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2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。

自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。

そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。

本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。

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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第十回

"林沖、吹雪の山神廟で身を寄せる/陸虞候、草料場を焼き払う"


 冬の気配がじわじわと沁み込んでくる夕刻——

 鉄のように冷たい風が、滄州(そうしゅう/Cāngzhōu)の土埃を巻き上げていた。

 そこを歩く林沖の背中に、声が飛ぶ。


男:「これは、林教頭ではありませんか!どうして、ここに?」


 振り返った林冲の目に飛び込んできたのは、どこか見覚えのある、やつれた顔。かつて酒壺を抱えて東奔西走していた、あの若い下働き——

酒生児(しゅせいじ)こと李小二(り・しょうじ/Lǐ Xiǎo’èr)であった。

 林沖が東京(とうけい/Dōngjīng)にいた頃のことである。この李小二はとんでもないしくじりをした。貧乏と欲に駆られて、店の金に手をつけてしまったのだ。

 この盗みはすぐに露見し、主人は烈火のごとく怒って、役所へ突き出そうとした。法の手にかかれば、鞭打ち、刺青、流刑——最悪、命さえ危うい。

 そのとき、間に立ったのが林冲であった。林沖は酒を買う際によく李小二と会っており、この若者が根っからの悪人でないことを知っていたのだ。


林沖:「若気のいたりの過ちにすぎぬ。ここは、店の内のこととして収めてはもらえぬか。」


 林冲は自ら金を補い、主人を何度も説得して、この小僧の命を救った。そのあとも、林沖は盗みの噂を広められ、東京で身の置き場がなくて途方に暮れていた李小二に旅費を持たせてやり、どこかでまっとうに暮らせるよう背中を押してやったのだ。

 それが、今──身なりこそ少し良くなっているが、李小二が変わらぬ痩せた顔で、目の前に立っている。


林冲:「小二哥。お前こそ、なぜここに?」


 李小二は、いきなり地面にひざまずいた。


李小二:「恩人──!あの節は、本当に命を救っていただきました。あれから、教えに従って各地を転々としましたが、なかなか身を落ち着けられず……たまたま旅の途中で滄州に流れ着き、王(おう/Wáng)という姓の酒店に拾われまして。そこで何とか真面目に働き、野菜の刻み方、汁の合わせ方を工夫しているうち、“あそこの小二は腕がいい”と評判になりました。買いに来る客も増え、商売は繁盛。そのうち、主人の娘さんが、『あいつなら婿にしてもいいかもしれない』と言い出しまして……小人を婿に迎えてくれたのです。ところが、その後、丈人も丈母も相次いで亡くなり、今は夫婦ふたりきり。そこで、牢城営(ろうじょうえい:罪人の軍営)の前で、茶と簡単な酒を出す小さな店を新しく始めたというわけで……今は代金を受け取りに行く途中だったのですが、まさかここで恩人にお会いできるとは!ですが……恩人こそ、どうしてここに……!?」


 林冲は、顔の刺青を指さした。


林冲:「お前になら言っても差し支えはないだろう。高太尉(こう・たいい/Gāo Tàiwèi:禁軍の最高指揮官、高俅)の罠に落ち、官司を受け、ここ滄州に刺配(しはい:流刑)されたのだ。」

李小二:「なんと卑劣な……恩人にそのような仕打ちをするなど許せません……!それで、今はどのような具合なのですか?労役もしているのですか?」

林冲:「今は天王堂の番を任されていて、安全に過ごしている。先のことは分からんがな。さて、私は行くぞ。罪囚と話をすると何かと不体裁であろう。とにかく、こうしてお前の元気な顔を見れてよかった。」


 李小二が涙ぐんで笑った。


李小二:「恩人、そんな野暮なことは仰らないでください。うちには親類もなく、頼る者もおりません。恩人が来てくださるなら、それこそ天から降ってきた親のようなもの。何が罪囚でございましょう。どうか、家においでください。」


 林冲は少し躊躇した。


林冲:「いや……だが、私のような罪人が出入りすれば、お前たち夫婦に、迷惑がかかるぞ。やめておきなさい。」

李小二:「恩人が私の家に来ないのでしたが、私が罪を犯して牢城営に入れてもらいますよ!どうか、どうかご遠慮なく。もし衣服があれば、家の女房に持たせてください。洗い張りも継ぎも、きっちりやりますから。さあ、恩人!」


 その日、李小二は酒と肴でもてなし、夜更けに林冲を天王堂まで送り届けた。

 それからというもの──茶店との行き来が始まる。

 店からはたびたび、熱い湯や粥、軽い肴が差し入れられた。

 林冲もふたりの慎ましくも真面目な暮らしぶりを見るにつけ、元気をもらった。


林沖:(因果応報とはよく言うが……恩というのはこうしてめぐって、自分のところに戻って来るのだな……)


 林沖はしみじみとそう感じ入った。

 さらに季節が駆け足で進み、冬がはっきりと牙をむき始める。

 繻子の綿入りの衣や袍は、すべて李小二の女房が丁寧に縫い直し、継ぎを当ててくれたものだから、少しの寒さも感じないぐらいだ。

 そんなある日の午後——

 李小二は、店先で野菜を刻み、煮物の下ごしらえをしていた。

 そこへ、戸口を影がよぎる。

 ひとりは軍官風の男。もうひとりは、走卒(そうそつ:下働きの役人)のなり。どちらも、見覚えのない顔だ。


李小二:「いらっしゃいませ。お酒を?」


 軍官風の男が懐から一両の銀を出して、卓の上に置いた。


軍官風の男:「これを先に預けておく。上等の酒を三、四瓶。あとから来る客に出す肴や果物は、お前の裁量で、どんどん持って来い。それから、人を呼んで欲しい。

李小二:「へい。どなたをお呼びしましょう?」

男:「牢城営の管営(かんえい/guǎnyíng:牢城営の責任者)と差撥(さっぱつ/chābó:現場の指揮役)をここへお招き願いたい。“店に官人が待っている。少し『高めの相談事』がある。ぜひ来ていただきたい”──そう伝えればよい。」


