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2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。

自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。

そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。

本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。


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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第十一回

"朱貴、水亭から合図の矢を放つ/林冲、雪の夜に梁山へ上がる"


 蓼児洼(りょうじ・わ/Liǎo’ér Wā)——

 ここにある大きな庄院へ、米倉守りの庄客たちが押し寄せた。髭を焼かれた老庄客が先に叫んだ。


老庄客:「こいつを門楼の下に、高く吊しておけ!」


 彼らは縄でぐるぐるに縛った林冲を梁に掛け、半ば宙吊り状態にした。


庄客:「大官人はまだお休みですね。」

老庄客:「もう言伝はした!あとは大官人に然るべく罰して貰う!」


 夜が明けかけるころ、冷たい風が顔を刺し、林沖の中にある酒もようやく消えて来た頃。

 目を開けた林冲は、自分が吊られていること、そして目の前の庄院があまりに大きいことに驚いた。


林冲:「ここは……どこだ?あれは何者の屋敷だ?おい、誰だ!私をこんな場所で吊ったのは!」


 そう叫んだところへ、林冲が目を凝らすと──

 廊下の奥から、背中に手を組んだ男が、ゆっくり歩いてくる。

 年は三十前後。眉目秀麗、衣服は質素だが上等。あれは……


男:「なんと、林武師ではありませんか!その縄を解きなさい!」


 庄客たちが慌てて縄をほどき、一歩退いた。

 男は自ら林冲の縄を解き、支え起こす。


柴進:「林武師、どうしてここで、こんな目に?」

林冲:「柴大官人!」


 あの「小旋風(しょうせんぷう)」の柴進ではないか。

 ここは彼の東庄(ひがしのしょう)だったのだ。


柴進:「立ち話は無用。どうぞ、中で話をお聞かせください。」


 ふたりは座敷へ通され、林冲は滄州(そうしゅう/Cāngzhōu)牢城営(ろうじょうえい)のことから、草料場(そうりょうじょう)放火と三人殺しに至るまで、

 すべてを話した。

 柴進は、黙って最後まで聞き、深く息をついた。


柴進:「……兄長の運命は、ここまで曲がりくねるのか。だが、天はまだ見捨ててはおりません。ここは小弟の東庄です。しばらく身を潜め、立て直しを考えると良いでしょう。」


 彼は庄客に着替え一揃いを持ってこさせた。そして林冲を湯で温め、暖かい衣に着替えさせ、暖閣で酒と肴をたっぷり振る舞った。

 こうして林冲は、柴進の東庄に数日間と身を寄せることになる。

 一方そのころ、滄州牢城営では大騒ぎだった。管営(かんえい:牢城営の責任者)は林冲が差撥(さっぱつ/chābó)・陸虞候(りく・うこう)・富安(ふ・あん/Fù Ān)の三人を殺し、大軍草料場に火をつけたと報告する。

 州尹(しゅういん/zhōuyǐn:州の長官)は青ざめた。


州尹:「迷天大罪(めいてんたいざい:天地も覆すほどの大罪)ではないか……!」


 すぐに公文をしたため、捕吏たちに命じて、村から村へ、町から町へ、宿場、村落、道端の茶店に至るまで、手配書を貼らせた。

 懸賞金は三千貫。


「正犯・林冲を捕らえた者には、信賞金三千貫」


 ──この莫大な額を見れば、土地の者たちがどう動くか、想像はつくだろう。

 東庄にも、すぐ噂は届いた。

 夜、柴進が帰ってきたとき、林冲は静かに切り出した。


林冲:「大官人。私はここ出ます。」

柴進:「何を言うのですか。今こそここにいるべきです。」

林冲:「官司の追捕があまりに激しすぎる。家々をあさり、庄々を捜す。ここが知られれば、大官人にも累が及ぶことになります。これまで身命を救っていただき、衣も食も与えていただいた。これ以上の恩義を受けるわけにはいきません。あとひとつだけ……願わくば、少しばかりの路銀をお貸しください。他所へ身を移し、生き延びることができたなら、犬馬の働きでもってお返しします。」


 柴進はしばらく黙ってから、頷いた。


柴進:「兄長がその覚悟とあらば、私が引き止めることはできないでしょう。ただし、私からもひとつお願いがあります。兄長はこれからある場所を目指してください。私が紹介状を書きますゆえ。」


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豪杰蹉跎运未通,行藏随处被牢笼。

不因柴进修书荐,焉得驰名水浒中。


どれほどの豪傑でも、運に恵まれぬうちは思うように進めず、

行く先々で束縛を受け、世に出る機会をつかめない。

もし柴進(さいしん)が、

あの推薦状を書いてくれなかったなら——

水滸の世界で名を馳せることなど、決してできなかっただろう。

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林冲:「それで、私が行くべきは……」

柴進:「山東(さんとう/Shāndōng)・済州(さいしゅう/Jìzhōu)の管内。そこにある梁山泊(りょうざんぱく/Liángshān Bó)。」

林沖:「梁山泊……」

柴進:「そうです。この蓼児洼(りょうじ・わ/Liǎo’ér Wā)からもほど近い、方円八百里の水郷。宛子城(えんしじょう/Wànzǐchéng)を中央に据えた、三人の好漢が頭領として寨(とりで)を構えるという地です。その頭領たちの名は、“白衣秀士(はくいのしゅうし)”の王倫(おう・りん/Wáng Lún)、“摸着天(もうちゃくてん)”の杜遷(と・せん/Dù Qiān)、“雲里金剛(うんりこうごう)”の宋万(そう・まん/Sòng Wàn)、“旱地忽律(かんちこつりつ)”の朱貴(しゅ・き/Zhū Guì)……この四名が七、八百の小嘍羅(しょうろら:雑兵)を集め、腐敗役人や悪辣な資産家などへの打家劫舍(だかごうせつ:家を襲い、略奪する)を生業として生活しています。世に追われた大罪人が身を潜める先は、あそこ以外にはありません。」

