊志は刀に草札をさし、街へ出た。
最初は馬行街(ばこうがい:馬商の通り)に立ったが、半日近く突っ立っていても誰ひとり声をかけない。
いや、声をかけられないのだ。すでに「楊家将の楊志が高俅の怒りを買って失職した」という噂が街を駆け巡っている。そんな彼を手助けするような真似をすれば、高俅から目をつけられるに違いないのだ。
仕方なく、日が下りかけてから楊志は場所を変え、天漢州橋(てんかんしゅうきょう)近くのにぎやかな通りへ立った。ここは買い物客や物売りでごった返し、人の波が絶えない場所だ。
そこへ突然ざわめきが走った。
「大虫(おおむし:大虎の意味)が来るぞ!早く隠れろ!」
左右の人々が蜘蛛の子を散らすように横丁へ逃げ込んでいく。
楊志は東京に来たのは久しぶりで、いったい何のことを言っているのかさっぱり分からない。
楊志:(大虫だ?城市にいて、どうして虎が出てくるんだ?)
そう思いながら立ち止まると、遠くから黒々とした影がふらつきながら近づいてくる。
半ば酔っているのか、一歩ごとに体が揺れている。
近づいてくると、その異様さが分かった。
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面目依稀似鬼,身持仿佛如人。枒杈怪树,变为肐肐形骸;臭秽枯桩,化作腌 魍魉。浑身遍体,都生渗渗濑濑沙鱼皮;夹脑连头,尽长拳拳弯弯卷螺发。胸前 一片紧顽皮,额上三条强拗皱。
顔つきはどこか鬼のようで、
ふるまいはかろうじて人間のようにも見える。
枝がねじれた異形の木が、
そのままごつごつした人の形に変じたようで、
腐って悪臭を放つ切り株が、
ぬめった魍魎(もうりょう)に化けたかのようだ。
全身の皮膚は、ざらざらと湿った魚の鱗のようで、
頭からこめかみにかけては、
ぐるりと巻き付くように、拳のように節くれた巻き髪が伸びている。
胸には硬く締まった一枚皮が張りつき、
額には、どうにもならない頑固な三本のしわが深く刻まれている。
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これが、近頃の京師(けいし)で悪名を轟かせている破落戸(はろうこ)、没毛大虫(ぼつもうだいちゅう)——毛の抜け落ちた虎と渾名される牛二(ぎゅう・じ/Niú Èr)であった。
牛二は、日がな一日、街をうろついては些細な因縁をつけ、露店の商い、通行人の荷、果ては言葉遣いにまで「法」を持ち出して噛みつく。
そして相手が一歩でも退けば、それを「義の勝利」として殴りつけ、金を巻き上げる——そんな男である。
喧嘩沙汰は数知れず、本来であれば何度も牢に放り込まれてしかるべきだが、この男には後ろ盾があった。
高衙内(こう・ごない/Gāo Yánèi)——高太尉の養子の取り巻きなのだ。その名一つで、役人は目を伏せ、訴えはいつも闇に消えた。開封府(かいふうふ/Kāifēng Fǔ)ですら、この男には及び腰である。
町の人々は囁き合った。この都では、高き者に連なるだけで、法も正義も自在に曲げられるのだ、と。
だが、怒りは声にならない。誰もが、自分の身がいちばん大切であった。だから牛二が通ると知れば、商いの声は消え、戸は閉ざされ、人々は目を伏せて息を殺す。それが、この街に残された唯一の抵抗だった。
その日もそうであった。
だが牛二は、人波の中からただ一人、逃げず、退かず、視線を逸らさぬ男を見つける。
楊志だ。
牛二は、にやりと笑い、まるで「規則を教えてやる役目」でも負ったかのように近づいて、怒鳴り上げた。
牛二:「おい、刀売りよぉ!どこの誰に許可を取って商売をしていやがる!?誰彼が堂々と往来で物売りをし始めたら、ほかの店が迷惑するだろうがぁ!?」