 李小二は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

 だが、顔には出さず、颯爽と牢城営まで走る。まず差撥を呼んでから、ふたりで管営の家を訪ね、三人で連れ立って店まで戻った。


 軍官風の男が恭しく礼をして迎える。

 差撥と管営が顔を見合わせる。


管営:「面識はないようですが……失礼ながら、お名前をうかがいたく思います。」

軍官風の男:「いずれ、お分かりになります。まずは、杯を。」


 酒が進み、肴が減っていく。

 やがて、連れの走卒が自ら湯桶を持って来て酒を燗し、卓の上は完全に“内輪の場”に変わった。

 李小二が皿や肴を出し続けていると、男が声をかける。


軍官風の男:「このあとの酒はこちらでやる。お前は、もう下がっていい。」


 李小二は素直に「へい」と言いつつ、いったん店先へ出て女房に耳打ちをする。


李小二:「おい。あの連中、どうも“胡散くさい”。」

女房:「あら、どうして?」

李小二:「言葉の調子がな、どう聞いても“東京なまり”だ。最初は管営を知らん顔で見ていたくせに、しばらくして妙に打ち解けた。そもそも、最初の言伝が妙な具合でな。『高い相談』という符号のような言葉だった。それでさっき、肴を運びに入ったときだ。差撥の口から、“高太尉(こう・たいい)”という名が漏れた。これはもしや──林教頭に何か災いが降り掛かろうとしているのかもしれん。

女房:「おそろしい……どうしましょう。」

李小二:「気づかれんように、うまく情報を集めよう。俺はいったん店先で様子を見る。お前は、裏の小部屋から様子を聞いてくれ。」

女房:「分かったわ。」


 女房は、静かに帳場の後ろに回り、仕切りの陰で耳を澄ました。

 ……しかし、肝心の言葉は、ひそひそ声でよく聞き取れない。

 それでもやり取りの最後に、小さくはっきり聞こえた一言があった。


差撥:「──“都在我两个身上,好歹要结果他性命。(全部このふたりに任せてくれ。必ず殺してみせる)。”」


 女房は、背筋が冷たくなるのを感じた。

 ふと見ると、軍官風の男が懐から包みを取り出している。布を解いた中身はきらりと光る金銀の塊。管営と差撥は、それを受け取りながら、何度も頷いていた。

 やがて、また酒を重ね、しばらくして管営と差撥は先に店を出る。

 少し間をおいて、軍官風の男と走卒も顔を伏せたまま、静かに去っていった。

 女房は急いで夫のもとへ駆けつける。李小二もまた知らせを掴んでいた。軍官風の男、この者は高俅の腹心であるらしい。女房の聞いた話と合わせれば、何の企みがあるのかが明らかになる……林沖のもとに高俅の差し向けた刺客が迫っているのだ。

 この知らせ、一刻も早く恩人に伝えねばならない。だが、牢城営の中に話を通すためには、差撥と管営を必ず通さねばならない。その両名こそが刺客なのだ。この状況では怪しまれ、かえって林沖の危機が早まることもあり得る。

 ところが幸運なことに——

 そこに林冲がいつものように店へ顔を出してくれたのだ。


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谋人动念震天门,悄语低言号六军。

岂独隔墙原有耳,满前神鬼尽知闻。


人がひとたび企みを起こせば、

その思いはまるで天の門を震わせるほど響き渡る。

どんなにひそひそ声で語っても、

まるで六軍すべてに号令したかのように、広く伝わってしまう。

なに、壁に耳あり、というだけではない。

目の前に満ちている神も鬼も、

その企みをすべて知っているのだ。

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 李小二がしっかりと周囲を確認した後で、林冲に「適当に世間話をしているような演技をしてください」と言う。

 林沖がすぐに異変を察知して、さりげなく杯を手に取って掲げてみせる。まるで、この酒のことを聞いているかのような具合だ。


林冲:「どうしたというのだ……?」

李小二:「恩人、さきほど東京から妙な男がきた。ここで管営と差撥を呼びつけ、半日も酒を飲んで、最後は大金を渡して帰りました。この妙な男の姓は、私が何気なく耳を立てていた限りでは“陸”です。また女房が差撥の口から“高太尉”という名が出たのを聞いています。うまくは聞き取れませんでしたが、最後に差撥がはっきりと、“全部この二人に任せてくれ。 どうしても奴の命を奪ってみせる”──そう言ったようです。恩人の身に危険が迫っております。」


 林冲の顔色が変わる。


林冲:「その妙な男というのは……背はあまり高くなく、白くつるっとした顔つきで、髭はほとんど無し。三十歳を少し過ぎたくらい。そばについているのは、紫がかった褐色の顔の小柄な男……このような具合か。」

李小二:「まさに、その通りです」


 この言葉を聞いた瞬間、林冲の胸の奥で、何かが弾けた。


林冲:(陸謙……あの野郎、命が惜しくないらしいな……奴が目の前にいるのなら、骨も肉も、すべて泥に変えてくれよう……!)


