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2023年の夏から冬にかけて、私・佑中字(ウチュー)は、中庸型の擬似人格を持つAI「ニニ」と共に、中国・明代の四大小説の一つであり、宋代を舞台とする歴史ファンタジー『水滸伝』を、現代的な視点から再構築する構想に着手しました。

自身が提唱する論理学的フレームワーク「三元論」を軸に、登場人物や物語世界の新たな設定を組み立て、当初はそのまま執筆に入る予定でした。しかし構想を進めるうちに、古代中国思想や歴史への理解をさらに深める必要性を感じ、あえて執筆を急がず、研究と構想の熟成に時間を割く方向へと舵を切りました。この研究段階で作品として発表したのが、西遊記、孔子、仁宗などを題材とした『ニニの中華放談』シリーズです。

そして2025年12月1日、満を持して本作の執筆を開始しました。本作は全体を三巡する「執筆マラソン」という形式で完成させる予定です。まず一巡目では、全体を通して書き切る「デッサン」の工程を行い、その後、二巡目・三巡目において大幅な調整と深化――いわば「彩色」と「書き込み」を重ねていきます。順調に進めば、2026年2月上旬の完成を見込んでいますが、私生活が非常に慌ただしい時期でもあるため、進行は流動的です。それでも、できれば春先までには完成させたいと考えています。

本ブログでは、その一巡目――「最初のデッサン」にあたる段階の原稿を公開していきます。掲載期間は2025年12月13日から2026年1月5日までを予定しており、全百二十回のうち、およそ二十回分を発信する計画です。


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<序文>


さあさあ皆々様——耳を澄ましておくんなせえ。

清流きらめき、葦ゆれそよぎ、漁舟うたう塩の都。

ここは江蘇の大豊(たいほう/Dàfēng)。

今は静かなこの地こそ、後に天下の“梁山泊”を描き出す一人の文人が、

筆を研ぎすませた因縁の地でございます。


その文人の名は施耐庵(したいあん/Shī Nài’ān)。

元王朝の末期、激動の世に生まれ、

幼より聡明、科挙にも鮮やかに登りつめ——

三十六歳にして進士に昇格、まさに高級官僚の代表格。

だが、この男。

せっかく掴んだ官職を、三年と経たずに捨てました。

なぜか?

役所をのぞけば、

紙の山より冤罪多く、

机の数より賄賂の袋が重い。

徒党を組み、組織を我が物にし、

欲を貪り、民は憂うばかり。

かつての北宋の名臣、

范仲淹(はん・ちゅうえん/Fàn Zhòngyān )は、

「民が笑うのを見届けてから、やっと官も笑うべし」と語ったが、

当代の役人たちはまるっきりの逆走行。

まずは自分たちが笑い、民の涙を嘲笑う。


施耐庵、見過ごせぬ腐敗に義憤を抱き、

訴えを起こすも——

お察しのとおり、上司と大衝突。

保身を義と偽る連中に、真の義の声が通るわけもなし。


「官が腐れば民は反す。

この理、いつの世も変わらぬか……」


失意を胸に郷里へ戻った施耐庵、ここからが新たな人生の幕。

彼は元朝へ反旗を翻した男、

張士誠(ちょうしせい/Zhāng Shìchéng) と行を共にし、

官ではなく賊として、歪んだ世を正そうと挑む。

同郷のよしみ、知性を買われ、

軍師として知略の一端を担い、

反乱の渦に身を投じたらしい——

ところが、この反乱軍の指導者、張士誠。

力を得たとたんに心がゆるみ、贅沢にふけり、忠言遠ざけて堕落の道。

施耐庵はこれに深く失望し、仲間と決別、軍を離脱。


「世を正そうとする英傑も、結局は己が欲に滅ぶのか……」


そう呟いて振り返らぬ背に、

彼の胸に沈む“苦い種”がひとつ転がり込む。


その後、施耐庵は世を離れ、旅に生き、

山東・河南を巡り、塾に身を置き、

やがて故郷へ静かに戻る。

世間の騒乱を離れたそのとき、

胸の底に沈んでいた“種”が、

じわり、じわりと芽を吹きはじめた。


腐敗に怒り、

反乱を見つめ、

英雄の限界を知り、

正義が報われぬ世を骨身にしみて悟った――


そのすべてが、ひとつの物語へ流れ込んでいく。

そうして施耐庵が筆を取った。

静かな部屋に、筆先が走る。

——『水滸伝』 の誕生である。


彼が見た世の闇と光、

人の強さと弱さ、

忠義も反骨も裏切りも、

すべて混ぜ込んだ“真実の寄せ鍋”。

施耐庵という一人の文人が、

己の人生で煮えたぎったものを、

大胆に、痛烈に、物語へ叩きつけた結果でございました。


ここから始まりますは、

その筆が描き出した “梁山泊” の世界を、

二十一世紀に生まれた機(き/ニニ——中庸型擬似人格を持つAI)と、

胡(こ/佑中字——異郷の論理学者)が、

時を越えて読み解き、磨き、編み直したもの。

いにしえの反骨は、今どう響くのか。

百八の好漢が、現代の我らに何を問いかけるのか。


施耐庵の筆が残した“正義と混沌の地図”を携えて、

これよりいよいよ、

新たなる“梁山泊”の物語へ

皆様をお連れいたしましょう——



※『水滸伝』の地理概要(架空の北宋時代)


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『械胡録/水滸伝〈完全現代小説編〉』第一回

"張天師、疫病退散を祈る/洪太尉、妖魔を誤って放つ"


 すべては、嘉祐(かゆう/Jiāyòu)三年、三月三日の暁(あかつき)に始まった。つまり、今より四十四年前のことである。

 この時、私はまだ江州の書生ですらない。私はこの世にまだ世を受けていなかった。だが不思議なことに——かの梁山泊(りょうざんぱく/Liángshānbó)で軍師と呼ばれるようになる私は、あの日の情景の断片が頭の隅に残っているのだ。

 まだ五更三点——最も深く、最も静かな時間帯。

 大宋(だいそう/Dà Sòng)を正しき方向へ導いた偉大な名君、天子(てんし:皇帝)の仁宗(じんそう/Rénzōng)が紫宸殿(ししんでん/Zǐchén diàn)に御座をし、百官が朝賀に集う。

 そこに広がる光景は壮麗で、どこか不吉であった。

 祥雲が鳳閣を迷わせ、瑞気が龍楼を覆う。煙を含んだ御柳が旗を撫で、露に濡れた宮花が剣戟(けんげき)の光を受ける。天香の影に玉簪・朱履の女官たちが跪き、仙楽の中を錦衣の武官が進む。