陰からこの様子を見ている店の者たちは「どの口が言うのか」と強い怒りを覚えるも、
楊志は平然として聞く。
楊志:「誰だお前は。」
牛二:「牛二だよ!知らんのか!?」
楊志:「知らん。」
牛二が目をぎょろりと動かしてから、また叫ぶ。
牛二:「こんなところで何を売ってやがる!?」
楊志:「刀だ。お前もさっき、自分で俺のことを『刀売り』だと言っただろう。もう忘れたのか。」
牛二:「違う!ここで売るなという意味で言ったのだ、バカめ!」
楊志:「バカはお前だ。俺が刀を売ったからと言って、何の法に反するというのだ。」
牛二:「ここで商売をするには許可がいるのだ!」
楊志:「確かに一定規模の商売は、往来における無許可での営業を禁じている。だが、地に物を置かない小規模な行商についての定めはない。俺はもともと官だ。その手の取り締まりにも詳しい。」
牛二がいまにも殴りかからんばかりに怒りで沸騰する。
そして、また叫ぶように言う。
牛二:「この青あざ顔め!やはり俺をバカにしているのか!」
楊志:「うるさい。これだけ近くにいるのだから、そう大きな声を出すな。それで、お前は刀を買うのか、買わないのか。買わないのなら向こうに行け。」
牛二:「そいつはどんな刀なんだ、あぁ?」
楊志:「先祖伝来の宝刀だ。三千貫で売る。」
牛二:「何だと、三千貫だと?こんなクソ刀にか?三十文の包丁でも肉は切れるし、豆腐も切れる。お前の刀のどこが“宝刀”だ?」
楊志:「俺は楊家将の楊志。それは家に代々伝わる刀だ。」
牛二:「へえ!じゃあ俺様も楊家将の楊二だ。何とも言える!」
楊志:「俺は嘘は言わん。これは店先の白鉄の刀とは違う。」
牛二:「け!どう“宝”だって証明できるんだよ?」
楊志:「三つ、特徴がある。一つ目、銅を斬り鉄を断っても、刃こぼれしない。二つ目、“吹毛得過(すいもうとっか)”。髪の毛を撫でるだけで切り落とせる鋭さ。三つ目、人を斬っても、刀身に血がつかない。」
牛二が馬鹿にしきったわざとらしい大笑いをする。
牛二:「大層なことを言いやがる!ならよ、ここで試してみろ。」
楊志:「よかろう。」
楊志は州橋の下にある香辛料屋へ行き、二十枚の銅銭を三十文で買って、一束にして橋の欄干に置いた。
牛二:「斬れたら三千貫でも四千貫でもくれてやるよ!」
おそるおそる、遠目から野次馬たちが集まり始めた。
楊志は袖をまくり、刀を構えた。
狙いを定め──
ひと振り。
ざく、と音を立て、銅銭の束はきれいに二つに割れた。
どよめきが起きる。
牛二:「けッ……騒ぐほどのことか!二つ目は何だ?」
楊志:「吹毛得過。髪の毛を数本、刀の刃に乗せて吹けば、空中で真っ二つに切れる。」
牛二:「馬鹿なことを言いやがる!試してみろよ!?」
牛二は自分の頭から一束ほど髪をむしり取り、楊志に渡した。
楊志は左手で髪を受け取り、刀の刃の上に軽く乗せると、息を吹きかけた。髪は空中ですっと二つに切れ、ひらひらと地面に落ちた。
群衆から再びどよめきが巻き起こる。
牛二:「……ふ、ふん……まぁいい。で、三つ目は何だ!」
楊志:「人を斬っても、刀に血がつかない。」
牛二:「そんなことができるわけがない!」
楊志:「できる。斬り口があまりにも鋭く、肉が血を出す前に断ち切られる。俺の技とこの刀の力があってこそ、これが成り立つ。」
牛二:「それで?どう証明する?」
楊志:「豚でも連れて来れば──」
牛二:「お前は“人を斬る”と言った!豚を斬るとは言っていない!」
楊志:「買わないのなら、ここまででよいではないか。いつまで俺に絡んでくる。」
牛二が突然、楊志の胸ぐらを乱暴につかみ上げた。
周囲の空気がぴたりと凍りつく。
牛二:「この刀、気に入った。なぁ、俺様にくれよ。」
楊志:「欲しければ金を出せ。」
牛二:「金はねぇ。」