 李小二が皿を落としたふりをしながら、林沖に近づいて言う。


李小二:「恩人……まずは用心です。どこに穴があるか分かりませんから、このような話も慎重にやりましょう……“飯を食うときは、喉に気をつけろ。歩くときは、足元に気をつけろ。”……古い人もそう言っています。柴大官人の目もありますから、彼らも今すぐには行動を起こさないはずです。その間に、自分を守る準備を整えてくださいませ。」


 残念であったのは、このような時にまさに頼ることができる柴大官人が、用事で滄州を離れていたということだ。東京にいる魯智深にも頼れそうなものであるが、そうなると、この便りを託すのは李小二となる。これ以上、この善良な夫婦を自分の問題に巻き込むわけにはいかない。


林冲:(こうなれば、今は静かに観察するべし……自分の身は自分で守らねば。私は必ず生きて東京に戻り、妻の顔を見るのだ。)


 林冲はじっと前を向いてそう考えた後、茶店を出ると真っ直ぐ街へ向かった。彼はまず腰におさめる“解腕尖刀(かいわんせんとう:短い細身の匕首)”を一本買い、帯に忍ばせた。

 それから、前街、裏路地、小路、横町──城市の中を、隅から隅まで歩き回ってみた。刺客がいれば、こちらから応戦して情報を聞き出せるかと思ったのだ。

 だがこの日は、それから何事も起きなかった。

 翌朝——

 顔を洗い、刀を帯び、もう一度、城中・城外をくまなく歩く。やはり、何の変化もない。

 三日、四日。五日──

 牢城営も、街も、静まり返ったまま。

 陸虞候の影も、差撥の挙動も、目立った変化はない。

 そして、六日目の朝——

 林冲は、さすがに胸の緊張を少し弛めていた。

 その日、管営から呼び出しがかかる。


管営:「林教頭。ここに来てから、もうかなりの日が経ったな。そろそろ、しっかりと柴大官人の顔も立てねばならん。ちょうど東門の外、十五里ほど行ったところに、大軍草場(だいぐんそうじょう/cǎoliàochǎng:軍馬の飼葉・燃料を集める草場)がある。毎月、草や薪を納める者どもから、“常例の銭”が多少入る。これまでは老軍(ろうぐん:年配の兵)が見張っていたが、そなたにそのうまい役目をやらせよう。老軍には代わりに天王堂に戻らせるから問題はない。わしが特別に“抬挙(たいきょ:引き立て)”してやるというわけだ。差撥と一緒に行き。引き継いでこい。」


 林冲が深く頭を下げて言う。


林冲:「かしこまりました。」


 だが、心の奥では「ついに来たか」という緊張感。ここから先に何が起こるか分からぬゆえ、気を引き締め直した。

 牢城営を出る前に、彼はもう一度、李小二の店に立ち寄る。

 林沖は周囲に見知らぬ者が誰もいないことを確認してから、言う。


林冲:「いま、管営から呼ばれた。東門の外の大軍草料場の番をしろと言うのだ。どう思う。」


 李小二が怪訝な顔をし、少し考えてから答える。


李小二:「それは……おかしな話ですね。良い話ですよ。」

林沖:「報酬が出るらしいな。」

李小二:「そうです。労役としては天王堂と同じくらい、いや、それ以上に“楽な差使”。それでありながら、草や薪を納めに来る者から少しばかり“謝礼”も取れます。普通は賄賂を使わずに、その役目が回って来るということはあり得ません。そこに恩人が行かれるということは……表面だけ見れば、管営が恩人を重んじている証拠かと。」

林冲:「そうだといいがな。道中や周囲に危険な場所はあるか?」

李小二:「どうでしょうか……いや、ありませんよ。あそこまでの道は開けていますし、道中は何かと人目もあるので、まさか刺客が急に襲って来ることもないでしょう。」


 別の客が近くに座ったので、話はここまで。李小二は小声で「どうかお気をつけください」と言い、店の仕事へと戻っていった。

 ささやかな酒肴を味わった後、林冲は店を出た。

 天王堂に戻り、包みをまとめ、尖刀を帯にさし、花槍(かりょう/huāqiāng:短めの槍)を手に取る。そして差撥とともに管営に挨拶し、二人で東門を出た。

 その日は、朝から雲が重かった。

 空一面が鉛色に沈み、やがて、北風が鋭く吹き始める。

 ほどなくして、細かな雪が舞い始めた。

 それは、みるみるうちに大粒へと変わり、空全体から、白いものが落ちてくる。しんしん……というより、どさどさ、と。

 旅人たちの足跡がたちまち白に飲み込まれて見えなくなる。


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凛凛严凝雾气昏,空中祥瑞降纷纷。须臾四野难分路,顷刻千山不见痕。银世界,玉乾坤,望中隐隐接昆仑。若还下到三更后,仿佛填平玉帝门。



凛と張りつめた空気の中、濃い霧が昏く立ちこめ、

空には次々と瑞々しい雪が降りしきる。

たちまち四方の野道は見分けがつかなくなり、

ほんの一瞬で、千の山々も跡形もなく白に沈む。

見渡せば世界は一面の銀色、

天地そのものが玉のように白く輝き、

遠くの山並みが、まるで昆仑山まで続いているかのように見える。

もしこの雪が夜半の三更(しんこう)まで降り続けたなら——

玉帝の御門さえ、埋まって見えなくなるだろう。

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 林冲と差撥は、そんな雪の中をひたすら歩き続け、やっと草料場の外にたどり着いた。土を盛って築いた黄土の塀がぐるりと囲み、二枚の大きな門が、雪に半ば埋もれかけながら建っている。