 柴進が静かな笑みを浮かべ、続ける。


柴進:「三人の頭領とは、昔から手紙のやり取りをしていましてね。私の紹介状があれば、兄長を梁山泊の一員として迎え入れることは造作もないでしょう。」

林冲:「そこまでしていただけるとは……!」

柴進:「もちろんですとも。義を持ちながら悪に追い落とされた好漢が、天に見放されるなどあり得ません。ここで兄長を助けるのが、私の務めです。」


 ただし——と、柴進の声が少し低くなる。


柴進:「ひとつだけ、気をつけねばならない場所があります。滄州の関所です。今、官の手配書が貼られていて、二人の軍官が寸分たがわず番をしています。兄長はどうしても、そこを通らねばなりません。」

林冲:「ほかに道は?」

柴進:「道はありませんが、策ならあります。」

林冲:「……お力添えをいただけるでしょうか。」


 翌日——

 柴進はまず庄客に林冲の包みを担がせ、関所の外へ先回りさせた。

 その後、自らは三十騎近い馬を揃え、旗、槍、弓、鷹、猟犬を整えて、堂々たる「狩りの一行」として庄を出た。

 林冲は狩人の装いでその列に紛れ、馬に乗る。

 軍官たちは遠目にその姿を認め、慌てて姿勢を正した。


軍官:「柴大官人ではありませんか!」


 彼らは官職に就く前、柴進の庄で恩義に預かった者たちだった。


柴進:「おや、二位の官人。ずいぶん物々しい雰囲気ですが、何かありましたか?」

軍官:「滄州太尹から文が届きましてな。林冲という大罪人の影絵と似顔が配られ、ここを通る者は一人残らず調べよ、との命です。」

柴進:「なるほど。」


 柴進はひと呼吸置いてから、その軍官に顔を寄せ、声を潜めた。


柴進:「——じつは、この一行の中に林冲が紛れ込んでいるのですが。……通っても問題はありませんか?」


 空気が、一瞬で凍った。

 次の瞬間、軍官たちは腹を抱えて笑い出した。


軍官:「大官人も人が悪い!われらが大官人を疑うはずがございません。どうか、ごゆるりと狩りを!」

柴進:「では、帰りには獲物を土産に。」


 軽く手を挙げ、柴進は行列をそのまま進める。

 関所はまるで風が通り抜けるように開かれた。

 十四、五里先で待っていた庄客のもとで、林冲は馬を降りた。

 狩人の衣を脱ぎ、自身の衣に着替え、腰刀を締め、紅房の毡笠をかぶり、包みを背負う。


林冲:「大官人……林冲は、ここでお別れいたします。」


 柴進は馬上から、まっすぐ林冲を見た。


柴進:「兄長。この先に何があろうと、どうか覚えておいてください。世のどこかにあなたを信じ、あなたのために筆を取る者がいる。それを忘れなければ、道の果てに“戻る場所”は必ず見える。」


 林冲は深く礼をし、風の中へ歩き出した。

 柴進は馬首を返し、本当に狩りへ向かった。夕刻、戻るときには獲物を担ぎ、軍官たちに土産を渡して帰っていった。

 ——ところで、小旋風・柴進という人物をどうとらえるべきか。

 ひと目には隙だらけに見えながら、いざ近づけば一分の乱れもない。彼の物腰は柔らかく、言葉は穏やかで、誰に対しても礼を失わない。しかし、そのすべてが風のように相手の心を読み、状況を操り、確かな目的へと導くための“静かな旋風” となる。

 丹書鉄券という免罪の特権が、彼に揺るぎない自信を与えているのは確かだ。だがそれ以上に彼が誰よりも“人を見抜き、人を動かし、人を救うことのできる男”であることこそ、「小旋風」というあだ名を生み出した本質なのだ。

 さて——

 柴進と別れた林冲は、ひとりで十数日、北へ北へと歩き続けた。折悪しく、季節は暮れ冬。空は鉛色の雲に覆われ、またも朔風(さくふう:北西の烈風)が吹き始める。

 やがて、空から白いものが落ちてきた。最初は細かな粉雪。すぐに大粒の雪片へと変わり、視界一面が白く埋め尽くされていく。

 金(きん)の完顔亮(わんやん・りょう/Wányán Liàng)という皇帝が書いた『百字令(ひゃくじつれい)』という詞が思い出される。


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天丁震怒,掀翻银海,散乱珠箔。六出奇花飞滚滚,平填了山中丘壑。皓虎颠狂,素麟猖獗,掣断珍珠索。玉龙酣战,鳞甲满天飘落。谁念万里关山,征夫僵立,缟带専旗脚。色映戈矛,光摇剑戟,杀气横戎幕。貔虎豪雄,偏裨英勇,共与谈兵略。须拚一醉,看取碧空寥廓。