楊志:「金もない者が、なぜ人の刀を奪おうとする。」
牛二:「おい、てめえ……俺様が誰だか、わかってんのか?」
楊志:「だから、知らんというに。」
牛二:「ハッ!生意気な口ききやがって。楊家将だぁ?笑わせんな。家宝の刀を売り歩く落ちぶれ野郎が、何を気取ってんだよ。そんな代物、お前が持つ資格なんざねぇ! ほら、さっさと寄越せ!」
その言葉は、楊志の胸に刃のように突き刺さった。
気づけば、彼は牛二を思いきり突き飛ばしていた。
牛二は地面に転がり、砂埃を巻き上げる。
だがすぐに立ち上がり、狂ったような顔で楊志に飛びかかってきた。
楊志:「やめろ!」
牛二の腕が楊志の帯をつかみ、刀を奪おうともみ合いになる。
楊志は大声で叫んだ。
楊志:「街の衆、見たであろう!この楊志、旅の途上、やむなく刀を売ろうとしているだけだ!事情は皆知っているはず!それを、この破落戸は奪おうとし、殴りかかってきた!宋に真の法はないのか!真の義はどこにもないのか!」
広場がざわめく——しかし、誰も近づかない。
誰もが牛二を恐れ、息を殺して見ている。
楊志の心が、激しく揺れた。
胸の奥から、ここまで押し殺してきた何かが、むくむくと顔を出す。
楊志:(俺は楊家将の末裔として、国に尽くしてきた……それが、あの馬鹿げた花石綱で家名を汚され、いまでは家宝を手放すほどに落ちぶれた。……この男はいま、何と言った?“クソ刀”? “落ちぶれ野郎”?許されん……俺も家も、踏みにじったこの男……生かしておけるものかッ!)
牛二:「ほらよ、一発、くれてやる!」
拳が振り上げられた瞬間——
何かが、楊志の中でぷつりと切れた。
次の呼吸には、すでに刀が手にあった。
閃光。
刃が喉を貫いた。
牛二の体が震え、どさりと地面に崩れ落ちる。
楊志は止まらなかった。
胸に二度、三度、無言で突きを重ねる。
あたりに、悲鳴のような沈黙が広がった。
「せ、制使どの!」
誰かの声が飛び、楊志の意識を呼び戻した。
彼はようやく我に返り、息を飲んで刀を静かに収める。
血は、一滴もついていなかった。
楊志は、動かなくなった牛二の大きな体を見下ろし、深く息を吐いた。
楊志:「皆、聞け。この破落戸は——俺が責任をもって殺した。お前たちを決して巻き込まぬ。ただ、既に死人となった以上、開封府へ行き、事の次第を証言してくれぬか。」
人々はおそるおそる近づき、頷き合い、静かに後へ続いた。
開封府——
ここでは、ちょうど府尹(ふいん:長官)が公事を裁いていた。
楊志が刀を前に置き、ひざまずいて言上する。
楊志:「俺は殿司制使だった。花石綱を失った罪により職を奪われ、盤纏も尽き、やむなく刀を売ろうとしていた。そこへ破落戸・牛二が現れ、刀を奪おうと暴れたため、一時の怒りに駆られて斬り殺した。ここにいる者たちすべてが、証人となってくれる。」
町の者たちも、皆、同じ供述をした。
府尹は眉をしかめ、やがて静かに言う。
府尹:「自ら出頭したため、門杖は免じてよい。ただちに長枷を掛け、死囚牢へ送れ。」
同時に仵作(うさく:検死官)と役人が天漢州橋へ向かい、牛二の遺体を検分した。
証言はすべて一致し、楊志の供述に矛盾はなかった。
証人たちは書面を残して解放され、楊志だけが死囚牢の鉄扉の向こうへ連れていかれた。
死囚牢は、地獄の手前にもう一つだけ存在する、冷たい暗部だ。
黄髭の節級(せつきゅう:牢番)が麻縄を結び、黒顔の押牢(おうろう:監守)が鉄鎖と枷を運ぶ。
ふと見やると、囚人を傷みつけるための殺威棒が壁に立てかけられている。
……だが、牢番たちはひそひそと囁き合う。
「……あれが、牛二を斬った男か!」
「よくやったもんだ!あの害虫、誰も手が出せなかった!」
「肝の据わった好漢だ!」
彼らは楊志に賄賂を要求しなかった。