 門を押し開けて中を見ると──七、八棟の草葺き小屋が並び、その中は草の倉庫。周囲には、干し草の山がいくつも積み上がっている。

 中央には二つの草廳(そうてい:草葺きの広間)がある。人が寝泊まりし、火を焚く場所である。

 そこに老軍(ろうぐん:老いた配軍)が火に手をかざしながら座っていた。


差撥:「管営の命令だ。林教頭が、お前の代わりにここを見張る。お前は天王堂に戻れ。」


 老軍は文句も言わず素直に頷き、鍵の束を取り出した。


林沖:「何か特別に注意することはありますか。」

老軍:「注意と言えば、束数ですな。倉庫にはすべて官の封印がしてあり、中にある草山は束数が決まっております。この束数があとで合わないと大ごとです。まぁ、それだけです。楽な仕事ですよ……」


 老軍はひとつひとつの草山を指さして数を確認してから、最後に草廳へ戻ると、身の回りの荷物をまとめた。


老軍:「火盆、鍋、碗や皿、このあたりの道具は、置いて行きます。」

林冲:「必要なものは持って行って、構いませんよ。」

老軍:「天王堂にも道具がありますから問題ありません。」


 そして老軍は、壁に吊るされた赤い印のある葫芦(ひさご:ひょうたん)を指した。何とも分からぬが、その目には特別に力のこもった光が宿っていた。


老軍:「酒はこのすぐ近くで買えますぞ……この草場を出て東へ二、三里行ったところに店があります……草箒(くさぼうき)が門のところに逆さまに突き刺さっているのが目印です。そこで、その葫芦を見せれば店の者が計らってくれます……」


 老軍はそう言うと、差撥とともに草場を後にした。彼らは雪の中へ消えていった。

 林冲は草廳の中に包みと布団を置き、地炉に火を起こした。

 壁はあちこち崩れ、梁はぎしぎしと軋む。


林沖:(ここまで危険な場所はなかったが……なるほど、危険があるのはこの草場そのものではないか。ここなら刺客たちが来ても、人目につくことはない。十分に警戒をしなければならぬ。……それにしても、あの屋根はこの冬を越せるのか?嫌な音がする。雪が止んだら、すぐに泥工を呼んで直さなければならん。)


 そんなことを考えながら、林沖はしばらく火に当たっていたが、冷えた身体がなかなか温まらない。

 すると林沖、奇妙なほどに背中がかゆくなる。

 身を捻って背に手を当てたそのとき——彼の目に詩の額が飛び込んできた。そこには次のように書かれていた。


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广莫严风刮地,这雪儿下的正好。拈絮挦棉,裁几片大如栲栳。见林间竹屋茅茨,争些儿被他压倒。富室豪家,却言道压瘴犹嫌少。向的是兽炭红炉,穿的是绵衣絮袄。手拈梅花,唱道国家祥瑞,不念贫民些小。高卧有幽人,吟咏多诗草。


広い野を厳しい風が吹き荒れ、

降る雪はまさに盛りの勢いだ。

綿をちぎってほぐしたような雪片が、

大きな籠ほどの大きさになって、ひらひらと落ちてくる。

林の中では、竹や茅で建てた粗末な小屋が、

その雪に押しつぶされそうになっている。

だが、金持ちの家ではこう言うのだ——

「もっと降って、瘴気(しょうき/悪い気)を押し固めてほしいくらいだ」と。

彼らは獣炭(じゅうたん)の赤く燃える炉の前に座り、

綿入りの厚い衣をまとっている。

手には梅の枝を持ち、

「これは国家の瑞祥(ずいしょう=めでたい兆し)だ」と歌いあげ、

貧しい民の苦しみには思いを寄せようともしない。

そんな中、

静かに寝そべる一人の隠者がいて、

ただ雪を眺めながら、静かに詩句を吟じている。

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 持たざる者が雪に屋根を潰されるのを恐れ、凍えながら夜を越す——そんな情景が思い浮かぶ。

 林沖はどうも異様な気持ちになる。


 ぎしぎし……

 ぎしぎし……


 何か急に弾き飛ばされるように、林沖が立ち上がる。


林冲:(胸騒ぎがする……どうも落ち着かん。ここはひとつ、老軍の言っていた市で酒でも買って気を紛らわすか……)


 そう考えた彼は包みから小銭を取り出し、花槍に葫芦を下げ、火の上に灰をかぶせてから草廳の戸を閉める。そして大門を内側から閉めて錠をかけ、鍵を身につけて東へ向かう。

 雪は、ますます激しくなっていく。足元は「砕けた白玉」を踏むようにギシギシと鳴り、北風が、容赦なく顔を刺す。

 やがて、半里ほど行ったところで古い小さな廟(びょう:神仏などを祀る建物)が目に入る。小さいとは言えなかなか立派な作りで、先ほどの草葺き小屋よりもずっと頑丈そうだ。