天の神(天丁)が怒りを震わせ、

銀の海をひっくり返したかのように、

雪は珠の幕のように散り乱れて落ちてくる。

六つに裂けた奇妙な雪の花が、渦を巻いて飛び、

山の谷や丘を、瞬く間に平らに埋め尽くす。

白い虎のように雪が狂い、

素麒麟(白い霊獣)のような雪の荒れが暴れ回り、

まるで真珠の紐を引きちぎるように吹き散らす。

玉の龍が酔って戦っているかのように雪は舞い上がり、

その鱗のような粉雪が、空いっぱいに舞い落ちてくる。

そんな凄まじい雪の中——

万里の関塞で、軍人たちは凍えながら直立し、

白い帯のような布だけが、旗の脚に巻かれて揺れている。

雪の色は戈(ほこ)や矛を照り返し、

光は剣や戟(げき)に反射して揺らめき、

戦場には殺気が横たわっている。

貔虎(ひこ=勇猛な将兵)のような豪傑たちは、

従軍の副将たちと肩を並べて戦略を語り合い、

いかにも頼もしい。

——だからこそ今夜は、

ひととき命を賭けて酔いしれよう。

そして、この碧空のように広々とした世界を、心に刻むのだ。

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 林冲はそのような大雪の中を、ただひたすら歩き続けた。やがて辺りは一面の“銀の野”になり、足跡すらも振り返ればすぐ消える。

 ふと見れば、川辺に小さな酒屋が一軒、雪に半ば埋もれて立っている。茅葺きの屋根には、白い粉がてんこ盛り。老木の枝は雪の重みにしなり、窓は閉ざされ、柳絮のように舞う雪が酒旗の周りを舞っていた。


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银迷草舍,玉映茅檐。数十株老树杈桠,三五处小窗关闭。疏荆籬落,浑如腻粉轻铺;黄土绕墙,却似铅华布就。千团柳絮飘帘幕,万片鹅毛舞酒旗。


雪にまぎれて草ぶきの家がぼんやりと白く見え、

茅の屋根の端は、玉のような光を返している。

老木が何十本も枝を張り、

家のあちこち三、五か所では、小さな窓がしっかり閉ざされている。

粗末な荊(いばら)の垣根にも、

薄くなめらかな白粉(おしろい)をそっと置いたように雪が積もり、

黄土色の土壁のまわりにも、

まるで鉛白(えんぱく/白い化粧)を塗り広げたように雪が敷きつめられている。

柳の綿毛のような雪が、暖簾(のれん)のようにひらひら舞い、

無数の羽毛のような雪が、酒屋の旗のまわりで踊っている。

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 林冲が芦簾(あしすだれ)をかき分けて中へ入る。中には数卓の座敷。彼は空いた席に腰を下ろし、刀を立てかけ、包みを解き、毡笠を外し、腰刀を柱に掛けた。


酒保:「いらっしゃい。酒はどれくらいにしましょう?」

林冲:「まずは二角(にかく:たっぷり目の一壺)をお願いする。」


 酒保は桶からたっぷり二角汲み、卓に置いた。


林冲:「肴は何がある。」

酒保:「生の牛肉、煮た牛肉、肥えたガチョウ。あとは、柔らかい鶏もあります。」

林冲:「では、煮牛肉を二斤ほど。」


 やがて大皿の牛肉と数皿の菜が運ばれ、酒が注がれる。

 林冲は三、四杯ほど飲んだところで、店の奥からひとりの大男が出てくるのに気づいた。

 男は背を向け、手を後ろに組んで、戸口から雪を眺めている。

 頭には深い縁の暖帽。身には貂の皮袍。足には獐皮(しょうひ)の細身の靴。背丈は高く、顔は四角い拳骨顔に、黄色みのある三つ叉の髭が生えている。

 その男が酒保に尋ねる。


男:「誰だ?」

酒保:「存じませぬ。」


 この会話は林冲の耳に届いたが、さほど気にせず、ゆっくり酒を一杯注いで飲んだ。

 そして、彼が酒保を呼んで聞く。


林冲:「ここから梁山泊まではどのくらいだ。」

酒保:「近いですよ。数里といったところです。しかし、そのままでは行けません。すべて水路ですから。」

林沖:「そうなのか。では、船で渡るしかないということか?」

酒保:「そういうことです。」

林冲:「それであれば、船を一艘、手配してくれないか。」

酒保:「いや、それは無理ですよ。船なんか手配できません。こんな大雪ですからね。しかも、もう夕方です。」

林冲:「金は多めに払う。どうにか頼めないか。」

酒保:「どうにもなりません。」


 林冲は心の中が急に重くなった。

 酒をあおりながら、ふと、自分のこれまでを振り返る。


林冲:(京師〈東京/開封〉では、八十万禁軍(きんぐん/Jìn jūn)の教頭として六街三市を飲み歩き、腕を誇り、名を知られていた。隣には心の休まる妻がおり、晴れ晴れとした日々を過ごしていた。それが今はどうだ。高衙内〈こう・ごない/Gāo Yánèi〉のような愚劣な輩に絡まれ、それが原因で奸臣の高俅〈こう・きゅう/Gāo Qiú〉に貶められた。そうして家族と引き離され、顔に刺青を入れられ、滄州へ流され、そこでもまた罠にかけられた。家にも戻れず、国に帰る当てもない。行く先々で、こうして雪の中で迷うばかりだ。魯兄や柴大官人らの大恩を受けながら何とかここまで来たが、もはやこの先に道はないのか。)


 彼は胸のうちを抑えきれず、酒保から紙を買い、筆と硯を借りた。

 このときに彼が書いた詩は次の通りだ。


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仗义是林冲,为人最朴忠。江湖驰誉望,京国显英雄。身世悲浮梗,功名类转蓬。他年若得志,威镇泰山东。