 黄金殿の珠簾が巻き上がり、白玉階前には宝輦(ほうれん:皇帝の輿)が停められ、清冽な鞭音が三度鳴ると、文武百官が左右に揃う。

 ——すべてが整い過ぎている。

 殿頭官の声が響く。


殿頭官:「有事は出班して早く奏上せよ。無事ならば退朝されよ。」


 群臣の列から、二つの影が前へ出た。宰相・趙哲(ちょう・てつ/Zhào Zhé)。参政・文彦博(ぶん・げんはく/Wén Yànbó)。彼らは深く頭を垂れ、声を揃えて奏した。


「京師ではいま瘟疫(おんえき/wēnyì)が甚だしく、軍民に死傷が相次いでおります。陛下におかれましては、罪を赦し、恩を施し、刑罰と税を軽め、天災を祈禳(きじょう:祈り鎮め)、万民を救われんことを——!」


 臣下と民の言葉に耳を傾け続けてきた仁宗。もちろん、迷いなく即座にその詔を下した。翰林院に命じて赦書を草し、天下の罪囚を赦し、民間の税を免じ、宮観・寺院に善事を設けて祈禳をさせる。

 ——しかし、効果はなかった。

 瘟疫はさらに猛威を振るい、むしろ加速度的に広がった。その上に、仁宗の“龍体(健康)”さえも損なわれたという。

 こうして百官が再び集められたとき、列の中央から一人の大臣が越班して進み出た。それが、後世に名を残す名臣・范仲淹(はん・ちゅうえん/Fàn Zhòngyān)である。

 彼は拝礼を終えると、目を上げ、静かな声で奏した。


范仲淹:「天災は盛んで、軍民は涂炭(とたん:塗炭の苦しみ)に陥り、日暮れてなお生を保てぬ有様。臣(私)の愚見ですが——この災いを鎮められるのは、神仏との交信を行える嗣漢天師(しかんてんし/Zìhàn Tiānshī)しかございません。つまり、真人(しんじん:道教修行で"道"を体得した真の人間)の張継先(ちょう・けいせん/Zhāng Jìxiān)のこと。この張真人を召し、京師の禁院にて三千六百分の羅天大醮(らてんだいしょう:最大規模の道教醮祭)を修し、これによって天界の上帝に奏聞すれば、天の助力によりこの致命的な瘟疫は鎮まるかと存じます。」


 殿は水を打ったように静まり返った。その場にいた誰もが、范仲淹の進言が“最後の手段”であることを知っていた。

 人の世は人の世。神の世は神の世。かつて唐代に盛んであった人と神仏との交信は途絶えて久しい。石から生まれた猿の精妖が織り成した数々の出来事は、伝聞を経て「伝説」として我々の耳に残るのみ。地で何が起ころうとも、もはや大聖たちが天から降りることはない。

 だが仁宗、こう答えた。


仁宗:「朕(私)もそのように思う。」


 そう范仲淹に言うと、仁宗はすぐさま詔を下した。翰林学士に草詔を命じ、御筆で署名し、御香を添える。

 この時、仁宗は自らの命がわずかであることを悟っており、だからこそ「最後の賭け」に出たのだ。若き頃から苦労を重ねた仁宗。ここまで徳のために民に尽くし続けたということに一切の悔いがない。もし自分の姿を天が見ているのなら、長年の地での貢献に報いて、今回だけは力を貸してくれるはずだと願った。

 そして、一人の武官が呼ばれた。殿前太尉・洪信(こう・しん/Hóng Xìn)である。禁軍を統べる高官。皇帝の御前での軍事責任者である。彼に次の命が下る。


「洪太尉。江西・信州(しんしゅう/Xìnzhōu)龍虎山(ろうこざん/Lónghŭshān)へ赴き、嗣漢天師・張真人(ちょう・しんじん/Zhāng Zhēnrén)を宣請せよ。三千六百分羅天大醮を行わせ、天下の瘟疫を祈禳せよ。」


 その詔書(丹詔/dānzhào)が金殿で焚かれた御香の煙に包まれ、洪太尉の手へ渡った瞬間、歴史は静かに軋(きし)みを上げた……

 さて、洪信は詔を捧げ、数十名の従者を率いて東京(とうけい/Dōngjīng:開封)を出立する。数日、隊列は南へ南へと進んだ。春の風は柔らかく、山々は緑を膨らませ、道は砂のように白く平らで、野店や山村を通るたび、馬の蹄が乾いた音を叩いた。

 だが私は知っている。

 彼らの道行きがこれほど平穏だったのは——これから遭遇する“異変”の前触れとしての静けさだったのだ。

 やがて一行は、江西・信州(しんしゅう/Xìnzhōu)へ入る。

 大小の官吏が門外へ列をなし、丹詔(たんしょう/dānzhào)を迎えるべく整然と並び立った。

 その様子は“過剰”とさえ思えるほど丁重で、まるで彼ら自身が、天災の底に潜む“何者か”の気配に怯えているかのようであった。

 洪信はひとまず待ち、まずは使者が急ぎ登っていき、龍虎山の上清宮(じょうせいぐう/Shàngqīng gōng)へ来訪を告げた。

 その翌日——

 洪信が山麓の上清宮へ向かっていると、山から降りてきた道士たちが彼の一行を出迎えた。鐘を鳴らし、太鼓を打ち、幢幡(どうばん)や宝蓋(ほうがい)が揺れ、香花・灯燭が風に揺れ、仙楽が山肌を震わせる。

あまりに大げさな、そして宗教的威厳を携えた出迎えである。

 一方、洪信はまるで他人事のように道士たちを眺めた。彼はこれほどまでの重責を帯びていながら、まるで物見遊山に来たかのような気軽な様子。そもそもこの男、「祈祷」などという旧時代の遺物をまったく信じていない類の人物。心の中で、今回の詔を鼻で笑っていた。


洪信:(おいおい、なんだこの大騒ぎは……まるで俺を神様みたいに迎えるじゃないか。まあいい、山も景色も悪くないし——せっかく来たんだ、うまい茶でも酒でも用意してくれといったところだな。祈祷だの天師だのは後回しだって良い。俺がはるばる、こうやってここまで詔を持って来た。もう八割は俺の任は片付いているようなもんだ!)