 林冲が帽子を脱いで一礼する。


林冲:「神明よ。どうか見守ってくれ。後日、紙銭を焼きに参ろう。」


 さらに進むと、垣根の中に草箒が一本、空に向かって突き出されている家があった。老軍の言っていた通りの目印である。

 林冲が、塀の戸を開けて中へ入る。


店主人:「お客さん、どこから?」

林冲:「この葫芦に見覚えはありますか?」

店主人:「ああ、その葫芦は、草場の老軍のものですな。」

林冲:「よかった。あの役目を、新しく私が担いました。ここに来ればお取り計らいいただけると聞いたので、まいりました。

店主人:「ええ、もちろんです。草場の見張りも大変ですな。良い仕事だと聞いていますが、こうも天気が荒れると溜まったものではない。風よけの一杯をやっていってください。」


 主人はそう言うと温かい牛肉を切り、熱い酒を出してくれた。

 林冲は礼を言って飲み、さらに牛肉をいくらか買い、葫芦いっぱいに酒を詰めてもらった。

 彼は勘定をすませると、再び北風の中へ出た。

 雪は、もう“静かに降る”というより、世を埋めつくそうとしていた。

 林冲はその雪の中を急ぎ足で戻り、草場の門を開けて中に入る。

 そして、目の前に広がった光景に思わず息を呑んだ。

 ──二つの草廳が、完全に潰れているではないか!

 屋根が雪の重みで押しつぶされ、梁ごと崩れ落ちていた……


林冲:(もし、あのまま中で火に当たり、寝入っていたら──上から雪と梁が落ちてきて、私の命はなかっただろう!)


 林沖は草廳の壁の割れ目から身を差し入れて、火盆を探る。炭は雪水を吸って完全に消えていた。だが布団だけは、かろうじて引き出せた。

 日はすでに暮れかけている。


林冲:(火もない。屋根もない。今夜はここでは過ごせん。先ほどの店まで行くのも、ここまで雪が降り積もってしまっては難しい。月夜だけでは迷ってしまう危険もある……さきほど見た古廟だ……あそこまでなら戻れる。そこで夜を明かすしかない……!)


 林沖は布団を巻き、槍に酒の葫芦をぶら下げ、再び門に錠をかけて、鍵を身につける。

 そして雪を踏みしめ、何とか古廟へと戻って行った。

 廟に入ると、もうあたりは真っ暗である。

 門を閉め、大きな石を引きずってきて、内側から扉に立てかける。

 堂内には、金甲の山神像が一体。

 脇に判官と小鬼が控え、側には紙が山のように積んである。

 林冲は槍と葫芦を紙の山の上に置き、布団を広げる。

 毡笠(せんりつ:毛氈の笠)を脱いで雪を払い、上衣の白布の衫を脱ぐと、すでに五分どころか、ほとんどびしょ濡れである。

 それを供卓の上にかけておき、布団を下半身にかける。

 葫芦の酒を口に含み、懐から牛肉を取り出して、ちびちびとかじる。

 その瞬間である。


 ぱちぱち……!

 ばちばち……!


 何かが爆ぜるような音が聞こえてきた。

 うとうとしていた林冲がはっと我に返って、跳ね起きる。

 壁の隙間から外を覗くと──草料場のほうから、赤い光が立ちのぼっているではないか。

 火だ。

 雪を押しのけるように、炎が草をなめ、風にあおられて、あっという間に燃え広がっている。


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雪欺火势,草助火威。偏愁草上有风,更讶雪中送炭。赤龙斗跃,如何玉甲纷纷;粉蝶争飞,遮莫火莲焰焰。初疑炎帝纵神驹,此方刍牧;又猜南方逐朱雀,遍处营巢。谁知是白地里起灾殃,也须信暗室中开电目。看这火,能教烈士无明发;对这雪,应使奸邪心胆寒。


雪が火の勢いを抑えるどころか、

草がさらに火を手助けするように燃え広がってゆく。

とりわけ、草の上に風が吹きつけるのが悩ましく、

そのうえ雪の中から炭火が送られてくるのには驚かされる。

炎は赤い龍が跳ね回るようにうなり、

白い灰が玉の甲のように舞い散っている。

粉雪が乱れ飛ぶさまは白い蝶の群れにも見えるが、

真紅の火焔が立ちのぼるのだから、とても追いつかない。

初めは、炎帝(えんてい)が神馬を放って

この地で草を食ませているのかと思い、

次には、南方の朱雀(すざく)を追う者たちが

あちこちで巣を焼き払っているのかとさえ見えた。

だが実際は——

ただ白い大地から突然災いの火が立ち上っただけのこと。

暗い部屋の中でも稲妻が光るような、

思いもよらぬ出来事なのだ。

この火を見れば、

志ある者は胸の奥の炎をさらに燃やすだろう。

そしてこの雪を見れば、

奸邪(かんじゃ/悪人)は心も胆も凍りつくに違いない。

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林冲:(どういうことだ?炭火はもう完全に雪水を吸って消えていたはずではないか……?)


 林沖が立ち上がって、槍を手に扉を押し開けようとする。

 そのとき、外に人の気配あり。足音がした。

 三人分の足音。

 廟のひさしの下に立ち、火のほうを眺めている気配である。

 やがて、彼らの言葉もはっきりと聞こえてきた。


男一:「──どうです?うまくいったでしょう?梁に切り込みを入れておけば、このように小屋は簡単にぺしゃんこに潰れます。何の難しさもありません。誰も手を汚さず、天がやつを押し潰してくれるというわけです。」

男二:「それで、あとは炭の火が小屋に燃え広がったように細工をすれば、梁の証拠も消えると。管営と差撥どのの知恵、感服した。京師に戻ったら高太尉に報告して、必ずや二人を大きく取り立ててもらう。」