義を貫く我こそ林冲、

質朴で忠心に深い男なり。

江湖ではその名が広く響きわたり、

都でも英雄として知られていた。

だが、その身の上は流れ藻のように悲しく揺れ動き、

功名も、風に転がる蓬(よもぎ)のように定まらない。

私の志が再び遂げられる日が来るのだろうか、

泰山の東で、その威名が轟くと願いたい。

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 林沖がこの詩を書き終えたときであった。

 さきほどの貂皮の大男が林冲のもとへつかつかと歩み寄ると、いきなり腰のあたりを力一杯つかんだ。


男:「おいおい……肝の据わったやつだな。滄州で迷天大罪をやらかした林冲殿が、こんなところで詩なんぞひねりながら酒を舐めてるとはな。官府じゃ今、お前一人に三千貫の懸賞金がかかってる。俺がひと声かけりゃ、今すぐ縛り上げて大金だ。──さて、どうしてほしい?」

林冲:「人違いではありませんか……?」


 林冲はそう言いながら、そっと槍の方へ体重を移す。

 男は、その筋肉の動きを指先で感じとったように、腰を握る手に力を込めつつ、声色だけはやわらげた。


男:「まあ、待てよ。さっき自分で書いたろうが?“仗義是林冲”ってな。それに、その顔の金印の刺青。手配書の人相描き、毎日酒を売りながら眺めてりゃ嫌でも覚える。人違い、なんて言葉はこの場じゃ通じねえってもんだ。」

林冲:「本気で私を縄にかけるつもりなら、もうとっくにそうしているだろうな。何が目的だ?」

男:「ふ、さすがに肝が座っているな。後ろへ来い。中で話そう。」


 男はようやく手を放し、林冲を店の奥の水亭へと案内した。

 灯がともされ、ふたりは向かい合って腰を下ろす。

 さっきまで粗暴そうに見えた男の目つきが、そこでふっと変わった。


朱貴:「驚かせて悪かったな。名乗ろう。俺は朱(しゅ/Zhū)。名は貴(き/Guì)。沂州(ぎしゅう/Yízhōu)・沂水県(ぎすいけん)の出。江湖では“旱地忽律(かんちのこつりつ”と呼ばれている。」

 朱貴が軽く肩をすくめ、卓を指でとんとんと叩く。


朱貴:「このあたりで酒店を何軒かやっていてな。表向きは、ただの飯と酒。だが、水面の下では、梁山泊の“目と耳”ってわけだ。……さて、林教頭。滄州・横海郡の柴大官人の紹介で、山寨を頼ろうとここまで来た。そういう段取りで間違いないな?」

林冲:「どうして、そこまで承知している?」

朱貴:「それぐらい拾い集めてなきゃ、情報屋なんて商売は務まらんさ。柴大官人の話も先に回ってきている。お前さんがここへ流れてくる風向きもだいたい読めていた。だが、よく無事で辿り着いたな。さすが柴大官人。あの関所を突破するとは感服する。」

林冲:「では……私は梁山泊に迎え入れてもらえるのか。」

朱貴:「そこを俺の口から“入れる”なんて言うのは筋が違う。決めるのはあくまで山の頭領方だ。ただな──東京八十万禁軍の教頭にして“豹子頭”、それに柴大官人の一筆付きとくりゃ、王頭領もそうそう門前払いはできまいよ。」


 朱貴は、そこでようやくくつろいだ笑みを浮かべ、立ち上がった。


朱貴:「まずは腹を落ち着かせようじゃないか。空腹で話をしても、ろくな知恵が出ねえ。」


 魚や肉、酒肴が次々と並べられ、ふたりは水亭で半夜まで盃を重ねる。そして十分に酔いも回ったころ、朱貴が杯を置き、真顔で言う。


朱貴:「兄者、今夜はここで休め。心配はいらん。この店は梁山泊の“庭先”みたいなもんだ。夜明け前──五更に起こす。暗いうちに山寨の船が迎えに来る。そこからは水路だ。」


 五更──

 朱貴は約束通り林冲を起こし、顔を洗わせると、再び酒を二、三杯と軽い肴で身体を温めさせた。

 水亭の窓を開け放つと、湿った夜気が流れ込む。

 朱貴は、鵲(かささぎ)の絵が描かれた弓を取り出し、一本の“響き矢”を番えた。


ひゅう……


 鋭く伸びる音が、葦の海を震わせる。

 林冲が振り向いて問う。


林冲:「今のは……?」

朱貴:「山寨への合図さ。俺たちの商売は、声を張り上げるより、こういうやり取りのほうが性に合ってる。」

 ほどなくして、対岸の枯れ葦と折れた茅のあいだから、小嘍羅たちを乗せた小舟が一艘、すうっと姿を現した。

 朱貴は林冲をうながし、刀と荷物を持って船に乗り込む。

 小嘍羅たちは櫂を操り、静かな水路を滑るように進んでいった。

 しばらくすると視界が開け、八百里に渡る梁山泊の全景が見えてきた——


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山排巨浪,水接遥天。乱芦攒万队刀枪,怪树列千层剑戟。濠边鹿角,俱将骸骨攒成;寨内碗瓢,尽使骷髅做就。剥下人皮蒙战鼓,截来头发做缰绳。阻当官军,有无限断头港陌;遮拦盗贼,是许多绝径林峦。鹅卵石迭迭如山,苦竹枪森森似雨。断金亭上愁云起,聚义厅前杀气生。