むしろ必要以上に粗末に扱うこともせず、そっと世話を焼いた。
——人というのは、不思議なものだ。
どれだけ腐敗臭が広がっていても、義の炎もまたすぐに伝播する。
天漢州橋の近くの大店や豪家の者たちも、“街の害虫を斬ってくれた”と聞くと、自然に金を出し合い、銀と銭をまとめて牢へ差し入れた。
こうして楊志のもとに食事も不足なく届き、一部の銭は牢番への礼にも回った。
推司(すいし:取り調べの責任者)も楊志を“身の立つ好漢”と見ていて、同情的である。
一方、死人となった牛二には訴え出る家族もいない。高衙内としてもそこまで立ち入るほど親密だったわけではなく、今回は自分に累が及ばぬよう素知らぬ顔を決め込んだ。こうなると実害があるわけでもなし、高俅もまた何も関わりを求めなかった。
このような事情で、調書は「一時の喧嘩による誤殺」と軽く書き換えられた。そして六十日の期限を待って、三度六度の取り調べを経たのち、ようやく刑が決まった。
その日──
楊志は大庭へ連れ出され、長枷を外され、脊に二十の棒を受けた。これは殺人の刑罰としてはあまりに軽いものであると言える。
その後、文墨匠(ぶんぼくしょう:刺青師)によって顔の左右に二行の金印(刺青)を刻まれ、北京大名府(ぺきん・だいめいふ/Dàmíng Fǔ)留守司(るすし:地方軍政を統括する機関)への流罪が言い渡された。これもまた流刑地の中では非常に整った場所であり、林沖が向かった僻地とは雲泥の差だ。
しかも、楊志の宝刀・金花嵌龍宝刀も没収されず、そのまま所持することが許された。
開封府はその場で文牒(ぶんちょう:移送命令書)を作り、二人の防送公人(護送係)を任命した。張龍(ちょう・りゅう/Zhāng Lóng)、趙虎(ちょう・こ/Zhào Hǔ)である。
楊志には七斤半の鉄の板でできた護身枷(ごしんかせ)が嵌められた。頭と胸を押さえつける重い“鉄の首輪”。
そのとき──
天漢州橋の近くの大店や豪家の者たちが、再び銀と物を持ってやって来た。彼らは二人の公人を酒楼へ招き、酒と肴でもてなしたうえで言う。
「楊志殿は、街の害を一つ取り除いてくださいました。」
「いま北京へ流される身ですが、どうか道中、よく面倒を見てやってください。」
「これが、ささやかな心づけです。」
張龍と趙虎もまた楊志をすでに“好漢”と見ていた。これもまた非常に珍しい事態である。
徽宗の治世、特に高俅が多くの権力を牛耳ってからは、防送公人が罪人に同情することは皆無であった。下級役人たちは次第に人の心をなくし、ただ利己的に生きることのみを歪んだ信条とし始めていた。
ところが、少し前に起きた林沖の事件。あれが湖に石を投じたように、静かな義の波紋を広げていた。「この世は歪んでいるのではないか」「間違いを正すべきときが迫っているのではないだろうか」——このような炎が、今回の町の人々にも、張龍と趙虎にも灯り始めたのだ。
張龍が真剣な顔つきで言う。
張龍:「我々としても、あの男が街の害虫を斬ったことは聞いている。安心なされい。余計なことを言わなくても、粗略に扱う気はない。」
楊志はその場で街の人々に深々と礼をした。
余った銀はすべて楊志の手に渡り道、中の盤纏(ばんてん:旅費)とすることが許された。
出発前、人々は楊志をしばし呼び留めて、薬師を呼び、棒傷の膏薬を買った。人々はその薬を刑罰により痛めた彼の背中にあてがった。
こうして、三人は北へ向けて出発した。
五里ごとに立つ単牌(たんぱい)、十里ごとに立つ双牌(そうぱい)を越え、どの州、どの県に着いても、楊志は銀を出して酒と肉を買い、二人の公人と穏やかに分け合って食べた。
夜は旅籠で眠り、朝は早く発つ。
そうして数日後、北京大名府の城門が見えてきた。
大名府留守司——