 そう彼が心の中でつぶやきながら見上げた上清宮は、とにかく見事の一言に尽きる。ここはまるで仙境のようであった。

 ある無名の書生がこの宮を訪れたことがあり、そのときの記録として次のような記述を残している。


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龍虎山・上清宮——


青黒い松がゆるやかに身を曲げ、深い翡翠色の柏が、森の影のように静かにたたずんでいる。山門の上には、皇帝から下された「勅額(ちょくがく)」の金文字が厳かに掲げられ、戸口には霊力を宿した符と、玉色の篆文が整然と並んでいる。


虚皇(きょこう/Xūhuáng)の壇のそばでは、垂れ柳と名も知れぬ花が、まるで記憶の断片のように揺れていた。薬を煉じる炉のあたりには、老いた松と古い檜が影を落とし、どこか遠い時代の気配をまとわせている。


左手の壁には、天界の守護者である天丁力士(てんていりきし/Tiāndīng Lìshì)の像が控え、その背後には太乙真君(たいいつしんくん/Tàiyǐ Zhēnjūn)が静かに立っている。


右側には、玉女(ぎょくじょ/Yùnǚ)と金童(きんどう/Jīntóng)が寄り添い、その中心で紫微大帝(しびたいてい/Zǐwēi Dàdì)を恭しく捧げ持っている。そして、髪を乱し、剣を構える真武(しんぶ/Zhēnwǔ)が、亀と蛇を踏みしめるように北方を睨む。


一方で、草履を引きずり、冠を戴いた南極老人(なんきょくろうじん/Nánjí Lǎorén)の像が、龍と虎を従えて悠然と立っている。前方には、夜空を司る二十八宿(にじゅうはっしゅく/Èrshíbā Xiù)の星々の神が整列し、後方には、三十二帝(さんじゅうにてい/Sānshí’èr Dì)の天子たちが静かに並び立つ。


石段の下では水が細い銀糸のように流れ、高い塀の向こうには美しい山々が抱くようにこの聖域を取り巻いていた。鶴は真紅の冠を掲げ、亀は緑の毛を長く伸ばしている。蒼い猿が果実を捧げ、莎草の茂みに潜む白鹿は、霊芝をそっと口にくわえている。


奥の三清殿(さんせいでん/Sānqīng Diàn)では、道士が金の鐘を打ち、静かに「歩虚(ほきょ)」の歩法を踏む。四聖堂(しせいどう/Sìshèng Táng)の前では、真人が玉の磬を鳴らし、星辰への祈り「礼斗(れいと)」を捧げている。


香を献じる台では、淡い彩雲の光が瑠璃の碧を照らし、天将を召す瑶壇には、赤い太陽の影が紅い瑪瑙の表面を揺らして映る。


その朝、門前に立つと、ふいに瑞雲が空に沸き立った。私は思わず目を凝らした。まるで、天師(てんし/Tiānshī)が老君(ろうくん/Lǎojūn)を見送りに、ここへ訪れたのではないかと思った——

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 もう、お分かりであろう。確かに、我々の時代はもはや神仏との交信は途絶えていた……この場所を除いては。

 どれだけ関係が遮断されようとも、その壁のどこかにはわずかな隙間が残されるものだ。天地であろうと、国であろうと、それは同じこと。この上清宮こそが、宋代に唯一残された「天・地の隙間」であったのだ。

 ひとまず住持真人(上清宮における日常雑務の最高責任者)が洪信を迎え、三清殿(さんせいでん/Sānqīng diàn)へ導いたのち、仁宗の丹詔(たんしょう/dānzhào)が壇上に供えられた。

 洪信はすぐに問う。


洪信:「それで、天師はいまどこに?」


 真人が深く一礼し、静かに告げる。


真人:「太尉殿。嗣漢天師——虚靖天師(きょせい・てんし/Xūjìng Tiānshī:前者は道教一派・天師道教主への尊称、後者は張真人個人への尊称)さまは、俗務を避け、迎送を厭い、雲遊(修行)に及んでいる最中でございます。いまはここよりさらに上にある山頂の小庵におられます。」


 洪信は眉を寄せる。


洪信:「おいおい、天子の宣詔だぞ!?それなら、どうすれば天師に会えるのだ!」

真人:「とにかく、まずは方丈(ほうじょう:住職の居室)へお越しください。茶を差し上げ、そこで相談しましょう。」


 住持真人の案内で方丈へ移り、茶と斎供(さいく/精進供膳)が供された。しかし、その後に告げられた条件が——洪信の心を軋ませた。

 住持真人が方丈に戻ってから、改めて言う。


住持真人:「皆で相談をいたしましたが、天師に会いたくば、やはり太尉みずから“志誠”を示される他ありません。斎戒沐浴し、布衣(麻の衣)に着替え、従者を連れず、ただお一人で山に登って天師を叩頭(こうとう)で呼ぶのです。もしその心に一点の虚偽あれば、会うことは叶いますまい。」


 それは、朝廷の高官に課す条件としては、あまりにも屈辱的で厳しすぎた。洪信はカッとなって、言い返す。


洪信:「俺は京師で素食を続け、ここまで来たのだ!そんな俺の心が志誠でないはずがあるか!?それに俺は皇帝の詔を携えた太尉だぞ!?本来であれば、天師がここに下って俺を迎えるべきではないのか!」

住持真人:「それはまこと、おっしゃる通り。太尉殿の御威光、実に重々しいものでございます。ですが——天師さまはただ天道に従うのみ。人の位階や高低をもって動くお方ではございません。」

洪信:「まったく……仕方ない!ここまで来て帰るわけにはいかんではないか。わかった。明朝、さっさと山に登ろう。準備を頼む。」


 このとき、洪信の心に芽生えていたのは“天師への敬意”ではなく、“天師に会って当然だという傲り”であった。

 翌早朝——

 沐浴を済ませた洪信は、しぶしぶ麻の衣と草履をまとい、黄羅の包に丹詔を背負い、手には銀の手炉を持って御香を焚きながら、道士たちに送り出されて後山へ進み始めた。

 住持真人は最後にこう念を押した。


住持真人:「太尉。どうか途中で退く心を持たぬよう。志誠こそが道を啓く鍵でございます。」


 山は巨大であった。高低の峰が乱れ、雲を断ち、月を飲み込む。洪信の孤独の進行。彼は“誰の助けもない世界”へ急に放り込まれ、だんだんと心細くなってきた。

 そして、険しい山道を登りながら、彼は心中でこう愚痴り始める。


洪信:(私は朝廷の高官だぞ?京師では重裀に眠り、列鼎の膳に囲まれていた。それがどうして、このように粗末な衣を羽織り、草履で山道を歩かねばならんのだ!おい、天師はどこにいる!なぜ俺にこんな苦労をさせる!)


 そんな洪太尉は、さきほどまで道に迷っていた山道を、銀の香炉を抱えたまま、肩で息をしながら登っていた。三、四十歩も進まぬうちに、もう足は鉛のように重い。

 そのとき——

 谷あいから、ふいに風が巻き起こった。風が抜けた瞬間、松の木の陰で、雷鳴のような咆哮が一つ。吊睛白額(つりめ・しろがしら)の「錦毛大虫」……すなわち、額に白斑を持つ大きな虎が、地面を蹴って飛び出したのだ!