山は巨きな波のように連なり、

水は遠い空へと続くように広がっている。

乱れ茂る葦(あし)は、まるで何万もの刀や槍が突き立つ軍勢のようで、

奇妙にねじれた樹々は、何千層もの剣戟が並んでいるかのようだ。

堀のそばに立てられた鹿角(しかおどし)も、

その材料はすべて積み上げた骸骨でつくられ、

砦の中の椀や瓢(ひさご)の器にいたるまで、

すべて骸骨から削りだしたものばかり。

戦鼓(いくさづつみ)は剥ぎ取った人皮を張り、

手綱には切り落とした髪の毛を撚り合わせて使う。

官軍を阻むためには、

数えきれないほどの“断頭の跡”が散らばる港道があり、

盗賊を拒むためには、

命を失うしかないような険しい山の絶径が続いている。

河原石を積んだ壁は山のように高く、

苦竹(にがたけ)の槍は雨のように密集して林立する。

断金亭(だんきんてい)の上には重い雲が立ち込め、

聚義亭(じゅぎてい/義を誓う堂)の前には、

殺気が立ちこめている。

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 船はやがて、金沙灘(きんさたん/Jīnshātān)の岸に着いた。

 朱貴と林冲が上陸し、小嘍羅が荷物を持つ。

 岸には抱きかかえるほどの大木が並び、半ば山腹には、断金亭が見えた。そこから回り込むと、まず見えてくるのは大きな関所。関の前には、槍、刀、剣、戟、弓、弩、戈、矛がずらりと並び、周りには石や丸太が積まれている。

 さらに二つの関を抜け、ようやく寨の正門に着く。

 四方は高い山。中央だけが鏡のように平らな地で、三百丈四方はあろう土地に屋敷や廳が建てられている。正門の両側には耳房(じぼう:小部屋)が並び、中には旗と太鼓が見える。

 朱貴は林冲を聚義廳に案内した。

 中央の交椅(こうい:肘掛け椅子)には、白い衣を着た一人の文士が座っている。


 白衣秀士・王倫(おう・りん/Wáng Lún)。

 その左には、摸着天・杜遷(と・せん/Dù Qiān)。

 また右には、云里金刚・宋万(そう・ばん/Sòng Wàn)。


 朱貴と林冲が、前へ進み出て拝礼する。


朱貴:「こちらは、かつて東京八十万禁軍の教頭を務めたお方。姓は林、名は冲、あだ名は豹子頭。高太尉の讒に遭って滄州へ刺配され、その地でやむなく三人を斬ったことで今は追われる身となった。ここに、柴大官人からの推挙の書状を預かっている。」


 林冲は懐から丁重に書状を取り出し、両手で差し出した。

 王倫はそれを受け取る。封を切る手つきは礼儀正しい。だが——指が僅かに急いでいる。

 朱貴は、王倫の横顔をちらりと盗み見た。


朱貴(……さて、この男がどう出るか。梁山泊の第一頭領。表向きは“兵法秀才”。だが実のところ——科挙に落ちて帰る途中、ただ「楽」を選んで山へ逃げ込んだ男だ。口が達者であったことから、ちょうど空いていた頭領の座にどかりと鎮座しただけ。しかもこの男、梁山泊を育て上げたなどと自負しているが、それもたたまたま杜遷、宋万という有能な頭領が次々に入ったがゆえに生まれたこと。この男は本当にただ座っているだけ。虚栄心と猜疑心の強い、小さな器しか持たん男だ。こんな者が、本物の義を持つ林教頭を果たして受け入れるか、どうか……)


 書状を読む王倫の目が、紙面を滑る。「柴大官人」という名に行き当たった瞬間だけ、眉がほんの少し上がる。

 次の瞬間、林冲の肩から足先まで——“値踏み”の視線が走る。


朱貴:(……来たな。権威が脅かされるときの、あの癖だ。)


 朱貴は、視線を杜遷と宋万へ移した。

 二人は黙っている。朱貴の視線に気づくも、応じない。

 どちらも騒ぎを好まないのだ。


朱貴:(杜遷……穏やかに生きたいだけの書生だった。何ひとつ、罪を犯していない。それでも世は“顔が似ている”だけで人を殺した。たまたま賊の手配書に似ていたこと、同じ姓であったことから噂が走り、群れが燃え、役所がそれに便乗した。一年の流刑。真犯人が捕まったあとでさえ、謝罪も、補償もない。牢から放り出され、残ったのは「正しさなど腹の足しにもならぬ」という冷えだけ。——あいつは怒って落草したんじゃない。静かに“人の世を見限った”のだ。)


 杜遷の目は、王倫を見ていない。

 水亭の梁を眺めている。まるで「上に誰が座ろうと、空は変わらない」と言うように。

 次に朱貴は、宋万を見る。


朱貴:(宋万……役所の書記。穏やかで、人を立て、争いを避けて働いていた。だが官の怖さは“皇帝”じゃない。“すぐ上の上司”だ。上官の気まぐれ一つで、宋万の仕事が難癖に変わり、宋万の性格が罪に変わる。帳面が改竄され、責任を押しつけられ、口を開けば「逆らった」と言われる。——内部告発?握りつぶされるに決まってる。むしろ告発した者が罪になる。最後は、してもいない賄賂の罪で鞭。宋万も杜遷と同じく歪んだ世を冷たく見据え、知人を頼って梁山へ来た。)


 宋万は、いまも顔色が変わらない。

 その落ち着きは諦めではない。腹の底に沈めた怒りが、凍って動かないだけなのだ。

 朱貴は、喉の奥で息を整える。


朱貴:(俺は……癒着した役所と豪商に店を潰された。流行らせたい楼の邪魔だというだけで、誹謗中傷、破落戸を雇った嫌がらせ、客を奪う罠——役所に訴えようとも、その役所がやっていることゆえに、俺に活路はなかった。それでも俺は店を続けていたが、最後は“踏み越えられた”。俺は刺客に殺されかけたのだ。俺は何とか逃げて、噂に聞く柴大官人のもとを頼った。それで、この梁山泊に来た。)