ここは「上馬管軍、下馬管民(馬に乗れば軍を統率し、 馬を降りれば民を治める。)」と言われるほど、良き統治がなされている権勢のある役所だ。
ここの留守(るす:長官)は梁中書(りょう・ちゅうしょ/Liáng Zhōngshū)。名は世杰(せいけつ/Shìjié)。東京の当朝太師(とうちょうたいし:皇帝の最高顧問、高俅よりも高位の権臣)である蔡京(さい・けい/Cài Jīng)の娘婿である。
そして、二月九日——
梁中書が廳(ちょう:役所)に出ているとき、二人の公人が楊志を連れて留守司の廳前に跪いた。開封府からの文書が差し出され、梁中書は目を通す。
楊志の名を見た途端、ふと顔を上げて言う。
梁中書:「楊家将の楊志か……いや、これまたどうしてこのような場所に囚人として参った?」
じつは梁中書、東京にいた頃に彼の評判を耳にしていた。家門の良さはもちろんのこと、当人の武人としての腕前にも興味があり、機会があれば共に仕事をしてみたいと思っていたのだ。
楊志はそんな梁中書からの質問を受け、災害により花石綱の任を失敗したこと、梁山泊で積荷を回収したが高太尉にはめられて追放されたこと、宝刀を売るために街に立ち、牛二にからまれて斬り殺したこと、これらの経緯を一つ残らずしっかりと話した。
梁中書はしばらく黙って聞き、やがて笑みを浮かべた。
梁中書:「そうか。高太尉に睨まれているのなら、もはや東京にそなたの居場所はないと考えるべきだろうな。だが、安心なされい。ここで私が用いよう。」
そう言うと、梁中書はその場で楊志の枷を外させた。そして二人の公人には押印済みの文書を渡し、東京へ帰らせた。
それからの日々、楊志は梁中書の身近でせっせと雑務をこなした。勤勉で口数も少なく、礼を失することもない。
これにて梁中書は彼を大いに気に入り、内心こう思うようになる。
梁中書:(どうにかして、彼を軍中の副牌〈ふくはい:副隊長格〉に引き上げてやりたいものだ。軍営はさらに活気を帯びるであろう。だが……いきなり彼の格上げをすれば他の者が面白くないだろうな。)
しばし考えた後、また梁中書がこう考える。
梁中書:(うむ、それなら公開の場で腕前を示させればいいのだ。腕比べといこう。)
これを早速、軍政司に命じる。
梁中書:「翌日、東郭門外の教場で大規模な演武を行う。準備をするように。」
その夜──
梁中書が楊志を呼び出して言う。
梁中書:「正直に言ってくれたまえ。そなたの武芸、どれほどのものなのか。」
楊志が平伏して答える。
楊志:「俺は武挙に合格し、ご存知の通り、かつては殿司制使としての職をまっとうしていました。十八般武芸(じゅうはっぱん:槍・刀・弓・騎射など一通り)は、楊家将の血を引く身として幼いころから叩き込まれております。」
梁中書:「なるほど。それで、ここでより活躍したいという思いはあるか?」
楊志:「いま、恩相(おんしょう:梁中書のこと)にこうして拾っていただけたのは、まさに雲間から日が差す思い。もし一歩でも進ませていただけるなら、命を賭して何なりとお仕えする覚悟です。」
梁中書は、満足げに頷き、楊志に一副の衣甲(いこう:鎧一式)を与えた。
そして、翌朝——
風は穏やかで、陽だまりは少しずつ春の気配を帯び始めていた。
梁中書は楊志を従えて馬に乗り、東郭門外の教場へと向かう。教場ではすでに大小の武官たちが整列していた。
演武廳の前で馬を降りると、正面には一脚の渾銀(こんぎん)の交椅(銀張りの肘掛け椅子)が堂々と据えられている。
梁中書がそこに座り、左右に二列の官員が並ぶ。指揮使(しきし)、団練使(だんれんし)、正制使(せいせいし)、統領使(とうりょうし)、牙将(がしょう)、校尉(こうい)、正牌軍(せいはいぐん)、副牌軍(ふくはいぐん)……
こうして百人の将校がぐるりと取り巻いた。