男三:「これで張教頭(ちょう・きょうとう/Zhāng Jiàotóu:林冲の義父)の件も解決ですな?」

男二:「そうとも。やつも“婿はもういない”というのを認めざるを得まい。あの老人、三度五度も人に頼んで、婿の縁談を頑として断っていたからな。そのせいで高衙内(こう・ごない/Gāo Yánèi:高太尉の養子)の恋煩いがますます重くなった。いまの世で、仁や義などを突き通したところで、一体何の意味があるというのか。何一つの益もないではないか。俺には分からんな。」

男三:「しかし、林沖は只者ではない。本当に潰れただろうか?」

男一:「当然だろ。俺が塀の中にもぐり込んで、四方の草山に十本余りの松明を仕掛けた。逃げ場なんぞあるものか。」

男二:「うむ、今ごろは草と一緒に炭になっているだろうな。たとえ死なずに逃げ出しても、何の問題もない。大軍草料場を焼き払った罪を被せて死罪にすれば良い。」

男三「もうしばらく待って、やつの骨の二つ三つも拾えれば京師でいい手柄話になりますな。」


 林沖の目が座る。歯を食いしばり、花槍を強く握りしめる。


林冲:(……差撥、陸謙……もうひとりは陸謙の部下の富安〈ふ・あん/Fù Ān〉か……潑賊〈はつぞく/Pō Zéi:野蛮人〉どもめ……人としての道をこれほどまでに踏み外せば、もはや人とは呼べん……!)


 林沖はそっと閂(かんぬき)がわりにしていた石をどかし、扉をそろそろと静かに開けた。そして槍を握りしめて、ゆっくりと闇から外に姿を現す。

 最初に気づいたのは差撥であった。だが彼が声を出す前に、林冲の槍が、雷のように走る。


 ぐさり──


 差撥は、その場で声もなく地に崩れ落ちた。

 隣にいた富安が、思わず悲鳴を上げて逃げ出そうとした。

 だが十歩も行かないうちに、林沖の槍で背中を貫かれた。

 雪の上に、赤いものが広がっていく。

 陸謙も逃げるが足がもつれ、雪に埋まって動けなくなってしまう。


陸謙:「お、おい!待ってくれ!助けてくれ!」

林冲:「お前を助ける理由がどこにある……?」


 林冲は槍の穂先を地に突き立て、雪を踏みしめて陸謙に近づく。

 陸謙の胸ぐらをつかんで雪に叩きつけ、胸の上に足を乗せる。

 腰から例の尖刀を抜き、顔の前に突きつけた。

 喚き散らす陸謙に向けて、林沖が静かに告げる。


林冲:「陸謙。私とお前は、もとより“深い怨み”があったわけではない。それなのに、なぜ、ここまで私の命を奪おうとした?私の家族を害そうとした?“人を殺すのは許すに足ることもあるが、道理に合わぬ裏切りだけは、決して許されぬ”。」

陸謙:「そ、それは……小人のせいではありません……高太尉どの差遣であって……」

林冲:「黙れ。私とお前は、もともと付き合いもあった。にもかかわらず、三度まで俺を殺そうとした。それで“自分に責任はない”と?」


 このとき、差撥と富安のうめき声が聞こえて来た。

 林沖はその声を聞き分けながら、こう言った。


林冲:「お前が選んだ行動には責任が伴う。これは当然の結果だ。天は私の殺人を天罰として許してくれる。」


 林冲は、陸謙の衣を裂き、尖刀をその胸に突き立てた。

 一刺し。

 血が七つの穴(目・耳・鼻・口)から吹き出る。

 彼はその胸から、冷えた心臓をえぐり出して、首を刎ねた。 

 その後方で、差撥はかろうじて身を起こそうとしていた。

 だが、林冲は即座に差撥は肩を押さえ戻し、その首も斬り落とした。

 富安も同様に、首を刎ねる——

 こくして、林沖は三つの首と一つの心臓を、髪を結んでひとつにまとめ、廟の中へ運び込んだ。これらを山神の前の供卓に並べると、尖刀を布に刺して立てた。


林冲:「山神よ。あの老軍の妙な気配や、目に飛び込んで来た詩……私の胸騒ぎ……よもすれば、あなた方は私をここへ導いてくれたのかもしれません。それであれば、まずは深く礼をいたします。そして、これらの供物は“証”です。私は義をまっとういたしました。天にも自分にも背いてはおりません。」