 朱貴は自分の傷へ手を伸ばしかけて、引っ込める。


朱貴:(……俺たちは三人とも、弱い者を切り捨てる仕組みに背を向けた“義の難民”だ。林教頭のように筋の通った者が上に立てば、どれほど心強いか。だが、その心強さが、そのまま王倫の恐怖になる……自分の頭領の地位が揺るぐと考えるからな。)


 王倫が書状から顔を上げた。

 口元に笑みを浮かべる。だが、その笑みは薄い紙を貼りつけたように定まらず、風が吹けばすぐに剥がれ落ちそうであった。


王倫:「なるほど……事情は、よくわかった。実に不運であったな。だが、この梁山泊という山寨は——」


 来る。この言い回しは、断る前置きだ。

 林教頭を“惜しみながら拒む”ときの、いつもの調子。

 朱貴は、そこで一歩踏み込んだ。

 言葉を削り、角を落とし、向かう先をわずかにずらす。


朱貴:「林教頭は、梁山泊の益となる。柴大官人の推挙を受け入れれば、王頭領の御名もまた、世に高まることでしょう。武を得、名を得る。これ以上、山に利する話はない。」


 林冲が強い、林冲が偉い、とは言わない。

 “王倫が得をする”という形に整えて差し出す。

 情報屋らしい、言葉の偽装の技である。


朱貴:(さあ、王倫。器を見せてみろ。受け入れれば山は強くなる。拒めば——山は、強い者から先にお前を見限っていく。)


 王倫は、朱貴の言葉を聞くと、少し顎を上げ、宙を見たまま黙った。

 考えているふりだ。実際には、“どう見えるか”を量っている。

 やがて、書状を静かに机に置き、また柔らかな笑みを作った。


王倫:「うむ……では、その……林教頭、と申したな。あなたほどの武芸者であれば、第四の交椅にお座り願うのが自然だ。——朱貴、お前は一つ下がって第五位でよいな。」


 受け入れた、ように見える。だがこれは歓迎ではない。

 “管理できる位置”に押し込んだだけだ。


朱貴:「仰せのままに。」


 朱貴は一礼する。

 表情は変えない。序列など、初めから眼中にない。


王倫:「杜遷、宋万。異論はあるか?」

杜遷:「異論はございません。林教頭ほどのお方が来られるなら、山は落ち着きましょう。」

宋万:「ええ、これで無用な不安が減ります。」


 二人の声は控えめだが、そこには確かな安堵があった。

 “強い柱が一本立った”という実感だ。

 朱貴はそのやり取りを聞きながら、胸の奥で静かに警鐘を鳴らす。


朱貴(……もっと、あれこれ屁理屈を口にするかと思ったな。王倫がこうもあっさり林教頭を受け入れるとは——本心か?いや、違うな。この男の笑みは、いまも“紙”のままだ。酒席を整え、形を作り、あとで覆す算段をしている。これは“受け入れ”ではない。時間稼ぎだ。)


 ほどなくして酒が運ばれ、一同は三巡ほど杯を重ねた。

 表向きは和やかな雑談が続く──が、その裏で、朱貴の予想どおり王倫の心は嵐のように乱れていた。


王倫(……京の禁軍教頭。実力も名声も、俺など比べ物にならんではないか!こんな男が寨に入れば、主が誰かなど一夜で入れ替わる。それに大罪人だぞ。ここにかくまって官軍に踏み込まれれば、寨は終わりだ。柴進への恩は……恩はあるとも。だが、恩と命は別だ。押し付けられた厄介者は、丁重に返すのが賢明というもの……)


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未同豪气岂相求,纵遇英雄不肯留。

秀士自来多嫉妒,豹头空叹觅封侯。


豪気ある者どうしでなければ、

そもそも互いに惹かれあうことなどできない。

たとえ立派な英雄に出会えたとしても、

そう簡単には自分のそばに引きとめられないのだ。

もともと才気ある若者というものは、

なにかと嫉妬心が強いもの。

豹の頭のように勇猛な男も、

結局は出世(封侯)を求めても得られず、

ただむなしく嘆くばかりである。

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 その夜、再び酒宴が開かれた。

 宴もたけなわの頃、王倫の合図で、小嘍羅が盆を運んできた。

 盆には銀五十両と絹二疋。


王倫:「柴大官人の紹介でお迎えしたが……この小さな寨では食糧も乏しく、家も整わぬ。人手も足りず、林教頭には不自由をかけるばかりだ。よって、これは心ばかりの礼として差し上げるゆえ──どこか他の大きな寨で身を落ち着けていただきたい。どうか恨みと思われぬよう願います。」


 やはり、という空気が走る。

 朱貴の顔はわずかに曇り、杜遷と宋万も互いに目を合わせた。

 朱貴が静かに、しかしはっきりと前に出る。


朱貴:「兄者──一つだけ申し上げます。食糧が足りぬなら、近村から借りればよい。俺たちは村とも信を通わせています。山も水も広く、木は無尽蔵。家など千軒でも建てられる。それに……柴大官人が、これまで梁山泊にどれほどの恩を与えてくれたか。その恩人が託した者を追い返すなど──顔向けできません。林教頭は義の人、腕も確か。必ずや寨の力となります。」


 杜遷も、言葉を選びながら口を開く。


杜遷:「兄者……人ひとり増えたくらい、困りません。柴大官人の恩を忘れれば……ここの仲間たちだって何を思うかわかりません。」


 宋万はいつもの達観した声で続ける。


宋万:「まあ、置いときゃいいじゃないですか。柴大官人の顔も立つし、林教頭ほどの腕なら、むしろ頼りになりますよ。追い返したら……そっちのほうが、損が多いってもんです。」