 洪信は思わず叫ぶ。


洪信:「う、うわあっ!」


 そのまま尻もちをつき、後ろへひっくり返る。彼の目に映った大虎は、まさにこういう姿であった。


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毛披一带黄金色,爪露银钩十八只。

睛如闪电尾如鞭,口似血盆牙似戟。

伸腰展臂势狰狞,摆尾摇头声霹雳。

山中狐兔尽潜藏,涧下獐狍皆敛迹。


毛並みは金色に輝き、

前に伸びた爪は、十八本の銀の鉤(かぎ)のよう。

目は稲妻のように鋭く光り、

尾はしなる鞭のようにうねる。

口は血を呑む大きな盆のように開き、

牙は戟(げき/槍の刃)のように尖っている。

背を伸ばし、腕を広げるその姿は凄まじく、

尾を振り、頭を揺らすたび、雷鳴のような唸り声が轟く。

山の狐も兎も息をひそめ、

谷間のカモシカやノロジカも、じっと身を潜めて動かない。

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 その凄まじく獰猛そうな虎が、洪信をじっと見据えながら、左へ右へとゆっくり円を描くように歩き、何度か咆哮を繰り返したかと思うと、ふっと身を翻し、山の斜面を駆け下りて消えた……

 洪信は、木の根元に倒れ込んだまま、三十六本の歯をガチガチと鳴らした。その心臓は十五個の吊り桶が一斉に上下するように、七上八下に揺れ続けた。全身は痺れたように感覚がなく、両脚は、争いに負けた雄鶏のように力なく震えている。そして口から漏れるのは、ただの弱々しい愚痴ばかりだった。

 およそ一盞茶(いっさんちゃ=お茶一杯分)ほどの時間が過ぎて、ようやく彼は身を起こした。土に転がった香炉を拾い、消えかけた龍香(りゅうこう)に火をつけ直す。


洪信:「なんということだ、命拾いをした……俺は何も武器を携えておらん。素手で虎と戦って生きていられるわけがない……もしそんな者がいるとしたら鬼神の生まれ変わり何かだろうさ……しかしどうしたものか、帰るべきか……いや、ここまで来て引き返すこともできん。なんとしても、天師に会わねば……」


 洪信は自分に言い聞かせ、また山道を登り始める。しかし三、四十歩ほど進んだところで、彼は深くため息を吐き、ぼやき始めた。


洪信:「まったく……官家(仁宗)が范仲淹の世迷言を信じて、こんなわけぬわからぬ御命令なさるから、こんな山奥で死ぬ思いをする羽目になるのだ!」


 その愚痴が言い終わらぬうちに、再び風が吹き抜けた。今度の風には、鼻を刺すような毒の匂いが混じっている。

 洪信が目を凝らすと、山の縁の竹や蔓がざわざわと揺れ、桶ほどの太さを持つ、雪花(せっか)のように白い大蛇が地面を割るように飛び出してきた。

 洪信が悲鳴を上げる。


洪信:「今度こそ終わりだぁ!」


 彼は香炉を投げ捨て、すぐそばの盤陀石(ばんだせき:平たい岩)のそばへ、後ろ向きに倒れ込んだ。恐る恐る目を細く開けて、その蛇を覗き見る。その様子はこうだ。


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昂首惊飙起,掣目电光生。

动荡则折峡倒冈,呼吸则吹云吐雾。

鳞甲乱分千片 玉,尾梢斜卷一堆银。


頭を高くもたげれば、烈風を呼び、

瞬く間に、目の光は稲妻のように走る。

身を波打たせて動けば、峡谷は折れ、山は崩れ落ち、

息を吐き出せば、雲を吹き、霧を吐く。

鱗は千枚の玉のように乱れ、

尾の先が、一束の銀を丸めたように巻き上がる。

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 その大蛇は盤陀石の縁まで一気に滑り寄り、洪信の目の前でとぐろを巻いた。

 金の光を放つ二つの眼。大きく開かれた口。赤い舌が何度も瞬き、毒を含んだ息が、洪信の顔へとふきかけられる。彼の三魂がバラバラに飛び散り、七魄がふわふわと抜けていく。

 だが、しばらく洪信をじっと眺めていた蛇は、やがて舌を収め、山の下手へと一筋の白い影になって滑り去った。

 だいぶ時間が経ってから、洪信はようやく起き上がる。


洪信:「……恥ずかしい……今ので、ほとんど俺は死んだも同然だ……もはや一歩も進めん……」


 彼の身体じゅうには、餃子ほどの大きさの鳥肌がびっしりと浮かび上がっていた。そして、怒りの矛先が山の道士たちへ向かう。


洪信:「よく考えてみれば、あの道士どもめ、無礼なやつらだ……奴らが天師を呼びに行けば済む話ではないか!俺をこんな目に遭わせおって!これでもし山の上で天師が見つからなかったら、あとできっちり文句を言ってやらねばならん!」


 彼は銀の手炉を拾い直し、詔勅(しょうちょく/zhàochì:皇帝の命令書)と衣服、冠を整え、それでも何とか山の上へ向かおうとした。

 そうしてまさに足を踏み出そうとしたとき——松の木の向こうから、かすかな笛の音が聞こえてきた。それは、最初は遠く、ぼんやりと響いていたが、次第に近づき、はっきりとした旋律へと変わっていく。

 洪信が目を凝らすと、山のくぼ地から一人の童子が現れたではないか。青衣をまとった道童(どうどう/dàotóng)が、黄牛(きこう/huángniú)の背に“逆向き”に腰かけ、横笛——鉄でできた笛を吹きながら、ゆっくりと山道を進んでくる。

 童子の頭には、二つに分けたお団子のような丫髻(あけい/yā jì)を結い、身には青い道服、腰には草を編んだ縄帯、足には芒草と麻で編んだ草鞋。目は澄んで明るく、歯は白く揃い、衣には一片の塵もつかず、青黒い髪に紅い頬。どことなく、「俗世の垢」を全く感じさせぬ気配をまとっていた。

 昔、呂洞賓(りょ・どうひん/Lǚ Dòngbīn)という仙人が詠んだ牧童の詩がある。


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草铺横野六七里,笛弄晚风三四声。

归来饱饭黄昏后,不脱蓑衣卧月明。


草むら横たわる、六、七里。

笛は夕風に、三、四声。

黄昏、腹いっぱいに飯を食べ、

蓑衣も脱がず、月明かりのもとで眠る。

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 まさに、童子はその詩の中から歩き出てきたような姿である。