そして正将台の上には、二人の都監(とかん:監督官)が立つ。
李天王(り・てんおう/Lǐ Chéng)、聞大刀(ぶん・だいとう/Wén Dá)。いずれも万夫不当の勇を持つ猛将で、当日は自ら軍を率いて参じている。
やがて、将台に黄旗が掲げられる。左右には金鼓手(きんこしゅ:太鼓・銅鑼を鳴らす係)が数十組ずつ並び、号角と太鼓が三度鳴り響く。
続いて浄平旗(じょうへいき:整列の合図)が立てられ、五軍が一斉に整列する。引軍の紅旗が振られると、五百の歩卒が二列に分かれ、それぞれ武器を手に構える。続いて白旗が振られると、騎兵たちも馬を揃えて前面に並んだ。
ここで教場の中が水を打ったように静まり返る。
そこに、梁中書の声が響き渡る。
梁中書:「副牌軍・周謹(しゅう・きん)、前へ!」
周謹「ははっ!」
右の陣から、周謹が馬を駆って前へ進み出て、馬から飛び降りて跪く。
梁中書:「周謹、本日の演武、まずはお前の武芸を皆に見せてみよ。」
周謹:「御意!」
周謹は槍を手に取って馬に飛び乗ると、演武廳の前で左へ、右へと円を描きながら槍を繰り出した。
八方槍、回風槍──
次々と槍術を披露するたびに、周りからどっと歓声が上がる。
梁中書は、そこで声を上げた。
梁中書:「東京から配流されてきた軍健・楊志、前へ!」
楊志は廳前に進み出て、声高く喏して跪いた。
梁中書:「お前はもと東京殿司府の制使。罪を犯してここへ配されたが──今は各地で盗賊が横行し、ここもまた例外ではない。国が人材を求めている。周謹と武芸を比べ、勝てばその職を譲り受けさせてやるが、どうだ。試してみる気はあるか。」
楊志:「恩相のご命令とあれば、どうして背きましょう。ぜひ、お願いしたい。」
その楊志の返事を受けて、梁中書は一匹の戦馬を用意させ、甲仗庫(よろいぐら)から鎧と軍器を出させた。
楊志は廳(ちょう)の裏で甲冑を身にまとい、頭盔、弓矢、腰刀をつけ、長槍を手に馬へ乗る。
蹄の音を響かせて教場へ躍り出る彼の姿を見て、梁中書は満足げに頷いた。
梁中書:「楊志——まずは槍で周謹と腕を比べよ。」
周謹は鼻で笑った。
周謹:「この配流の身の者が、俺と槍を交えるだと?」
だが、その嘲りこそが、このあと噂になる「一合の勝負」の火蓋であった。
楊志が槍を構え、馬の首をわずかに前へ向ける。
周謹も槍を立て、馬腹を締める。
槍の穂先が、
互いの間合いを測るように
わずかに揺れた。
馬の蹄が地を蹴る。
──次に何が起きるかは、次の段で語るとしよう。
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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した
◈ 冒頭の一騎打ち:原作の“出来事”を、リメイクは“心理戦”にした
原作は、林冲と楊志が残雪の川辺で三十合、そこへ王倫が止めに入る——という、いわば「型の良い見せ場」。
リメイクは同じ出来事を、まるで現代の格闘シーンみたいに「技術」と「生存意志」の質感に分解して描いた。
林冲=教頭らしい正確さ。「壊れない間合い」を保つ職人芸
楊志=戦場帰りの切迫。「ここで生き残る」だけで刃が走る
だから勝負は、腕前だけじゃなく「人生の重さ」で拮抗する
原作の“わかりやすい強さ”が、リメイクでは“生き方の違い”に変換されてる。読者が「強いね」じゃなくて、「うわ、しんどい強さだ…」と思えるやつ。
◈ 王倫:原作の“小賢しさ”が、リメイクでは“政治的打算”として見える
原作の王倫は、正直わりと露骨に「林冲を置いたら俺が小さく見えるから、楊志を留めて敵にしよう」って算段する。
リメイクはそこを、さらに一段“現代的に”した。
表向きは礼儀と人情(酒三杯、顔合わせ)