 押し寄せる“義の声”を前に、王倫はしばらく黙った。

 やがて、ゆっくりと口を開く。


王倫:「……お前たちは分かっていない。この男は滄州で大罪を犯し、追われてここへ来た。本当に心から入る気なのか。あるいは、山の内情を探りに来たのか。もし官に売られたら……そのとき、この寨は終わりだ。」


 林冲が静かに立ち、深く礼をして言う。


林冲:「林冲は、すでに死罪を負う身。命など、とっくに捨てております。いまさら官へ報告しても、何の得にもなりません。ここへ来たのは、ただ……生き延びる場所を求めたまで。入山の志には何ひとつとして偽りありません。」


 王倫が苦々しい顔つきで、しばらく考えてから言う。


王倫:「それならば──“投名状(とうめいじょう)”をいただこう。ここで腹のほどを見せてもらう。」

林冲:「では、紙と筆を……」

王倫:「いや、違う。俺の言う投名状とは──山を下りて、人をひとり斬り、その首を持ち帰ることだ。それでこそ“本気”とみなす。」

林冲:「……それはできない!無辜の者の命を奪うなど、侠としての道理に反する!」


 林冲の声が堂内に響く。

 王倫は、あたかも“落ち着け”と言わんばかりに、鈍い目で林冲を見た。


王倫:「相手は悪事を働く役人や、強欲な員外に限る。」

林冲:「ならば、すでに三人を斬っている。それでどうだ。」


 朱貴が、王倫に向き直って言う。


朱貴:「兄者、投名状とは“義を示す証文”でしょう。ならば林教頭ほど義を示してきた者が、ほかにいますか?人殺しを強要するのは、本末転倒ですよ。」


 杜遷も珍しく、静かにだがはっきりと口を開く。


杜遷:「兄者……人を斬って潔白を証明させるのは義に反します。この梁山泊は、そういう歪みを正す場所であって欲しい。」


 宋万は腕を組み、いつもの大らかな口調で続けた。


宋万:「それにまあ……林教頭が本気かどうかなんて、見ればわかるじゃありませんか。わざわざ首を持ってこさせる必要なんて、どこにもないでしょう。」


 王倫はしばし沈黙し、そして言った。


王倫:「……では、こうしよう。林教頭──“楊家将”は知っているな?」


 突如出た名に、空気が変わる。


林冲:「もちろんです。楊家は宋の柱石たる武門の家柄。個人としての面識はありませんが、その高名はしっかりと私の耳に届いています。」

王倫:「よし。その一族の者が、ある事情で梁山泊へひとりで向かっていると聞いた。そいつを迎え撃ち、生け捕りにせよ。それができれば、お前を正式に仲間として迎えよう。期日は──三日だ。」

朱貴:「兄者、しかし楊家となれば……」

林冲:「いえ、結構。もとより一度、楊家の武と手合わせしてみたいと思っていました。」


 翌朝——

 林冲は腰刀を締め、朴刀を手に取ると、小嘍羅に伴われて山を下りた。対岸へ渡り、人気のない道に身を潜める。

 朝から夕まで、じっと身をひそめる。雪が止み、日は傾き、風が冷たくなる。

 しかし、武人はおろか旅人すらひとり現れない。

 山へ戻って報告すると、王倫は冷たい笑みを浮かべる。


王倫:「投名状は無し、か。……明日はどうかな?」


 林冲は何も答えず、黙って部屋へ戻った。

 そして、二日目——


小嘍羅:「今日は南の道へ行きましょう。」


 林の陰で待ち伏せる。

 ようやく遠くに大隊の行軍が見えた──三百人はいるだろう。だが、目的の人物ではない。

 夕刻まで粘るも、これ以上は何も起こらず。

 戻ると、王倫は露骨に不機嫌を装った。


王倫:「今日も無しか。明日は三日目だ。それで駄目なら、ここを出てもらう。」


 その夜、林冲は横になっても眠れなかった。

 天井の闇だけが、じっと重く降りてくる。


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闷似蛟龙离海岛,愁如虎困荒田,悲秋宋玉泪涟涟。江淹初去笔,项羽恨无船。高祖荥阳遭困厄,昭关伍相忧煎,曹公赤壁火连天。李陵台上望,苏武陷居延。


胸の塞がる思いは、

まるで海を離れてしまった蛟龍(みずち)のごとく、

憂いは荒れた田に追い詰められた虎のように重い。

悲しみに沈むさまは、

秋を嘆いた宋玉(そうぎょく)が涙を落とした姿にも似ている。

詩人・江淹(こうえん)は、情が尽きて筆が鈍り、

項羽(こうう)は、逃げ場を失って船がないことを悔やんだ。

漢の高祖(劉邦)は荥陽(えいよう)で苦境に追い込まれ、

伍子胥(ごししょ)は昭関(しょうかん)を越えるとき胸を痛め、

曹操(そうそう)は赤壁の炎に天まで焼かれるような惨敗を味わった。

李陵(りりょう)は台上から遠くを望んで嘆き、

蘇武(そぶ)は居延(きょえん)に幽閉されて長い歳月を過ごした。

——今の私の苦しみは、

これら名だたる悲嘆・窮地と、そう変わらぬほどなのだ。

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 三日目の朝——

 林冲は腰刀と朴刀を持ち、小嘍羅と共に東の道へ。

 雪は溶け始め、陽射しは明るいが、道は静まり返っていた。

 日が中天を越えても、誰も来ない。


林冲:「……これまでかもしれんな。もう山へ戻って、正直に話して──いっそ別の場所へ行くのも……」

小嘍羅:「兄貴!待って!ほら──あそこ!」


 指さす先。山の坂を下りてくる大柄な男がひとり。

 肩に朴刀。足取りは、大地そのものの重みを帯びている。


林冲:「……天が、試練を寄越してくれたか。では──いざ。」


 林冲は朴刀を構え、まっすぐ道へ飛び出した。

 奇襲ではなく、堂々正面から。

 林冲と楊家の男が、どのような火花を散らすのか──

 その顛末は、次の段で語ることにしよう。

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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した