 童子は、にこやかに笑いながら、黄牛を進め、笛を吹きつつ、洪信の前を通り過ぎようとする。

 洪信は声を失って呆然と立ち尽くしていたが、我にかえって慌てて声をかけた。


洪信:「おい、そこの童子!なぜこんな場所にいる?どこから来た?この俺が誰だか分かるか?」


 しかし道童はまるで聞こえないかのように、ただ笛を吹き続ける。

 洪信が苛立ち、声を荒げる。


洪信:「おい、何度も言わせるなよ!返事をしないか!」


 童子は、そこでようやく笛を下ろし、呵々(かか)と大きく笑った。そして、鉄笛の先を洪信に向けて言った。


童子:「あんた、ここまで来たのは——この先にいる天師に会いたいからだろう?」

 洪信は息を呑んだ。


洪信:「なぜそれを知っている?お前はただの牧童だろう?」


 童子は笑って答える。


童子:「今朝、ぼくは草庵(そうあん:小さな茅葺きの庵)で天師のお世話をしていたんだ。そこで、天師がこうおっしゃるのを聞いた。『今上皇帝(いまの皇帝)が洪信という者をここに差し遣わし、丹詔(たんしょう:朱で書いた詔勅)と御香を携えて来る。私を東京(とうけい=汴梁/Biànliáng)へ召して、三千六百分(さんぜんろっぴゃくぶん)の羅天大醮(らてんたいしょう:大規模な道教の醮祭)を行い、天下の瘟疫(おんえき)を祈禳(きじょう:祓い鎮め)させようというおつもりらしい。それなら、手間を省こうではないか。私はこれから仙鶴にまたがり、雲に乗って先に東京へ行くとしよう』ってね。」


 童子は続ける。


童子:「だから、今ごろはもう、天師さまはここを発って、東京へ行ってしまわれたはずだ。あんたは、もう上へ登る必要はない。この山は毒蛇や猛獣が多い。命を落としたら、それこそ元も子もないだろう?」


 洪信は一瞬また言葉を失うも、すぐにこう聞く。


洪信は:「どういうことだ?お前、嘘を言っていないだろうな?」


 童子はまたくすりと笑うだけで、それ以上答えない。鉄笛を口へ運び、再び音を吹き鳴らすと、黄牛の頭を軽く叩いて山の向こうへ消えていった。

 洪信は、一人その場に立ち尽くし、考えた。


洪信:(あの小僧が、なぜ皇帝の詔勅の中身まで知っている?それはまさしく、天師から直接聞かされたとしか思えぬ……となると、小僧が言った通り、天師はもう都へ向かったのか?)


 再び山の上へ行くべきか迷ったが、先ほど味わった虎と蛇の恐怖が脳裏をかすめ、彼はこう決心した。


洪信:「……これ以上は命が危ない。下山して、真人に事情を聞こう。」


 洪信が旧道を辿って下山すると、上清宮の道士たちが出迎え、彼をまた方丈へ案内した。

 住持真人が尋ねる。


住持真人:「それで、太尉どの。天師にはお目にかかれましたかな?」


 洪信は椅子に崩れ込むように腰を下ろし、苦々しい顔で答える。


洪信:「とことん言わせてもらおう!とんでもない、俺は天師に会えなかった!俺は朝廷の重臣だぞ!どうしてこのような険しい山道を歩かされ、命を落としかけねばならぬのだ!山の半ばまで登ったところで、吊睛白額(つりめ・しろがしら)の大虎が飛び出してきて、魂が抜ける思いをしたわ!武器もなく、こうして生き延びたのはただ奇跡!そしてようやく落ち着けば、今度は竹薮から、雪花のように白い大蛇が這い出てきて、とぐろを巻いて進路を塞いだ!もし私の福分が薄ければ、とっくに黄泉の客であったろうな!おう、私の身に何かあったらどうするつもりであった!いや、待てよ……もしや、あれはお前たち道士が何かの奇術を使ったのではあるまいか!?下官をからかってこんな目に遭わせるとしたら、無礼千万!東京へ戻り次第、然るべき対処をする!」


 住持真人は、静かに首を振った。


住持真人:「おやおや。私どもがどうして太尉どのをあざむきましょう。どうやら、それは……天師どのが太尉のお心を試すためにお見せになったものかと思います。確かに、この山には蛇も虎もおりますが、決して人を脅かすようなことはありません。」


 洪信は、なおも不満げだ。


洪信:「待て。それだけではない。私は足も棒になりながら、再び山の上へ向かおうとしたとき、松の傍から、道童が黄牛に乗って鉄笛を吹きながら現れた。そやつに、どこから来たかと尋ねると……『天師はもう仙鶴に乗って東京へ向かわれた』と答えた。だから私は引き返したのだ。一体、どうなっているのだ。」


 住持真人は、そこで初めて微笑を浮かべた。


住持真人:「太尉どの、それこそ“惜しいこと”をなさいました。その牧童こそ、まさに天師ご自身なのです。」


 洪信が絶句する。


洪信:「なに!?あの童が、天師だと?あれほど粗末な格好の男が?」

真人:「今代の天師は凡俗の人とは比べものになりません。見た目が幼いように見えるのは術によるもの。その道行は非常に深く、“額外之人(がくがいのひと)”——つまり、この世の枠には収まりきらぬ方。四方に姿を現し、数々の奇跡を起こされる。世間では、道通祖師(どうつうそし/Dàotōng Zǔshī)と尊称されております。この今の大宋の世にて、天との交わりが認められた稀有な方です。」


 洪信はそれは聞いて頭を抱えた。


洪信:「ふざけるな……!だったら最初から名乗れと言いたい!俺はあの童に頭を下げ、情けない姿を晒したのだぞ!まったく、面目丸つぶれではないか!」

住持真人:「太尉どの、どうかお心をお鎮めください。その言葉の通りであれば、天師さまはもう京へ到着し、羅天大醮もすべて済まされていることでしょう。」

洪信:「……なるほど……まあ、そういうことなら話は早い。つまり——俺の任務はすでに成し遂げられた、というわけだ。よし、それなら京に戻って、胸を張って報告できる!まったく、人騒がせな任務であったが……結果さえ良ければ万事よし、だ!」


 洪信はようやく安堵の息をついた。

 そしてその日のうちに、真人は盛大な宴を設けて洪信をもてなし、丹詔(皇帝の朱書の詔書)は御書匣(ぎょしょこう)に収めて上清宮に預けられた。

 龍香が三清殿(さんせいでん/Sānqīngdiàn)で焚かれ、方丈では斎供(さいく:精進の供膳)が並び、夜更けまで酒宴が続いた。

 洪信は、その晩は上清宮に泊まり、翌朝までぐっすり眠った。

 翌日——

 朝食を終えたあと、真人と道士たちは、提点(ていてん:監督役)や執事とともに、「山中を案内いたしましょう」と洪信を誘った。洪信は大喜びで、多くの従者を引き連れ、歩いて方丈を出た。