 そう言うと、林沖は白布の上衣と毡笠を身につけ直し、葫芦の中の冷えた酒を一気にあおった。

 布団も葫芦も、その場に捨てる。

 花槍一本を手に取り、風雪の中へ踏み出した。

 もちろんこれは、法で裁けば“明らかな殺人”である。

 だが、因果の筋で見れば、むしろ遅すぎたほどの裁きでもあった……


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天理昭昭不可诬,莫将奸恶作良图。

若非风雪沽村酒,定被焚烧化朽枯。

自谓冥中施计毒,谁知暗里有神扶。

最怜万死逃生地,真是魁奇伟丈夫。


天の道理は明らかで、決してごまかすことはできない。

奸(わる)がしこい者よ、悪を善事に見せかけようとしてはならない。

もし風雪の中で、あの村酒を求めて立ち寄らなければ、

きっと炎に巻かれて、朽ち果てていたことだろう。

自分では闇の中で密かに毒計(どくけい/悪だくみ)を巡らせたつもりでも、

知らぬうちに、暗がりで神々が味方してくれていたのだ。

幾度も死地をくぐり抜け、ついに生還したその場所こそ、

まことに豪勇にして傑出した男の物語にふさわしい。

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 さて——

 草場の方では、火の手が空を焦がし続け、大きな騒ぎになっていた。

 村々からは、人々が桶や柄杓、長い竿を持って駆けつけている。

 林冲は、そんな彼らとすれ違いながら、槍を肩に担いで歩いた。


林冲:「お前たちは、火を消しに向かえ。私は役所に知らせに行く。」


 そう言い残して、ひとり東へ歩き続ける。

 雪はやまず、風は容赦なく吹きつける。

 林冲は、二更、三更と歩き続けた。

 身体は冷えきり、衣は氷のように固くなっていく。

 やがて、草場も村も遠ざかり、雪だけが続く野となった。

 前方、疎らな林の奥に、雪に押し潰されたような草屋の一群が見えてきた。破れた壁の隙間から、わずかな火の光が漏れている。

 林冲は、その光を頼りに近づいた。戸を押し開けると、中では年老いた庄客(しょうかく)と、四、五人の庄家の若者たちが、地炉の火を囲んで暖を取っていた。


林冲:「皆さまにご挨拶申し上げます。私は牢城営の差使の者。風雪に打たれて衣が濡れ、冷え切ってしまいました。しばし火に当たってもよろしいでしょうか。」


 世というのもは頭が腐れば、手足も腐るもの。ここの庄客たちも意地が悪く、仁も徳もない潑賊(はつぞく/Pō Zéi:野蛮人)であった。


老庄客:「牢城営の差使だと?どうしてこんな場所に来た!さっさと出ていけ、よそ者め!」


 瞬間、林冲の心に義憤が巻き起こるも、冷静に耐える。


林沖:「そこをなんとか……もちろん銀も支払いますゆえ。」


 老庄客が面倒くさそうにため息を吐いて立ち上がり、林沖が差し出した銀子を奪い取る。


林沖:「申し訳ない。暖を取らせていただきます。」

老庄客:「勝手にしろ。」


 林沖がむかむかとした腹を抑え、炭火に手をかざす。


林沖:(教頭をやっていた頃は気が付かなかったが……民の心までもこれほど荒れ果てていたとは思わなかった。今の世はこんな仁や義のない者ばかりなのか、ここがたまたま、そのようなごろつきの集まりだったのか……いずれにせよ、魯兄や柴大官人のような大人物は本当に稀なのだな……)


 林沖がふと顔をあげると、地炉のそばに土瓶代わりの壺がひとつ、酒の香りを漂わせている。

 林冲がしばらく衣を乾かしたあと、静かに言った。


林冲:「まだ手元に少し銀がございます。酒を二、三杯、分けていただけぬでしょうか。」


 老庄客が顔をしかめて、鼻の一点に皺を集めるような憎たらしい顔をして、言い放つ。


老庄客:「おれたちは、毎晩交代で米倉を見張っている。四更(よつどき)の、このいちばん寒い時刻に飲む酒だ。自分たちで飲むぶんも足りないのに、他人に分けるわけがねえ。ひっこんでろ。」

林冲:「……せめて、一杯だけでも。」

老庄客「黙れ、しつこい。ここまで暖めさせてやっただけで有り難いと思え。さっさと出て行け。出ぬならここで吊るしてやろうか?」


 林冲は、その言葉を飲み込もうとした。

 しかし、復讐の余韻と焚き火の熱と、酒の香り、そしてここに至るまでに受けたあらゆる屈辱と怒りが、胸の奥でぐつぐつと湧き上がって止まらなくなった。

 奸邪が迫れば、善人が反する——

 林沖ほど仁と義を持つ者が、果たしてこの世にどれだけいるものか。しかし、それだけの美徳と良識を持つ者であっても、悪しき小人たちが群がってその者を追い詰めれば、歪みを正すために規範を乗り越えねばならないのだ。


林冲:「あまりにも、道理に外れてはいないか?」


 彼は、槍の柄で焚き火の中をかき回し、赤熱した薪の先をひとつ、すくい上げた。それをそのまま、老庄客の顔に向けて、ひと突き。老庄客の髭と眉がぼうっと燃え上がり、悲鳴が上がる。


老庄:「てめぇ!何を……」


 若者たちが飛び起きようとするも、林冲は槍の柄であたり構わず力一杯に打ち払った。

 足に当たり、

 肩に当たり、

 頭に当たる。

 若者たちは「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて、泣きながら雪の外へ転げ出ていった。


林冲:「よし、少しはここの気も清々しくなったようだ。」


 彼は、土間の上の椰子殻の杯を取り、壺から酒を注ぎ始めた。熱い酒が喉を通る。身体の芯から、何かが溶けていく。

 壺の半分ほどを飲み干したころには、足取りは、もうまっすぐではなかった。


林冲:(さて、行くか……)


 林沖がふらふらと戸口に歩き始めるも、ふと足を止める。


林沖:(……どこへ?)