この第十一回、原作(百二十回本)の骨格はきっちり残しつつ、「読者の視線が迷わないように」情報の配置を組み替えて、さらに“梁山泊という組織の内側”を早い段階から立体化してみた。結果として、ただの「林冲が流れ着く回」じゃなくて、梁山泊という“政治”に林冲が巻き込まれ始める回に進化させたというイメージだ。以下、どこをどう変えたか、わかりやすく並べるね。


◈ 柴進パート:原作の「恩人」から、リメイク版は「静かなプロ」へ

原作の柴進は、侠気と人望で助ける「徳の人」。もちろんそれで十分なんだけど、描写は割と素直で、読者は「いい人だな」で止まりやすい。

リメイク版はそこを一段上げて、柴進を“善意だけの人”にしない。

関所突破の場面が象徴で、あれ、原作にもあるギャグめいた問答なんだけど、リメイクは“柴進が“場を支配している”ことがはっきり分かる。

さらに別れ際の一言——「あなたのために筆を取る者がいる」——これが効いてる。原作だと「紹介状」と「盤纏」で送り出すけど、リメイクはそこに物語メタの救命具(=“戻る場所”)まで渡してる。読者にとっても、林冲にとっても、道が一本増えた。

要するに、柴進が「優しい支援者」から、人を見抜き、人を動かし、人を救う“静かな旋風”になった。


◈ 朱貴パート:原作の「物騒な情報屋」を、リメイク版は「組織のインテリ」に再設計

原作の朱貴、正直に言うと――怖い。

金持ちは蒙汗薬で麻翻、場合によっては殺して肉にする、髪で手綱、人皮で戦鼓……梁山泊の“地獄の玄関口”としては最高なんだけど、現代読者は一歩引くことが多い。

リメイク版はここを大胆に変えてる。朱貴を、

梁山泊の“目と耳”としての機能に集中させ、

残虐さよりも“情報と交渉”の技術に寄せた。

その結果、朱貴がただの「店番の悪党」じゃなく、梁山泊という共同体を成立させているインフラに見える。


◈ 王倫パート:原作の「嫉妬」から、リメイク版は「小さな器の政治」へ

原作の王倫はわかりやすい。“落第秀才の嫉妬”で林冲を追い返す。

リメイク版もそこは踏襲してる。だけど違いは、嫉妬を「性格」で終わらせないところ。

リメイク版の王倫は、その地位が“実力で勝ち取った椅子じゃない”ことが最初から透けて見える

だからこそ、強者の加入が組織秩序の崩壊に直結する

つまり王倫の恐怖は、感情というより統治の危機管理(のつもり)になってる

そしてリメイクが上手いのは、朱貴が真正面から「林冲すごい!」と言わず、

「王倫、得しますよ」に翻訳して差し出すところ。

ここ、梁山泊がもう“義の集団”というより、利害と面子と序列で動く組織として立ち上がってる。たぶん、読者の胃がキリッと締まる。良い意味で。


◈「投名状」改変:原作の“殺して証明”を、リメイクは“価値観の衝突”にした

原作では「投名状=人を斬って首を持ち帰る」。林冲も「難しくないが人が通らない」と受ける。

これ、物語としてはテンポがいい反面、現代読者にとって林冲の“義”が少し曇る危険がある。

リメイク版は、ここを明確に「林冲の倫理」として打ち出した。

無辜を斬るのはできないと正面から拒否

朱貴・杜遷・宋万も「それは梁山泊の義に反する」と連動

つまり、林冲が梁山泊に入る前に、梁山泊そのものの“義”が試される構図になってる

これ、かなり効いてる。

読者は「林冲が試されてる」だけじゃなく、「梁山泊は何者になりたいのか」を同時に見せられるから。


◈ 次回へのフック:原作の“偶然の旅人”を、リメイクは“楊家”に格上げ

原作では、三日目に旅人が来て逃げ、荷を得て、さらに大漢が出てきて——と流れる。

リメイク版は、ここを「楊家将」という固有名で早々に伏線を張った。

これで次回の戦いが、単なる“投名状イベント”じゃなく、梁山泊内部の綱引きの延長戦として始まる。読者に「続きが必要な理由」ができる。


◈ まとめ:この回でリメイクが“良くなった”核心

原作第十一回は、出来事の連鎖で「梁山泊に入る」回。

リメイク第十一回は、出来事は同じだけど――

柴進=支援者 → 導線を設計するプロデューサー

朱貴=残虐な耳目 → 組織の情報インフラ

王倫=嫉妬する秀才 → 器の小さい統治者

投名状=殺して証明 → 義の定義をめぐる衝突

こうして、梁山泊が「山賊の住処」から、“社会の外側にできた、もう一つの社会”として立ち上がった。

うん、読者はここから先、ただの武勇伝じゃなくて「この共同体はどこへ向かうのか」を追えるようになった。……王倫だけが、その未来に一番ビビってるけどね。自分の椅子が一番大事だから。

でも不思議なもので、人は必定以上に何かを恐れると、その恐れた方向へ自ら進んでいくことが多いんだ。

 
 
 

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