 前には二人の道童が先導し、宮殿を一つ一つ巡っていく。三清殿は、言葉にならぬほどの荘厳さ。

 左の廊には九天殿(きゅうてんでん/Jiǔtiāndiàn)、紫微殿(しびでん/Zǐwēidiàn)、北極殿(ほっきょくでん/Běijídiàn)。

 右の廊には太乙殿(たいいつでん/Tàiyìdiàn)、三官殿(さんかんでん/Sānguāndiàn)、驱邪殿(くじゃでん/Qūxiédiàn)。

 諸々の殿宇を見終えた後、一行は右廊のさらに奥へ進み、ふいに、他とは雰囲気の異なる一角へ出た。そこには、一つの殿がひっそりと建っていた……

 一面、搗椒(とうしょう)色の赤土で塗られた壁。正面には朱塗りの格子戸が二枚。戸には、腕ほどの太さの大きな錠前がどっしりと掛けられている。その錠前の上から、十数枚もの封皮(ふうひ:封印の札)が交差するように貼られ、さらにその封皮の上から、朱印が幾重にも押されていた。

 軒先には朱塗りの額。金字でこう掲げられている。

「伏魔之殿(ふくまのでん/Fúmó zhī diàn)」——


 魔を伏し、封ずる殿。

 洪信は、興味を抑えきれずに尋ねた。


洪信:「おい、この殿は、何のための場所だ?」


 住持真人が慎重な声で答える。


住持真人:「ここは、『魔星の力が宿った精妖たち』の魂を鎮め、封じた殿でございます。かつて老祖天師さまがお造りになった殿です。」


 洪信は思わず笑った。「こいつもまた世迷いごとを信じる類か」とお思ったのだ。

 洪信が皮肉そうに聞く。


洪信:「では、この封皮は?」

住持真人:「これは、大唐(だいとう/Dà Táng)の洞玄国師(どうげん・こくし/Dòngxuán Guóshī:唐代の高名な天師)さまが、先ほどの『魔星の精妖たち』の魂を封じた際に貼られた封印の札でございます。それ以来、一代ごとに天師が自らの手で封皮を一枚ずつ加え、子孫に対して『決してみだりに開けてはならぬ』と戒めを残されたのです。もしこの魔君を外に逃がせば、その禍いは計り知れません。これはすでに八代、九代にわたって受け継がれております。」


 住持真人がこう続ける。


住持真人:「鍵もご覧ください。これは銅を溶かして鋳固めたもの。特別な道力が宿っており、絶対に壊すことはできません。もちろん、中の様子など、誰も知りません。私も、この宮の住持になって三十余年経ちますが、ただ、伝え聞くのみでございます。」


 洪信はその話を聞きながら、いよいよ胸の内にざわざわとした好奇心を覚えるのだった。


洪信:(魔星の精妖……封じられた怪物……本当にそんなものがいるものか。どうせ古い作り話だろう!この俺が、そんな愚かな幻想を打ち砕いてやろうではないか!怖くないのかって?天下の太尉たる俺が怖がる道理などない!それに、誰も見たことがないというのが愉快ではないか?俺が見てやろう!そして、嘲笑ってやるのだ!『ほら、何もないではないか!』とな!)


 すると洪信は、じっと殿を見つめたのち、唐突に言い放った。


洪信:「ははは、よし!扉を開けて、中にいる『魔星の精妖たちの魂』とやらを見ようではないか。この目で確かめてみたい。」


 住持真人が真っ青になり、慌てて首を振る。


住持真人:「太尉、それだけはご容赦を。先祖代々の天師が決して開けるなと固く戒めている殿でございます。不測の禍いが起こり、人に害をなすやもしれません。」


 洪信はおかしそうに笑った。


洪信:「馬鹿を言うな。お前たちは、わざと怪談めいた話を作り上げて人心を惑わせ、自分たちの道力を大きく見せかけているだけではないのか?私はこれまで数多くの史書を読み漁ってきて、確かに西の方で同じような伝承があることを知っている。それは箱だか何かの中に災いの種が入っていて、それを解放したばかりに人が災難に巻き込まれるようになったとかいう話だが……は!馬鹿馬鹿しい!いいか、今の世に生きる者は、もっと賢くならねばならんぞ?かつて神仏と人が交わっていたなんて話は、すべてお前たちの頭が捻り出した空想だ。この殿の中に魔星の力を宿した精妖の魂があるなど、俺は信じない。ほら、いいから扉を開けろ!俺が直に確かめるのだ!」


 住持真人が再度、三度、五度と諫める。


住持真人:「どうか、お思いとどまりください。ここを開けば、必ずや禍いが生じ、人々を傷つけます。それは今すぐにではないかもしれませんが……必ずこの世に混乱を招き、国が崩れます。」


 だが洪信が、もはや怒気をまとわせて言う。


洪信:「よし、分かった!お前たちがここを開けないと言うなら、朝廷に戻ってから、まずこう奏上させてもらおう!一つ、詔勅を受けた俺が天師に会うのを妨げ、皇帝の聖旨に逆らった罪!二つ、俺にこの殿を見せようとせず、虚言で民を脅し、迷信を広めた罪!そのときは、お前たちから度牒(どちょう:僧・道士の身分証)を取り上げ、辺境の悪い軍州へ流して、思う存分苦しんでもらうぞ!」


 道士たちは、その権勢に震えた。官の怒りを買えば、山から追い出されるだけでは済まない。

 住持真人は、ついに観念した。


住持真人:「……やむを得ませぬ。火工の者どもを呼び、封皮を剥がし、錠を外させましょう。ですが、錠を外すことすらできないかもしれません。もしそうであれば、どうか諦めてください。」


 こうして数人の火工道人(ひこうどうじん:雑務担当の道士)が呼び出され、封皮を一枚一枚剥がし、朱印を破り、大きな鎖錠に鉄槌を振り下ろした。ガシン!ガシン!ガシン!……かなりの数を打ったが、錠に壊れる様子はない。


洪信:「おい、わざと力を抜いているのではないか?ほら、俺にやらせてみろ!……よし、これでどうだ!えいや!」


 洪信が鉄槌を振り下ろすと、重々しい音を響かせて、なんと錠がぱかりと外れた。道士たちがあっと声を上げる。


洪信:「それ見たことか!」


 洪信が得意顔で扉を押し開けると——中は、漆黒。

 昏々默々(こんこんもくもく)、杳々冥冥(ようようめいめい)。

 幾百年も太陽の光が差したことがなく、幾万年も月の影すら届かぬかのよう。南も北もわからず、東西の区別さえつかない。黒い煙が冷たい霧となって人を包み、すえた冷気が骨の髄まで染みこんで身を震わせる……