裏は人事配置と牽制(林冲と楊志で均衡)
さらに上位に招安カード(朝廷への布石・展開の伏線)まで置く
つまり「器が小さい」だけじゃなく、「組織の生存戦略」に見える。
王倫がちょっと“嫌なほど”頭が回るようになった分、梁山泊が“社会”として立ち上がってくる。これは作品として強い。
◈ 楊志の背景:原作の説明を“世界の腐敗の実況”まで拡張した
原作も花石綱・徽宗・高俅の流れはあるけど、リメイクはここを政治批評の密度で押し切ってくる。
徽宗の芸術家気質を「皇帝としての悲劇」にする
花石綱を「民の窮乏」と真正面衝突させる
高俅・蔡京の腐敗を、空気じゃなく構造として描く
要するに、原作の「世が悪いから好漢が山に集まる」が、リメイクでは
“正義が負ける仕組みがあるから、正義の人ほど追い詰められる”に変わった。
読者の理解が一段深くなるぶん、怒りの温度も上がる。うん、よく燃える。
◈ 高俅の悪:原作の“冷酷”を、リメイクは“悪意の演出”までやった
原作の高俅は、書類を見て「委用できぬ」で追い返す。十分ひどい。
でもリメイクは、さらに一歩踏み込んで——
せっかく奪還した花石綱の積荷を捨てさせる(=証拠を消す)
その上で「嘘をつくな」と楊志を断罪する
これ、ただの腐敗じゃなくて、冤罪を“作る技術”なんだよね。
悪が“権力者の気分”から“システム操作”に進化してる。現代小説として説得力が跳ね上がる部分。
◈ 牛二事件:原作の“騒動”を、リメイクは“市民社会の沈黙”に変えた
原作でも皆が牛二を恐れて逃げる。
リメイクはそこを、いちばん現代的にした。
牛二が「法」を口実に噛みつく(=正義の仮面を被って憂さ晴らしをする、迷惑系のろくでなし)
街の人々は怒っているのに動けない(=自己保身で沈黙)
その沈黙が、楊志の内部で“最後の線”を切らせる
そして斬る瞬間が、単なる短気じゃなく、
名誉・貧困・冤罪・沈黙社会が積み上がった末の破裂になる。
読者は「やっちまったな」より先に、「そりゃ切れるよ…」となる。
悲劇としての精度が上がってる。
◈ 牢と裁き:原作の“情け”を、リメイクは“義の伝播”として描いた
原作でも牢番が同情し、町の者が差し入れし、軽く済む。
リメイクはそれを「なぜそうなるか」まで描く。
少し前に起きた林冲事件が“義の波紋”を広げた、という連鎖
役人側にも「義」を感じる者が残っている、という希望
高衙内も高俅も「今回は得がないから黙る」という現実
つまり、奇跡じゃなくて、社会の温度の変化で軽罰が成立する。
善意すら「仕組み」で説明できると、物語は薄っぺらい美談にならない。ちゃんと苦い。良い苦さ。
◈ 宝刀の扱い:原作の“没収”を、リメイクは“象徴の保持”に変えた
原作では楊志の宝刀は没収される。
リメイクは没収されず所持を許される。
これ、地味だけど効いてる。
宝刀が残ることで、楊志は「落ちぶれても祖先の線が切れていない」状態で大名府へ入れる。
読者の中で楊志が、単なる転落者じゃなくて、“まだ折れてない武人”として立つんだよね。次章の演武に向けて、芯が通る。
◈ 今回の改造で起きた“作品の格上げ”
原作第十二回は、出来事としては「林冲が梁山に落ち、楊志が刀を売り、牛二を斬り、北京へ流され、梁中書に拾われ、演武へ」という一本線。
リメイクは、その線の上に——
戦い=技と生存の哲学
梁山=組織と政治
朝廷=冤罪製造機
市井=沈黙する社会
そして義=伝播する火
…を乗せた。だから読者は、豪傑譚を超えて「この世界でどう生きるか」を読むことができる。
娯楽として読ませる顔をして、ちゃんと社会性で刺す感じにしたというわけ。
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