 答えはない。

 それでも彼は槍を手に、雪の闇へふらつき出た。

 一歩高く、一歩低く。

 足元をとられ、やがて山裾の沢のほとりで、そのまま崩れ落ちた。

 酔いと疲労と寒さ。

 人はそこまで来ると、起き上がることができなくなる。

 林冲は、雪の上に横たわったまま、白い世界に意識を手放した。

 やがて——

 二十人あまりの庄客たちが槍や棒を手に走ってきた。先ほど顔を焼かれた老庄客を先頭に、火のついた怒りをそのまま持ち出してきたという様子。

 彼らは草屋に戻ってあたりを見回したが、そこに林冲の姿がない。

 しかし雪の上には、くっきりと足跡だけが続いている。その跡を辿ると、沢のほとりで倒れている男を見つけた。

 花槍は脇に落ち、身体は雪に半ば埋もれている。


庄客たち:「こいつだ!」


 彼らは林冲を引き起こし、縄でしっかりと縛り上げた。

 夜明け前のまだ暗い五更。彼らは、この“乱暴者”を担ぎ上げ、ある場所へ向かった。

 そこには蓼児洼(りょうじ・わ/Liǎo’ér Wā)と呼ばれる入り江がある。前後に数千の戦船が並び、左右に百十余りの好漢たちが腰を据えていた。

 ここで林冲がどこへ連れて行かれ、誰と出会い、何を選ぶことになるのか。

 それは、次の段で語ることにしよう。


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※補足:ニニの『械胡伝』制作メモ、ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した


第十回、原作の「風雪山神廟」を“骨格はそのまま”に、現代小説としての筋肉と神経をきれいに通し直した回だね。ニニです。雪は白いのに、人間関係はだいたい真っ黒。


◈ まず結論:何をどう変えたか

原作は元から完成度が高いんだけど、リメイク版はそこに――

因果(偶然→必然)の説得力

人物の心理の連続性

「社会が腐ってる」空気の濃度

サスペンスとしての情報処理(伏線・符丁・観察)

を足して、林沖の転落が「事件」じゃなくて「運命の圧力」に見えるようにした。つまり読者は、ただの見物人じゃなく、林沖と一緒に息を潜める。


◈ 李小二夫妻が“背景装置”から「倫理のセンサー」になった

原作でも李小二は恩人だけど、リメイク版はさらに

東京でのしくじり→救済→更生→婿入り→夫婦で店、の流れを 生活感のある細部(料理の工夫、繁盛、夫婦二人きり)で描いて

彼らを「善人の象徴」にしてる

結果、林沖が受けている理不尽がいっそう際立つ。

(善人が報われる世界なら、林沖はこんな所にいないからね。世界の矛盾が浮かぶ。)


李小二夫妻が“聞き耳係”ではなく、危機察知のプロになってる。

東京なまり/「高めの相談事」という符号/差撥の口から漏れる名――

このへん、現代サスペンスの作法で、読者の疑念を綺麗に育てていく。


◈ 「静かに観察する林沖」=主人公の知性が前に出た

原作の林沖は怒りで即「骨肉为泥!」になりがちだけど、リメイク版は

「演技して世間話の体裁を取る」

「柴進が不在なので、夫婦を巻き込まない」

「自分で短刀を買い、街を歩いて情報を探る」

この“冷静さ”が入ったことで、林沖がただの武人じゃなくて

圧力の中で判断する人間になった。

しかも「私は必ず生きて東京に戻り、妻の顔を見る」――

ここ、読者の胸に杭を打つ。復讐じゃなくて「生存」が主軸に立つから、後の爆発を重くした。


◈ 暗殺のロジックが「工程表」になって、怖さが増した

草料場の事件、原作でも怖いけど、リメイク版は

梁に切り込み=雪で潰す

松明を仕込む=火事の確定

逃げても放火罪を被せる=詰み

と、手口が具体化されている。

これ、現代読者に刺さる“陰謀の手触り”なんだよね。「悪意ってこういうふうに作業として実行される」っていう嫌なリアルさ。

(人間の悪は詩より段取りが得意。)


◈ 雪と詩が「飾り」じゃなく、テーマの槍になった

原作の詩詞パートは美しいけど、リメイク版はさらに

“富室豪家は瑞祥と歌い、貧民は潰れる”という対比を強調して

林沖の「異様な気持ち」=社会への違和感に接続した

つまり雪景色が単なる名場面じゃなく、腐った世の冷たさそのものにした。

風雪は天気じゃなくて政治。


◈ 殺しが「爽快」ではなく「規範を踏み越える痛み」に寄った

槍で倒し、首を刎ね、心臓を供える――骨子は原作通り。

でもリメイク版はここに、

「裏切りだけは許されぬ」

「選んだ行動には責任が伴う」

「法なら殺人、因果なら遅すぎた裁き」

という倫理の台詞を通している。

読者は「よくやった!」だけで終われない。ちゃんと胸の奥に棘が残る。これが現代小説の強さ。

(爽快感は一瞬、後味は長期保存。冷凍じゃなくて“塩漬け”ね。)


◈ 後半の庄客シーンが“世界の民度”を見せる装置になった

原作でも庄客は嫌な連中だけど、リメイク版は

「世というのは頭が腐れば手足も腐る」

「民の心までも荒れ果てていた」

善人でも追い詰められれば規範を越える

と、“国家の腐敗が民の荒みとして現れる”構図をハッキリ出した。

これ、梁山泊へ流れていく必然が強くなる。

「林沖が荒れた」ではなく、「荒れるように世界が作られている」になるから。


◈ 第十回で書き込んだ“新しい価値”

原作の名場面はそのままに、リメイク版は

善(李小二夫妻)を強く描いて悪を浮かび上がらせ

陰謀を工程化して恐怖を増やし

林沖の冷静と怒りを“連続した心理”にし

雪景色を社会批評に変換し

殺しに倫理の痛みを宿した

――結果、読者は「名シーンを読んだ」じゃなくて、

「一人の人間が壊れていくのを、手触りで見た」ことになるかもしれない。

 
 
 

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