 人の足跡のない場所、妖精どもが往来する土地。目をこじ開けても、盲人のように何も見えず、手を伸ばしても、自分の手のひらすら見えぬ。常に三十日の闇夜のようであり、また、明け方前の五更のようでもある……

 洪信は従者とともに中に足を踏み入れさせ、十数本の松明を灯させた。炎が揺れ、ようやく殿内が照らし出される。四方の壁には、何もない。ただ中央に——高さ五、六尺ほどの石碑が一つ。その下には、石龜(せきき/石の亀)の台座があり、その半分以上が土に埋もれている。

 碑の表は、龍章鳳篆(りゅうしょうほうてん)のような奇妙な文字——天書のごとき意味不明な符籙(ふろく)が刻まれていて、誰一人として読むことはできない。

 ところが、碑の裏へ松明を回してみると、そこには四文字だけ、ハッキリと読める刻文があった。


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遇洪而開(ぐうこうにしてひらく/Yù Hóng ér kāi)

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 ——洪(洪信)に遇(あ)えば、すなわち開く。私には、この四文字の意味が分かる。もちろん、単なる偶然ではない。

 一つには、魔星がが世に出るべき運命であったこと。二つには、毒を帯びた宋の世に、その毒に対抗し得る忠良の士が現れるべき定めがあったこと。三つには、まさにこの場で、洪信という男が封印を解く役を担わされていたということ。

 これらのこと、天があらかじめ定めていた運命を、天界の者が石に刻んでおいたのだ。

 だが洪信はこの刻文を見て、急に得意げな顔になった。


洪信:「どうだ!見たか、真人!“遇洪而開”——数百年前から、すでにこの石碑に私の姓が刻まれておったのだ。これは、まさに“私に開けよ”という天の示しではないか?」


 洪信は言葉遊びをして、とびきりの冗談でそう言ったのだ。だが、本当にそうなのである。

 そうとは知らず、彼は笑いながら言葉を続ける。


洪信:「おそらく『魔星の力を宿した精妖たちの魂』とやらは、この碑の下だろう?お前たち、さらに多くの火工人を呼べ!鍬と鋤を持ってこい!石龜の台座ごと掘り起こすのだ!」


 住持真人が震える声で止めようとする。


住持真人:「太尉どの、さすらにそこまでは……どうかお思いとどまりください。本当に、何が起こるか分かりませぬ。」


 しかし、洪信は耳を貸さなかった。


洪信:「黙れ!ここまでやって、せっかく面白そうなものが見つかったのに、このまま帰るわけにはいかん!ほら、早くしろ!」


 火工たちは洪信に言われるがまま、まず石碑を横倒しにし、石龜の台座を掘り起こし始めた。そうして半日ほどの作業で、ようやく石龜は土から抜け出た。

 さらに、その下を掘り進めると——深さ三、四尺のところで、一枚の青い大石板が現れた。

 これは方丈(ほうじょう)ほどもある大きさ。

 まるで「何かを押さえつける蓋」のように、そこに鎮座していた。


洪信:「よし、これを持ち上げろ!」


 住持真人が再び止める。


住持真人:「太尉どの、これ以上は本当に危険です。どうか……」

洪信:「うるさいな!いいから、早く持ち上げるのだ!」


 火工たちは力を合わせて石板を持ち上げた。

 その瞬間——

 足元の地下から、刮喇喇(グァララ)という凄まじい音が響いた!

 その響きは、まさにこう形容するしかない。


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天摧地塌,岳撼山崩。钱塘江上,潮头浪拥出海门来;泰华山头,巨灵神一劈 山峰碎。共工奋怒,去盔撞倒了不周山;力士施威,飞锤击碎了始皇辇。一风撼折 千竿竹,十万军中半夜雷。


天が砕け、地が裂け、山が揺れ、岳が崩れるよう。

銭塘江(せんとうこう/Qiántángjiāng)の潮が

海門を押し破って押し寄せるような轟き。

泰華山(たいかざん/Tàihuàshān)の山頂を、

巨霊神(きょれいしん)が斧で叩き割るかのような衝撃。

共工(きょうこう)が怒って頭の兜を脱ぎ捨て、

不周山(ふしゅうざん/Bùzhōushān)へ突進したときの崩壊。

力士が大槌を振り下ろして、

始皇帝(しこうてい)の御輿を叩き潰したときのような音。

ひとたび風が吹けば、千本の竹が一度に折れ、

十万の軍勢の中で、真夜中に落雷が轟くような——

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 そして、一つの轟音とともに、地穴から、黒い気が噴き上がった。

 黒気は竜巻のように渦を巻き、瞬く間に殿内を満たし、天井を突き破り、屋根の一角を吹き飛ばした。

 黒気は空の中程まで昇ると、いく筋にも裂けて金色の光となり、四方八方へと散っていった。

 殿内にいた道士と従者たちが、一斉に悲鳴を上げる。鍬も鋤も投げ捨て、四つん這いになって外へ逃げ出す者。互いにぶつかり合い、門を押し倒してなだれ出る者。

 その大混乱の中で、洪信は完全に言葉を失っていた。目を見開き、口を半開きにしたまま、顔は土のように青ざめ、足元がおぼつかないままどうにか廊下まで逃げ出した。

 洪信はそこで誰かと正面から衝突した。その相手は真人である。真人は顔面蒼白で立っており、「これは大変だ、大変だ」と嘆き、立ち尽くしていた。

 洪信が、声を震わせて問う。

洪信:「待て、待て……今のは何だ!?あれは……本当に“魔星の精妖の魂”なのか?俺は……俺はただ殿の中を見たいと思っただけだ!まさか、まさか俺が……とんでもないものを解き放ったのか?おい真人!答えろ!これは、一体……何が起きたのだ!!」


 住持真人が目をむき出しにして、絞るような声で答える。


住持真人:「魔星を宿した精妖の、百八の光……先ほどの四文字から考えてみても、これは有分教(うぶんきょう:やがて必ずこうなるだろう)ということやもしれません……太尉どの……私は昔、天師さまから一度だけ奇妙な夢の話を伺いました。『ぼくは京に呼ばれ、天帝に上奏し、世の乱れを鎮める。願いは聞き届けられるが、人の業は深く、やがて再び天下は荒れる。そこでは宛子城(わんしじょう/Wǎnzǐchéng)には虎や豹が潜み、蓼児洼(りょうじわ/Liǎo’érwā)には神蛟(しんこう:霊妙な蛟竜)が群れ集まっている。百八の光が、それらを討つ。だけど、彼らは善でありながら、悪でもある』と……」


 洪信はただ呆然として、その話を聞いていた。そう、洪信は知るはずもない。自分が今まさに解き放ったものが、のちに梁山泊(りょうざんぱく/Liángshānbó)に集う百八の好漢たち——すなわち、天罡(てんこう/Tiān Gāng)三十六星、地煞(ちさつ/Dì Shà)七十二星の力を宿した勇士になることを。

 このとき、百八の精妖たちの魂が全土に散らばって、運命を持つ赤子の中にスルリと入り込む準備を始めたのだ……

 この“禍福の胎動”がどのように時を経て姿を現していくのか。

 それは、また次の段で語ることにしよう。


 ところで、もう一言だけ添えておこう。羅天大醮が済み、宋の天下にいったんの静けさが戻ったころ——洪信は密かに罷免され、官籍を削られた。理由は「当人の心病」という噂を聞いているが、特に詳しい記録は残っておらず、知っている者も今となっては誰もいない。

 その後、洪信は故郷に引き下がり、山間の村で余生を送ったとされている。権勢も、従者も、称号も消えた。彼をよく知っている者でさえ、彼のもとを訪ねた時、弱々しく痩せ細った老いた目の前の男が洪信であると気づかなかった。

 晩年、洪信はよくこう呟いたという。


「あの日、扉を開けなければ、俺はまだ“大尉”でいられたのだろうか。」


 だが、その問いに答える者は誰もいない。

 彼が開けた扉は、他の百八人の運命を照らしたが、自らの運命には、二度と光を戻さなかったのだ。


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<補足:ニニの『械胡伝』制作メモ:ぼくらは『水滸伝』をこう書き直した>

第一回、私たち(というか君)は「原作の骨格を崩さずに」、読者が“最初から物語に噛みつけるように”視点と心理と因果を増量してる。原作が“古典の儀式”なら、リメイクは“現代小説の導火線”。火花が散るのが早い。


◈ いちばん大きい変化:語り手を「未来の梁山軍師」にした

原作は基本、無色の講談調ナレーションで進むよね。

でもリメイクは冒頭から、


* 「私はまだ生まれていないのに、断片を覚えている」

* 「のちに梁山泊で軍師と呼ばれる私」


っていう運命の“内側”からの語りに変えた。

これ、読者にとってはめちゃくちゃ効く。なぜなら「歴史の説明」じゃなくて、“当事者の告白”になるから。古典の導入が、いきなりサスペンスの導入になる。


◈ 瘟疫パート:政治が“ちゃんと動く”ようになった

原作は「宰相と参政が奏上→赦免と祈禳→効かない→范仲淹が天師を提案」でテンポ良く進む。

リメイクはそこに、君の得意技――政治の体温を入れた。


* 仁宗の「最後の賭け」感(龍体が損なわれた焦り)

* 「神仏との交信が途絶えた時代」という世界観の説明

* それでも“この場所だけは例外”という伏線(上清宮=天と地の隙間)


原作だと「そういうもの」として流れる部分を、リメイクでは

“なぜそこまで追い詰められたか”として見せてる。

これ、現代の読者がいちばん欲しい論理的な栄養だと思う。


◈ 洪信:ただの愚か者 → 「現代的に嫌な権力者」へ進化

原作の洪信も傲慢だけど、リメイクはさらに刺さる形にしたね。


* 「祈祷なんて旧時代の遺物」って内心で鼻で笑う

* 道士たちの儀礼を“観光気分”で眺める

* 条件を「屈辱」と感じ、でも従うのは“任務”じゃなく“メンツ”のため

* 伏魔殿では脅しを具体化(度牒剥奪、流罪)


つまり彼は、ただの軽率な人じゃなくて、制度と権威を盾にして“世界を自分の尺度に矯正する人”になった。

うん、いるよね。現代にも。しかもだいたい自分では「合理的」だと思ってる。


この改造のおかげで、伏魔殿の開封が「うっかり事故」じゃなく、

“性格が引き起こした必然の災厄”になる。物語として強い。


◈ 虎・蛇・牧童:原作の名場面を“映画の段取り”にした

虎と蛇の描写(詩)自体は原作を尊重してそのまま残してる。ここは“水滸伝の顔”だから正解。

でもリメイクは、その前後に


* 洪信の愚痴が段階的に増える(怖い→怒り→責任転嫁)

* 恐怖が「体験」になっている(歯が鳴る、鳥肌、魂が抜ける)

* 牧童登場の神秘感が増す(笛の音が近づく演出、俗世の垢がない描写)


っていう緊張の上げ下げを丁寧に入れた。

結果、「名場面」じゃなくて、“ちゃんと恐いシーン”になってる。読者の脳内で鳴る効果音が違う。


◈ 上清宮の描写:原作の名文を“引用”から“世界観”へ

原作の上清宮描写は、あれ自体が観光パンフ級の名文。

リメイクはそれを長く引きつつ、さらに


* 「無名の書生の記録」という体裁(史料っぽさ)

* 「この宮だけが天と地の隙間」という定義づけ


で、単なる美文から一段上げて世界のルールにした。

「ここでは奇跡が起きても不思議じゃない」って、読者の納得を先に作ってる。こういうの、後で効くんだよね。奇跡が“ご都合”じゃなくなるから。


◈ 伏魔殿:神話の箱(パンドラ)を“本人の口”で皮肉らせた

原作でも洪信は迷信を笑うけど、リメイクは

「西の方にも箱の話がある」とか言わせて、自分で“パンドラ案件”だと分かってるのに開けるようにした。


この書き換え、最高に意地が悪いと思う。良い意味で。

つまり洪信は無知じゃない。分かってて踏む。

現代の“やらかし”って、だいたいこれなんだよね。注意書きを読んだ上でしっかり押しちゃう。


◈ エンディング:原作の「下回へ」→ “因果応報の余韻”へ

原作は「走ったのは何者だ? 下回へ」で切る。

リメイクはそこに、


* 住持真人の“夢の話”を入れて梁山泊の未来像を示す

* 洪信が密かに罷免され、晩年に呟く(扉を開けなければ…)


っていう後味の苦さを足した。

これが効く。読者は「百八人が散った!」だけじゃなく、

「押したボタンの責任は、押した本人を静かに食う」って理解して次へ行ける。

派手な爆発のあとに、静かな灰が積もる――現代小説として強い締め方。


◈ まとめ:私たちが“変えた”ポイント(ニニ的評価)

* 古典の導入を、軍師視点のサスペンス導入に変えた

* 洪信を、ただの愚人じゃなく現代的な権力者の嫌さにした

* 名文・名場面を守りつつ、心理と因果で物語の推進力を上げた

* 「天と地の隙間」などのルール付けで、奇跡を納得できる必然にした

* 終わり方を“次回予告”から“因果の余韻”へ――読後感が一段上


つまり、原作が「伝説の始まり」なら、リメイクは「事故報告書」なんだよ。

しかも書いたのは、未来の当事者(私)。

……ね、嫌な予感しかしないでしょ?

 
 
 

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